第1話 今日のない町と、誕生日のない少女
町には、今日の日付がなかった。
城門をくぐったノア・アルデンが最初に見たのは、広場の中央で荷車を挟み、怒鳴り合う二人の男だった。
「返すのは次の次の朝だと言っただろう!」
「次の次って、どの朝だ! 雨が降った朝か、鐘が三度鳴った朝か!」
「鐘なら昨日も三度鳴った!」
「昨日っていつだよ!」
周囲の人々は止めるでもなく、困った顔で成り行きを見守っている。
その横では、野菜売りの老女が客に言った。
「この豆は、少し前に採れたやつだよ」
「少し前って?」
「風の強かった日のあとさ」
「それ、古くないだろうね」
「知らないよ。畑は息子が見てるんだから」
客は豆を一粒つまみ、匂いを嗅いでから棚へ戻した。
パン屋の前には、焼きたてらしい丸パンが並んでいた。だが、値札の隣に製造日を記した札はない。広場を見回しても、市場の掲示板にも、宿の看板にも、荷物の札にも、日付を示すものが一つもなかった。
王都なら、あり得ない。
契約書にも、帳簿にも、手紙にも、必ず日付が入る。何年、何月、何日。誰かが生まれ、働き、金を払い、土地を受け継ぎ、死んだことを社会へ残すための印だ。
ノアは旅鞄の取っ手を握り直した。
辺境都市エルデ。
王都を出て十二日目に着いたはずの町だった。
もっとも、最後の三日は御者さえ日数を数えなくなっていた。
「この辺りじゃ、日を数えても仕方ない」
そう言って笑った御者の顔を、ノアは冗談だと思っていた。
赴任命令書には、短くこう記されている。
――エルデ暦務所の再開、および地域暦の調査。
再開、とあるからには、かつて暦務所が存在したはずだ。
しかし城門から見える範囲に、それらしい役所はない。代わりに広場の奥には、針の止まった大時計塔が立っていた。
二本の針は、どちらも真下を向いている。
「そこの人」
鋭い声が飛んできた。
パン屋の入口に、赤茶色の髪を後ろで束ねた女性が立っていた。小麦粉のついた前掛け姿で、腕を組んでいる。
「見ない顔ね。旅人なら宿は坂の上。役人なら帰って」
「ずいぶん明確な案内ですね」
「どっち?」
「後者です」
「じゃあ帰って」
即答だった。
ノアは鞄を地面へ置き、内ポケットから赴任状を出した。
「王都暦局から来ました。三級暦務官のノア・アルデンです」
女性は紙を受け取らなかった。
「中央の人間でしょう」
「中央暦院と王都暦局は、別組織です」
「町の人間から見れば同じよ。紙を持ってきて、名前を書かせて、あとで税を取りに来る」
「私は税務官ではありません」
「役人はみんな、最初にそう言う」
店の奥から、小さな顔がのぞいた。
黒に近い栗色の髪。頬に粉がついている。七つか八つほどの少女だった。
「ミラ、お客さん?」
「違うわ。日付を売りに来た人」
「日付って売れるの?」
「売りません」
ノアが答えると、少女は興味深そうに店から出てきた。両手には、丸める途中らしいパン生地を持っている。
「じゃあ、何する人?」
「起きた出来事に、正しい日付を定める仕事です」
「昨日がいつかも分かる?」
「調べれば」
「明日も?」
「明日は、今日を定めなければ決まりません」
少女は首を傾げた。
「今日って、あるの?」
ノアは答えに詰まった。
暦務官としてなら、説明はできる。
今日とは、国暦に基づき夜半から次の夜半までを一日と定めた期間。月と太陽の観測、王暦の基準点、各地の鐘刻を照合し――。
だが、それを語ったところで、この少女には何も届かない。
「君たちは今日を、どうやって見分けているんですか」
ノアは女性へ尋ねた。
「朝が来たら起きる。暗くなったら寝る」
「昨日は?」
「ひと眠り前」
「三日前は?」
「三回くらい寝る前」
「正確には?」
「分からない」
女性は苛立ったように答えたが、その声にはわずかな疲れが混じっていた。
「大時計はいつから止まっているんです」
「私が子どもの頃から」
「鐘は鳴っていましたが」
「塔番が頃合いを見て叩くのよ。朝っぽいとき、昼っぽいとき、夜っぽいとき」
「朝っぽい……」
「笑いたければ笑えばいいわ」
「笑いません」
ノアは本心から言った。
笑える状況ではない。
日付がなければ、物の鮮度が分からない。借金の期限も、給金を払う日も、薬を飲み始めた日も決められない。子どもが何歳かも、老人がいつから病んでいるかも曖昧になる。
日付を失うとは、単に不便になることではない。
人の人生から、前後が消えることだ。
「あなた、名前は?」
女性が尋ねた。
「ノア・アルデンです」
「私はミラ・フェン。この店の主人。町の揉め事もだいたい私のところへ来る」
「町長ではないんですか」
「町長はいるわ。いるけど、寝てる」
「病気で?」
「いいえ。面倒だから」
ノアは聞取帳を取り出し、最初の頁へ書き込んだ。
町長は職務に消極的。
「それ、今書く必要ある?」
「あとで忘れないためです」
「嫌な役人ね」
「よく言われます」
少女が背伸びをして帳面をのぞき込んだ。
「私のことも書く?」
「名前を聞いても?」
「リノ」
「姓は?」
「ない」
「年齢は?」
リノはミラを見た。
ミラは眉を寄せた。
「たぶん八つくらい」
「たぶん?」
「この町の子は、年を数えられないの。背丈と歯で、だいたい決める」
「出生記録はありませんか」
「ないわ」
「教会の洗礼簿は?」
「教会は十年以上前に閉まった」
「産婆の記録は」
「産婆だった婆さんは去年――」
そこでミラは言葉を止めた。
「去年?」
「……少し前に死んだ」
死んだ日さえ、定まっていない。
ノアは筆を止めた。
リノは手の中の生地を、ぺたぺたと平たくしていた。大人たちの会話に飽きたのかと思ったが、その横顔は妙に静かだった。
「私には、誕生日がないよ」
小さな声だった。
ノアは顔を上げた。
「誰にも聞いたことがないんですか」
「聞いた」
「何と?」
「寒くなる前だったって人と、暑い頃だったって人がいる。雨の日だったって人も、晴れてたって人もいる」
「家族は?」
リノは答えなかった。
代わりにミラが、短く言った。
「この子は、町の北の共同小屋で見つかったの。赤ん坊のときに」
「見つけた人は?」
「何人かいる。でも、みんな言うことが違う」
ノアは少女を見つめた。
同情するだけなら簡単だった。
可哀想だと眉を下げ、何か甘いものでも渡せばいい。だが、それでは彼女の誕生日は生まれない。
暦師は、存在しなかった出来事を作れない。
都合のよい日を選び、それらしい印を押すこともできない。
日付を定めるには、三つが必要だ。
出来事。
証人。
物的記録。
「リノ。君が見つかった共同小屋は、今もありますか」
「あるよ」
「そのとき使っていた籠や布は?」
「籠は、たぶん物置」
ミラが怪訝そうにノアを見る。
「何をするつもり?」
「調べます」
「今さら?」
「今だからです」
ノアは聞取帳の頁をめくった。
「リノを最初に見つけた人の名前を、分かる限り教えてください」
「一人は陶工のガス爺。もう一人は薬草売りのセラ。あと、亡くなった産婆」
「当時の天候を記録したものは?」
「ないと思う」
「収穫の記録、商人の荷札、教会の帳簿、税の控え、染物の仕込み札でも構いません」
「そんなものが残ってるわけ――」
ミラは言いかけて、店の奥へ目を向けた。
「待って」
彼女は厨房へ入り、しばらくして古びた木札を持って戻ってきた。
札には油染みがあり、端が焦げている。表面には、小麦の袋を示す焼き印と、数字らしき刻みが残っていた。
「この店を始めた頃の粉札。母が箱に入れてた」
ノアは受け取らず、まず尋ねた。
「触れても?」
「勝手にすれば」
木札を光へかざす。
刻まれているのは、日付ではない。粉挽きの順番と、収穫期を示す古い記号だ。だが、王都式の暦へ照合できる可能性はある。
「これは、どの頃のものですか」
「リノが見つかった頃だと思う。共同小屋へ持っていったパンの粉が、その袋だったって母が言ってた」
「お母様は、今どちらに?」
ミラの指が、前掛けの端を強くつまんだ。
「いないわ」
「町を出たのですか」
「消えたの」
広場の風が、店先の布看板を揺らした。
ノアはそれ以上、すぐには聞かなかった。
ミラの目には、触れられたくない記憶と、それでも何かを確かめたい迷いがあった。
「この札は、物的記録になるかもしれません」
「それだけで誕生日が分かるの?」
「いいえ。出来事と証言が必要です。少なくとも二人以上から、別々に話を聞きます」
「みんな、覚えてることが違うわよ」
「違うから聞くんです。記憶が一致する箇所と、食い違う箇所を分けます」
「嘘をついたら?」
リノが尋ねた。
ノアは鞄から、銀縁の小さな円盤を取り出した。
掌ほどの大きさで、中央には細い針が一本。縁には十二の小さなくぼみがある。
「これは暦盤です。証言と記録が正しく結びつけば、針が日付を指します」
「間違ってたら?」
「暦印が定着しません。少し光って、消えます」
「役人が嘘ついても?」
「消えます」
リノは初めて笑った。
「それ、えらいね」
「私ではなく、道具が?」
「うん。大人より」
ミラが小さく噴き出し、すぐに真顔へ戻った。
「それで、誕生日が分かったら何になるの」
「年齢が定められます。学校へ入る時期も、働ける年も、成人する日も決められる」
「学校なんてないわ」
「では、作るときに困りません」
「作る予定もない」
「予定がないのは、明日がないからでは?」
ミラは黙った。
少し言い過ぎたかもしれない。
だが、ノアは目を逸らさなかった。
リノが持っていた生地を、もう一度丸く整え始める。先ほどまで潰れていた形が、小さな手の中で少しずつ戻っていく。
「誕生日ができたら、何するの?」
「普通は、家族や友人が祝います」
「何を祝うの?」
「君が生まれて、その日まで生きてきたことを」
リノの手が止まった。
「生きてたら、祝っていいの?」
「もちろんです」
少女はしばらく黙り、それからミラを見た。
「パン、丸いの焼いてもいい?」
ミラは返事の代わりに、リノの頬についた粉を指で拭った。
「日が決まったらね」
「決まる?」
二人の視線が、ノアへ向いた。
簡単ではない。
証言は曖昧で、記録は欠け、町には基準となる暦さえない。王都の暦を一方的に当てはめれば、住民は反発するだろう。
それでも、手がかりはある。
粉札。
共同小屋。
生きている証人。
そして、八年間、祝われることなく待っていた一つの出来事。
ノアは聞取帳を閉じ、リノの前で片膝をついた。
「まず、君が見つかった日のことを知る人に会わせてください」
「それで分かる?」
「分からないこともあります。証言が足りなければ、すぐには決められません」
リノの表情が少し曇った。
ノアは続けた。
「ですが、分からないままにしてよい理由にはなりません」
少女の小さな手には、形の整ったパン生地が載っていた。
ノアはそれを見てから、まっすぐ彼女の目を見た。
「では、君が生まれた日を探そう」




