第8話 七日目を覚えている人
時計塔の地下へ続く扉には、鍵穴がなかった。
厚い鉄板が石壁へ直接はめ込まれ、取っ手も蝶番も見当たらない。中央には、大時計と同じ七つの溝が円形に刻まれていた。
「扉というより、蓋だな」
オルガが拳で叩く。
鈍い音が塔の床へ響いた。
「向こうは空洞です」
ノアは鉄板へ耳を近づけた。
わずかに冷たい空気が、七つ目の溝から漏れている。
「壊せる?」
リノが尋ねた。
「壊すだけならできる」
オルガは腰の槌へ手をかけた。
「でも、塔ごと崩れても知らんぞ」
「壊すのは最後にしましょう」
ノアは溝を指でなぞった。
一つ目から六つ目までは、長年触れられたように角が丸くなっている。
七つ目だけが、刃物で深く削られていた。
その形は、町中の荷札や帳簿から消された印と同じだ。
「七日目の印を使えば開くのかしら」
ミラが言った。
「その可能性はあります」
「印なんて、どこに残ってるの」
ノアは答えず、肩に乗ったチクタを見た。
チクタは鉄扉の前で鼻を動かしていたが、近づこうとはしなかった。背中の砂時計模様は片側だけ灰色に沈み、尾がノアの襟へ固く巻きついている。
暦獣が怯えている。
地下に危険な魔物がいるとは考えにくい。
チクタが感じているのは、季節や曜日の異常だ。
「先代の塔番に、もう一度話を聞きます」
「ダリオ爺に?」
ミラは眉を寄せた。
「この扉を知らないとは思えません」
酒場の二階へ行くと、ダリオは寝台で毛布をかぶっていた。
「今日は酒を飲んでないぞ!」
「まだ何も聞いていません!」
「時計のことも知らん!」
「それを聞きに来ました!」
「帰れ!」
耳が遠いだけではない。
明らかに避けている。
ノアは寝台の脇へ椅子を置き、聞取帳を開いた。
「時計塔地下の鉄扉に、七つの溝がありました!」
ダリオの毛布が少し動いた。
「第七日勤務者名簿も見つかりました!」
反応はない。
「そこに、エレナ・フェンの名前がありました!」
毛布の端をつかむ手が震えた。
ミラが一歩前へ出る。
「母を知ってるの?」
ダリオは答えなかった。
「第十三日に、時計塔地下へ収容されたと書いてあった」
老人の手が止まった。
やがて毛布が下がり、深い皺に覆われた顔が現れた。
「その言葉を、大声で言うな」
先ほどまでとは違う、小さく明瞭な声だった。
「聞こえていたんですね」
「都合の悪い話は、聞こえんふりをした方が長生きできる」
ダリオは寝台から起き上がった。
「地下には入るな」
「なぜですか」
「日が足りなくなる」
リノが首を傾げる。
「入ったら、短くなるの?」
「そうじゃない」
ダリオは自分の額を指で叩いた。
「ここから消えるんだ。一日ずつ。最初は、何を食べたか。次は、誰と話したか。そのうち、自分が何を待っていたかも忘れる」
「地下に、暦を消す術式があるのですか」
「難しい言葉は知らん。だが、中央の連中が来てから、町の曜日が一つ減った」
ノアの筆が動く。
「いつ来たのですか」
「鐘を七つ鳴らしていた頃だ」
「年は?」
「知らん」
「季節は」
「空草送りの少しあと」
ミラが息を呑んだ。
空草染めは、彼女の母が続けていた仕事だ。
「中央の人間は、何をしたんです」
「町の記録を調べた。土地の広さ、畑の持ち主、戦の前から住んでいた家。全部だ」
「なぜ塔の地下へ人を?」
「記録と証言が合わんと言われた者を連れていった」
「どちらが間違っていたのですか」
ダリオはノアを見た。
「記録だ」
迷いのない答えだった。
「中央が持ってきた地図には、東の畑も、北の森も、昔から王家の土地だと書いてあった。だが町の年寄りは、祖父の代から自分たちが耕してきたと証言した」
「土地証書は?」
「塔の地下に保管されていた。古い暦務所だったからな」
「中央はそれを回収した?」
「燃やした」
ミラの指が強く握られる。
「母は、なぜ連れていかれたの」
「エレナは字が読めた」
ダリオは目を伏せた。
「焼かれる前の証書を、書き写していた。パンの注文帳や粉札の裏にな」
ミラの店に、母親が残した古い木札がある。
リノの誕生日を探す手がかりとなった粉札も、その一つだった。
「母は、地下で死んだの?」
「知らん」
「知らないで済ませないで」
ミラの声が震えた。
「あなたは塔番だった。母が中へ入ったなら、見ていたでしょう」
「見た」
「出てくるところは?」
「見てない」
ミラがダリオへ詰め寄ろうとする。
ノアは止めなかった。
だがダリオは逃げず、枕元の小箱を引き寄せた。
中から出したのは、真鍮製の古い部品だった。
七つの突起を持つ、歯車のような形をしている。
「これは?」
「曜日鍵だ。地下を開ける鍵で、曜日盤を動かす部品でもある」
六つの突起は磨かれていた。
七つ目だけに、黒い染みがこびりついている。
「中央の役人が、七つ目を回せと言った」
「あなたが開けたのですか」
「ああ」
「母を地下へ入れるために?」
ミラの問いに、ダリオは長く黙った。
「わしの息子も、中にいた」
老人は歯車を両手で包んだ。
「逆らえば、息子を先に消すと言われた。だから開けた。エレナはわしを責めなかった。代わりに、鐘を七つ鳴らせと言った」
「なぜです」
「町の者に、何かが起きていると知らせるためだ」
「鳴らしたの?」
「ああ。七度鳴らした」
ダリオは俯いた。
「だが、誰も来なかった」
「東門を開けてはならないという警告が残っています」
ノアが言った。
「中央が兵を連れてきたのは、東門からですか」
「そうだ」
「なら、町の人々は鐘を危険の知らせだと思ったのでしょう。外へ出ず、門を閉じた」
「知ってる」
老人の声が掠れた。
「誰も悪くない。だから余計に、忘れたかった」
七日目を数えなくなった理由が、少しだけ見えた。
中央が来た日。
人々が連れていかれた日。
助けを求める鐘へ、誰も応えられなかった日。
町は曜日を奪われただけではない。
思い出すたび傷つく一日を、自分たちでも遠ざけてしまった。
「七日目を戻せば、皆が思い出すのでしょうか」
ノアが尋ねる。
「全部ではない」
ダリオは首を振った。
「欠片だけだ。顔のない人。名前のない声。帰ってくるはずだった誰か。そんなものが急に胸へ戻ってくる」
「それでも、戻さなければなりません」
ミラが言った。
頬は青ざめていたが、その目は逸れていない。
「母が何を残そうとしたのか、知らないままにはできない」
「町の全員が、そう思うとは限りません」
ノアは静かに答えた。
「七日目を復元するには、住民の合意が必要です。私たちだけでは定められない」
「また話し合い?」
リノが聞く。
「今回は、今までより難しい話し合いになります」
「忘れたままがいい人もいるから?」
「ええ」
リノは少し考えたあと、ダリオへ近づいた。
「お爺ちゃんの息子、名前は?」
ダリオの唇が動いた。
けれど、声は出なかった。
「言わなくてもいいよ」
リノは続けた。
「でも、言いたくなったら、ノアが書いてくれる」
ノアは聞取帳を閉じた。
急かさないためだった。
部屋の外では、町の六つ鐘が鳴り始めた。
一度。
二度。
三度。
四度。
五度。
六度。
いつもなら、それで終わる。
ダリオは音が消えてから、しわがれた声で言った。
「ルカだ」
ノアは新しい頁を開いた。
「ルカ・ベルですか」
「ああ。わしの息子だ。時計を直すのが上手かった。大時計の針を、もう一度動かすんだと言っていた」
一文字ずつ、丁寧に記す。
ルカ・ベル。
第七日、時計塔地下へ収容。
帰還の記録なし。
日付はまだ定められない。
それでも名前は残せる。
ノアが書き終えると、ダリオは何度も頷いた。
「忘れてなかった」
「はい」
「まだ、言えた」
「はい」
ダリオは曜日鍵をノアへ差し出した。
「七日目を戻すなら、皆に選ばせろ。中央の役人と同じことはするな」
「約束します」
時計塔へ戻り、曜日鍵を鉄扉へ当てた。
七つの突起が、七つの溝へぴたりとはまる。
だが、ノアは回さなかった。
町の合意がないまま開けば、暦師の仕事ではなくなる。
そのとき、鍵の中央から細い紙片が落ちた。
ダリオも知らなかったらしく、全員が床へ落ちた紙を見る。
ミラが拾い上げた。
古びていたが、母親の筆跡だと一目で分かったらしい。
「母の字……」
紙には、短い一文だけが書かれていた。
――七日目を戻してはならない。十三日目が目を覚ます。




