第2話 生まれた日の証人たち
リノが見つかった共同小屋は、町の北端にあった。
共同小屋と呼ぶには屋根が傾きすぎている。壁板の隙間から風が入り、扉は上半分しか残っていなかった。今では壊れた籠や使わなくなった農具を押し込む物置になっているらしい。
「本当にここですか」
「たぶん」
先を歩いていたミラが、扉代わりの板を持ち上げた。
「たぶん、ですか」
「八年くらい前の話よ。町には似たような小屋が三つあったし、二つはもう崩れてる」
ノアは聞取帳へ書き込んだ。
場所について、証言に不確実性あり。
「何でも書くのね」
「曖昧なものを、確かなふりで扱わないためです」
「それで仕事が進むの?」
「進まない理由が分かります」
「役人らしい嫌な答え」
ミラはそう言いながら、頭上の蜘蛛の巣を手で払った。
リノは二人の後ろから、小さな籠を抱えてついてきていた。中には焼きたての丸パンが六つ入っている。
「証人に渡すの」
ノアが尋ねる前に、リノが答えた。
「話してくれたお礼」
「賄賂では?」
ミラの目が鋭くなった。
「ただのパンよ」
「証言を聞く前に渡すと、相手が喜ばせようとする可能性があります」
リノが籠を抱きしめた。
「じゃあ、話したあと?」
「それなら問題ありません」
「細かい」
「大事なことです」
小屋の中は薄暗かった。
ミラが窓板を外すと、斜めに差し込んだ光が、積み重なった古道具を照らした。
割れた椅子。底の抜けた桶。取っ手のない鍋。湿気で膨らんだ木箱。
その奥に、半分潰れた柳の籠があった。
「あれ」
リノが指を差した。
ノアはすぐには触れず、周囲を確認した。
「これが、君の入っていた籠ですか」
「そうだって聞いた」
「誰から?」
「ガス爺」
「ミラさんは?」
「私もそう聞いた。母から」
伝聞が二つ。
ただし、どちらも元は別の証人につながっている。
ノアは布を敷いた床へ籠を移した。編み目は黒ずみ、片側が大きく歪んでいる。底には、色の抜けた細い糸が絡んでいた。
「布の切れ端でしょうか」
指先で慎重につまむ。
薄い青色。
経年でほとんど灰色になっていたが、糸の中心には染料が残っている。
ミラがかがみ込んだ。
「この色……空草染めね」
「珍しいものですか」
「季節が限られるの。空草は実り月の終わりに一度だけ咲く。花を摘んだその日のうちに染めないと、こんな青にはならないわ」
「誰が染めていました?」
「昔は、母が」
ミラの声が少し低くなった。
ノアは糸を光にかざした。
物的記録になり得る。
だが、この糸がリノの産着のものだと証明する必要がある。空草染めの時期も、別の証言と記録で照合しなければならない。
「まず、ガスさんに会いましょう」
「ガス爺は話が長いわよ」
「短すぎる証言より助かります」
「同じ話を五回するけど」
「一致しているか確認できます」
ミラは本気で嫌そうな顔をした。
陶工のガスは、小屋から歩いてすぐの工房にいた。
背中の曲がった老人で、粘土だらけの手を前掛けで拭きながら三人を迎えた。
「おお、リノ。今日は大きくなったな」
「前に会ったときも言ったよ」
「子どもは会うたび大きくなるもんだ」
リノが籠を見せかけ、ノアを見てから引っ込める。
まだパンは渡さない約束を覚えているらしい。
ノアは老人と向かい合い、聞取帳を開いた。
「リノを見つけた日のことを、最初から話してください」
「寒い日だった」
「どの程度?」
「水甕に薄い氷が張ってた」
「雪は?」
「まだだ。山の上に白いのが見えたくらいだな」
「時間帯は」
「朝だ」
「鐘は鳴っていましたか」
「鳴る前だった」
「なぜ外に?」
「窯を見に行った」
「その窯で、何を焼いていました?」
「皿だ」
「どんな皿です?」
「祭り用の皿だな」
ノアの筆が止まった。
「何の祭りですか」
「空草送りだ。染め終わった花を川へ流す」
ミラがわずかに身を乗り出した。
「空草送りは、今はないわ」
「お前の母親がやらなくなってから、途絶えたな」
ガスは目を細めた。
「そうだ。あの年は、ミラの母親が青い布をたくさん染めていた。町の外から注文が来たとかでな」
「その布の端切れを、産着に使った可能性は?」
「可能性じゃない」
ガスは小屋の方角を指した。
「赤ん坊は、青い布にくるまれてた。夜明け前の空みたいな色だったから覚えてる」
「籠も覚えていますか」
「片側の編み目が潰れてた。置いたやつが、慌てて壁へぶつけたんじゃないかって話した」
「誰と?」
「セラ婆さんと、産婆のハンナだ」
「三人で同時に見つけたのですか」
「いや。最初は俺だ。泣き声を聞いてな。セラを呼び、セラがハンナを呼んだ」
「赤ん坊の様子は」
「腹を空かせてた。だが元気だった」
ガスの声が柔らかくなった。
「俺の指を握った。こんな小さな手でな」
老人は太い人差し指を見つめた。
リノも、その指を見た。
「私、覚えてない」
「当たり前だ。豆粒みたいだったからな」
「今は?」
「パンくらいだ」
「人だよ」
ガスが笑った。
ノアは質問を続けた。
「その日の窯の記録は残っていますか」
「窯の記録?」
「焼いた品、火を入れた順番、薪の量。何でも構いません」
「そんな昔のもの、捨てたと思うが……」
ガスは工房の棚を探し始めた。
壺を動かし、板を持ち上げ、最後に埃をかぶった細長い木片を引っ張り出した。
「これか?」
木片には、炭で短い線と丸印が並べられていた。
「窯札だ。火を入れるたび、印をつける」
ノアは布越しに受け取った。
丸印が三つ、そのあとに波形が一つ。そして最後に、小さな花の形が刻まれている。
「花の印は?」
「空草送り用の皿だ」
「この波形は?」
「初霜。水桶が凍った朝につける」
ガスの証言と一致する。
ノアの胸の奥で、ばらばらだった糸が一本につながった。
だが、まだ足りない。
「セラさんにも話を聞かせてください」
薬草売りのセラは、市場の端で干し葉を束ねていた。
白髪を布で包み、片目に小さな拡大鏡をはめている。
「役人には話さないよ」
ノアを見るなり、そう言った。
「では、リノの誕生日を探している男に話してください」
「もっと怪しいね」
「私もそう思う」
ミラが横から言った。
セラは鼻を鳴らしたが、リノを見ると椅子を一つ出した。
「聞きたいことは?」
「リノを見つけた朝の天候と、季節。それから、赤ん坊の状態です」
「寒かった。初霜の翌朝だよ」
ノアの筆が走る。
「初霜の当日ではなく、翌朝?」
「そうさ。霜が降りた日に空草送りをやって、その夜に冷え込んだ。次の朝、ガスが飛び込んできた」
ガスの証言では、窯札の波形は初霜を示し、そのあとに花の印がある。
順番が逆だ。
「ガスさんは、初霜の日に空草送り用の皿を焼いたと」
「年寄りの記憶を信じるのかい?」
「あなたも十分、ご高齢に見えます」
「口の利き方が気に入らないね」
「重要なので」
セラはリノを見て、ため息をついた。
「窯札を見たかい?」
「はい」
「あれは焼いた順じゃない。受け渡した順だよ。ガスは皿を焼いてから、釉薬が落ち着くまで置いておく。初霜の朝に別の品を渡し、空草送りの皿はその日の夕方に渡した」
「確認できますか」
「祭り用の皿なら、底を見な」
四人は再びガスの工房へ戻った。
棚の奥から一枚だけ残っていた青い皿を取り出し、裏返す。
底には、花の印と、小さな二本線。
「二本線は?」
ノアが尋ねると、ガスは頭をかいた。
「焼いてから二日置いた印だ」
「つまり、初霜の日に渡された皿は、その二日前に焼かれていた」
「そうなるな」
ノアは聞取帳の内容を整理した。
出来事。
共同小屋で、身元不明の女児が発見された。
証人。
最初に発見したガス。直後に状態を確認したセラ。二人の証言は、初霜の翌朝という点で一致。
物的記録。
空草染めの糸。空草送りの祭り皿。初霜と祭りの日を示す窯札。
そして、王都から持参した地域観測録には、八年前、この地方で初霜が観測された日が記されている。
王暦六百十八年、実り月二十三日。
リノが見つかったのは、その翌日。
「できます」
ノアは言った。
リノが目を丸くする。
「誕生日?」
「正確には、君が見つかった日です」
ノアは少女と同じ高さまでしゃがんだ。
「生まれた瞬間を見た証人はいません。ですから、それを生まれた日だと言い切ることはできません」
リノの肩が下がる。
「でも、君がこの町の人たちと出会い、生きていると確かめられた日なら定められます」
「それを誕生日にしてもいい?」
「町の皆が合意するなら」
リノはミラを見た。
ミラはガスを見た。
ガスはセラを見た。
セラが、リノの頭を乱暴に撫でた。
「八年も待たせたんだ。文句を言うやつがいたら、薬を苦くしてやる」
ノアは暦盤を木箱の上へ置いた。
周囲に、聞取帳、窯札、青い糸、祭り皿を並べる。
暦墨を筆に含ませ、白い記録札へ一行ずつ記した。
王暦六百十八年、実り月二十四日。
辺境都市エルデ北共同小屋にて、女児リノを発見。
証人、ガス、セラ。
町民ミラ・フェンほか、当日をリノの誕生を祝う日と認める。
「リノ」
ノアは筆を持ったまま尋ねた。
「君自身は、この日を誕生日にしたいですか」
少女はすぐに答えなかった。
籠の中の丸パンを見て、それから三人の大人を順番に見た。
「したい」
「では、記録します」
最後の一画を書き終えた瞬間、暦盤の針が動いた。
かすかな金属音。
針はゆっくりと円を巡り、実り月二十四日の位置で止まった。
暦墨が淡く銀色に光る。
一度揺らぎ、消えかけた。
ノアは息を止めた。
リノが記録札へ手を伸ばした。
「私、この日にいたよ」
小さな指が、札の端へ触れる。
「ガス爺の指を握って、セラ婆に薬を飲まされて、ミラのお母さんの布にくるまってた」
「薬じゃない。山羊の乳だよ」
「苦かった?」
「泣くほどね」
皆が笑った。
その声が重なったとき、消えかけた暦印が再び光った。
今度は揺らがない。
記録札の隅に、小さな日輪形の印が定着した。
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
「成立です」
「今日が誕生日なの?」
「今年の実り月二十四日は過ぎています。次の誕生日は、来年です」
リノの顔が曇った。
「今日じゃないの?」
ミラがノアの肩を肘で小突いた。
「役人」
「はい」
「この町では、八年分のお祝いをしてないの」
「ですが、正式な日付は――」
「見つかった日を決めた祝いなら、今日しても問題ないでしょう?」
ノアは暦務規則を頭の中で確認した。
記念日の制定。
住民合意による臨時祝賀。
禁止条項はない。
「問題ありません」
リノが籠を持ち上げた。
「じゃあ、パン食べていい?」
「証言は終わりましたから」
丸パンが一つずつ配られた。
特別な飾りはない。ただの、少し焦げた丸パンだった。
それでもリノは両手で持ち、大切そうに一口かじった。
「誕生日のパン、おいしい」
ミラは笑いながら、目元を指でこすった。
ノアは見なかったことにして、自分のパンを割った。
温かい湯気が上がった。
そのとき、町の広場から低い音が響いた。
ゴン、と。
一度だけ。
止まっているはずの大時計塔の鐘だった。
全員が顔を上げる。
続いて、工房の壁際に積まれていた古い布の下で、何かが小さく動いた。
砂時計のような模様を背負った、丸い生き物が眠たそうに鼻先を出した。




