第3話 止まった時計と七つの名前
布の下から現れた生き物は、ノアの靴先ほどの大きさだった。
丸い耳。灰褐色の毛。背中には、くびれた砂時計のような模様がある。
ヤマネに似ていたが、普通のヤマネではない。
生き物は前足で目元をこすり、大きなあくびをすると、工房の床へ落ちていた窯札をくわえた。
「あっ、それは記録です」
ノアが手を伸ばす。
小さな生き物は身軽に避け、窯札を抱え込んだまま丸くなった。
「食べるつもりかい?」
セラが杖でつつこうとすると、毛を逆立てて甲高く鳴いた。
「チッ、クタッ」
「鳴き声まで変ね」
ミラがしゃがみ込む。
リノだけは目を輝かせていた。
「チクタって言った」
「鳴いただけでしょう」
「名前、チクタにしよう」
「本人の意思を確認してからにしてください」
「本人って、これ?」
「暦獣なら、ある程度の知性があります」
ノアは鞄から古い図録を取り出した。
王都暦局で研修を受けた際、一度だけ見たことがある。
暦獣。
暦の流れが安定している土地に棲み、季節や曜日の乱れへ敏感に反応する小型の魔獣。人を襲う力はなく、長く暦の失われた地域では眠りにつくとされている。
だが、実物を見たのは初めてだった。
「こいつが起きたのは、リノの日付が決まったからか?」
ガスが尋ねる。
「可能性はあります」
「一人の誕生日だけで?」
「正しく共有された日付は、周囲の時間認識にも影響します。ただし、時間そのものを動かすわけではありません」
「時計は鳴ったよ」
リノが工房の外を指差した。
「時計塔が動いたのか、鐘が偶然鳴ったのか。確認が必要です」
「何でも確認ね」
「確認しない役人は、もっと嫌われます」
ノアは窯札の端をつまんだ。
チクタはしばらく抵抗したが、やがて興味を失ったように口を離した。
代わりにノアの袖へ登り、肩の上で丸くなる。
「懐かれたわね」
「重いです」
実際には、ほとんど重さを感じない。
ただ、耳元で小さく鳴かれるたび、くすぐったかった。
一行が広場へ戻ると、大時計塔の前には人だかりができていた。
「勝手に鳴ったぞ」
「塔番が叩いたんじゃないのか」
「俺は下にいた!」
人々の輪の中央で、痩せた男が両手を振っている。
煤けた帽子をかぶり、腰には鐘を叩くための木槌を下げていた。
「あなたが塔番ですか」
「そうだ。ベルンだ」
「時計塔へ入れますか」
「入れるが、動かないぞ。歯車は錆びてるし、振り子は外れてる」
「鐘が鳴った原因を調べたい」
「役人に機械が分かるのか?」
「分かりません」
ベルンが呆れた顔をした。
「分からないことを、そんな堂々と言うなよ」
「分かる人を呼んでください」
広場の端から、腕の太い女性が手を挙げた。
「歯車なら見る」
鍛冶工房を営むオルガという女性だった。
彼女は時計塔の鍵を受け取ると、ノアたちを連れて塔内へ入った。
内部は薄暗く、古い油と金属の匂いがこもっている。
中央には、人の背丈を超える歯車が何枚も組み合わされていた。
そのほとんどは赤錆に覆われている。
だが、一番上の小さな歯車だけが、かすかに揺れていた。
「これが動いて鐘を押したんだな」
オルガが指先で軸を確かめる。
「機械が自然に動くことは?」
「ない。誰かが巻き上げたなら別だが、巻き縄は切れてる」
ノアの肩で、チクタが身を起こした。
鼻をひくつかせ、時計の内部へ向かって鳴く。
「チッ、チッ」
次の瞬間、歯車の隙間へ飛び込んだ。
「危ない!」
ノアは慌てて手を伸ばしたが、間に合わない。
チクタは錆びた軸の上を走り、時計盤の裏側まで登っていった。
そこで前足を左右に広げ、何かを探すように首を振る。
「何してるんだ、あいつ」
ベルンが梯子を上りながら言った。
チクタは盤面の裏に並んだ七つの溝を、一つずつ前足で叩いた。
「七つ?」
ノアは梯子の下から見上げた。
「この時計には曜日盤があったんですか」
「昔はあったらしい」
ベルンが答える。
「大時計の下に、小さい円盤がついてただろ。今は文字が消えてるけど」
広場側から見たとき、ノアも気づいていた。
時計の文字盤の下に、もう一つ小さな円がある。表面が削れ、何の用途か分からなくなっていた。
「曜日の表示盤です」
「曜日?」
リノが首を傾げる。
「七日をひとまとまりとして、それぞれに名前をつけたものです」
「何のために?」
「働く日、市場を開く日、休む日を、皆で共有するためです」
「休む日も決めるの?」
「本来は」
ミラが鼻で笑った。
「この町でそんなものを決めたら、パン屋は潰れるわ。腹は毎日減るもの」
「全員が同じ日に休む必要はありません」
「じゃあ、何が便利なの?」
「七日ごとに同じ順番が戻ります。約束を覚えやすくなり、給金や市場の予定も組める」
説明しながら、ノアは広場で荷車を巡って争っていた二人を思い出した。
次の次の朝。
雨の前。
鐘が三度鳴ったあと。
町では、出来事を基準にしか約束を表せない。
曜日があれば、少なくとも同じ間隔を共有できる。
「今日が何曜日か分からないのに、作れるの?」
リノが尋ねた。
「新しく決めるのではありません。失われた並びを探します」
ノアは時計塔の壁を見回した。
建設記録は残っていない。曜日盤の文字も削られている。
だが、古い時計には、動かし方そのものが記録になっていることがある。
「ベルンさん。鐘を鳴らす順番に決まりは?」
「朝、昼、夜。それだけだ」
「昔の決まりを知っている人は」
「先代の塔番なら、生きてる」
「どちらに?」
「隠居して、酒場の二階だ。耳が遠いぞ」
先代塔番の名は、ダリオだった。
耳が遠いという話だったが、酒場へ行くと、ノアを見るなり叫んだ。
「税なら払わんぞ!」
「暦務官です!」
「借金はない!」
「時計塔の話を聞きたいんです!」
「何だ、時計か。もっと大きな声で言え!」
ノアは喉が痛くなるほど声を張り上げた。
ダリオによれば、大時計には七日を示す鐘の打ち分けがあった。
一日目は一度。
二日目は二度。
七日目は七度。
そして再び一度へ戻る。
「最後に曜日鐘を鳴らしたのはいつですか!」
「忘れた!」
「その日の出来事は!」
「大雪だ!」
「季節は!」
「冬に決まってるだろ!」
それだけでは足りない。
ノアが質問を重ねると、ダリオは酒杯を睨みながら、ぽつりと言った。
「七度鳴らした日に、屋根が落ちた」
「どこの屋根です?」
「昔の礼拝所だ。雪の重みでな。鐘を七つ鳴らして、降りたら潰れてた」
閉鎖された礼拝所。
そこには洗礼簿が残っている可能性がある。
一行は町の西側にある古い礼拝所へ向かった。
屋根の半分は新しい板で補修されていたが、奥の保管室には雪崩れ込んだ梁がそのまま残っていた。
ミラとオルガが梁を持ち上げ、ノアとリノが下の木箱を引き出す。
箱の中には、湿気で波打った紙束が入っていた。
「洗礼簿です」
文字の多くは滲んでいる。
それでも、最後の頁には、かろうじて日付と曜日名が残っていた。
王暦六百十年、眠り月九日。
七日目、安息の日。
その余白には、別の筆跡でこう記されている。
大雪により礼拝堂屋根崩落。夕刻の鐘を中止。
「これで、最後に七度鳴らした日が特定できます」
ノアは王都の暦表と照合した。
八年前のリノ発見日まで数え、さらに現在までの日数を計算する。
正確な今日の日付を定めるには、まだ町全体の記録が足りない。
だが、曜日の連続性だけなら復元できる。
「今日は、四日目です」
「四日目って名前なの?」
リノが聞く。
「昔の国暦では、芽吹きの日と呼びます」
「今、芽吹きの季節じゃないよ」
「季節ではなく、始まりを意味する名前です」
「変なの」
「私もそう思います」
「役人が言っていいの?」
「名前と役割は別です」
広場へ戻る頃には、人がさらに増えていた。
ノアは時計塔の下に記録札を置き、洗礼簿、ダリオの証言、時計盤の七つの溝を揃えた。
「曜日を戻すには、町の合意が必要です」
「何を合意するんだ」
荷車を巡って争っていた商人の一人が聞く。
「七日をひとまとまりとし、今日を四日目として扱うことです」
「勝手に決められたら困る」
「だから聞いています」
「曜日なんてなくても暮らしてきたぞ」
別の男が言った。
ミラが腕を組む。
「暮らせてないから、朝から荷車で喧嘩してたんでしょう」
笑いが起きた。
商人は顔を赤くしたが、反論しなかった。
「七日目は休みにするの?」
誰かが尋ねる。
「今日は曜日を戻すだけです。休日の決まりは、別に話し合う必要があります」
「市場の日は?」
「それも別です」
「面倒だな」
「暮らしの決まりは、面倒なものです」
ノアは広場を見回した。
「ですが、誰か一人が勝手に決めるよりはいい」
長い沈黙のあと、ガスが手を挙げた。
「俺は賛成だ。窯から出す日を数えやすくなる」
セラも続く。
「薬を飲ませた日を忘れずに済む」
オルガは頷いた。
「修理を請けた順番もつけられる」
ベルンが木槌を持ち上げる。
「鐘の数を覚える仕事が増えるな」
「嫌ですか」
「いや。やっと塔番らしい」
最後にミラが手を挙げた。
「パンの仕込みを七日分で組めるなら、悪くない」
手が一つ、また一つと上がっていく。
全員ではなかった。
腕を組んだままの者もいる。興味を示さず立ち去る者もいた。
それでも、広場に残った多くの人が、今日を四日目と認めた。
ノアは暦墨で記録札へ書き込む。
辺境都市エルデにおいて、七日の循環を再確認する。
本日を第四日、芽吹きの日とする。
最後に、住民代表としてミラが指先を札へ触れた。
暦印が淡く光る。
その瞬間、時計塔の内部から重い音が響いた。
ご、と歯車が回る。
一枚が次の一枚を押し、長く眠っていた機構が錆をこぼしながら動き始める。
広場の人々が息を呑んだ。
大時計の長針が、わずかに持ち上がった。
止まっていた針が、一目盛りだけ進む。
そして鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
四度。
澄んだ音が、町の屋根を越えて広がっていく。
リノが両手で耳を押さえながら笑った。
「今日、四つ鳴った!」
「ええ」
「明日は?」
「五つです」
「本当に?」
「今度は、町の皆が忘れなければ」
ノアの肩へ戻ってきたチクタが、得意げに胸を張った。
だが次の瞬間、その小さな体が硬直した。
耳を北へ向け、低く鳴く。
「チィ……」
背中の砂時計模様の片側が、灰色に沈んでいた。
同時に、時計塔の曜日盤で、七つあるはずの溝のうち一つが黒く欠けた。
ノアは笑顔を消した。
曜日は戻った。
しかし、この町の一週間には、最初から一日足りなかった。




