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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第44話 亡くなった人を二度消さない

 墓石から名前が消える音は、雪が解ける音に似ていた。


 小さくひびが入り、表面の文字が白い粉になって落ちる。


 ハロルド。


 フィー。


 去年亡くなった老人。


 幼い頃に熱病で亡くなった子ども。


 墓地に並ぶ名前が、一文字ずつ薄れていた。


「削れてるんじゃない」


 ガスが墓石へ触れる。


「石の中から、字そのものが抜けてる」


 礼拝堂の葬送台帳も同じだった。


 紙はある。


 埋葬した場所も、棺の形も、参列者の数も残っている。


 だが故人の名前と死亡日だけが消えている。


 レグナートの伝信紙へ、中央から新しい通達が届いた。


 ――零年化に伴い、死亡登録を再審査する。


 ――死亡を確認できない者は、生存、死亡のいずれにも属さない未登録者とする。


 ――未登録者名義の土地、財産および墓所は、中央暦院の一時管理下へ移す。


「また土地か」


 オルガが吐き捨てた。


「死んだ人の名前を消して、家や畑を持っていくつもりだ」


「私の家も?」


 ハロルドの妻が、夫の墓前から振り返った。


「家の名義は、夫のままだよ」


「相続登録が確認できなければ、中央管理へ移される可能性があります」


 レグナートが答える。


「夫が死んでないことになるのかい」


「生きていることにもなりません」


 ノアは通達を見た。


「どちらでもない者として、権利だけを止められます」


「じゃあ、私は何になるの」


 妻でも、未亡人でもない。


 夫から家を受け継いだ者でもない。


 長く共に暮らし、看取り、墓へ送った年月だけが、登録の外へ追い出される。


「ハロルドさんが亡くなった出来事は残っています」


 ノアは葬送札を取り出した。


 羊飼いの兄弟が父親を看取った日。


 妻が覚えていた冬の満月。


 使われた棺。


 墓地まで歩いた道。


「でも、名前が消えたよ」


「書き直します」


「また消されたら?」


「別の場所にも残します」


 ノアは墓地全体を見た。


「ただし、全員を死者として書けばよいわけではありません」


 十三日目に連れていかれ、行方の分からない者。


 戦争から帰らなかった兵士。


 旅の途中で消息を絶った者。


 死亡を確認できていない人まで、町の都合で死んだことにはできない。


「死んだ人と、帰ってない人を分けるの?」


 リノが尋ねる。


「はい」


「名前を残すために、死んだことにした方が簡単なのに?」


「簡単でも、事実ではありません」


 ルカは十三年間、消された日付の中で生きていた。


 エレナもそうだ。


 待つことを終わらせるためだけに墓を作っていたら、二人が帰る場所は失われていた。


「三つの札を作ります」


 ノアは長机へ、形の違う木札を並べた。


 一つ目は、死亡確認札。


 息を引き取った出来事。


 証人。


 遺体や遺品、埋葬記録。


 二つ目は、行方不明札。


 最後に見た場所。


 捜索した範囲。


 帰還を待つ人。


 三つ目は、記録不明札。


 名前や墓は残っているが、死や失踪の詳しい事情が分からない人。


「分からない人を、そのままにするの?」


 墓守が尋ねる。


「はい。分かったふりをしません」


「それじゃ中央に取られる」


「だから、分からないという状態も町で記録します」


 誰であるか完全には分からない。


 それでも、ここに墓があり、誰かが花を供え、町がその場所を守ってきた。


 不明だから、誰のものでもないわけではない。


 最初に確認したのはハロルドだった。


 妻。


 二人の息子。


 葬送を手伝った住民。


 墓を掘った者。


 一人ずつ別の場所で話を聞く。


「最後に食べたものは?」


「羊乳の粥」


「天気は?」


「夜は晴れてた。朝に薄く雪が降った」


「亡くなった時刻は?」


「分からない。夜明け前だと思う」


 曖昧な部分は曖昧なまま。


 全員が一致したのは、妻が夫の手を握っていたこと。


 息子たちが夜明け後に部屋へ入り、死を確認したこと。


 棺へ、古い羊鈴を一つ入れたことだった。


「鈴は墓の中だよ」


 妻が言う。


「掘り返すのかい」


「必要ありません」


 墓石の裏には、羊鈴を入れた墓であることを示す小さな印が刻まれている。


 棺を作ったガスの帳面にも、鈴を入れる空間を作った記録が残っていた。


「ハロルドさんは、この町で亡くなり、この場所へ埋葬されました」


 ノアが死亡確認札へ記す。


 名前が光り、札へ定着した。


 墓石にも、ハロルドの文字が戻る。


 妻が指でなぞった。


「死んだって書かれて、ほっとするなんて変だね」


「亡くなったことを望んでいるのではありません」


「分かってるよ」


 彼女は墓石へ額を当てた。


「この人が生きてたことまで、消されずに済んだんだ」


 フィーの確認は、兄のユアンが行った。


 墓瓶に残された手紙。


 秘密の誓約書。


 姉が使っていた種袋。


 病で亡くなったときに立ち会った薬師の証言。


「姉は、中央へ逆らったから死んだわけじゃない」


 ユアンが言った。


「病気だった。薬も飲んだ。最後まで畑の種を心配してた」


「その通りに記録します」


「英雄みたいに書かなくていい」


「はい」


「でも、臆病者にもするな」


「事実だけを残します」


 フィー・ユアンの姉。


 種の貸借記録を守った人。


 十三人目の席に座った子どもの名を、墓瓶へ残した人。


 病床で亡くなり、兄と町の人々に見送られた人。


 名前が墓石へ戻る。


 ユアンは何も言わず、姉の種袋を石の前へ置いた。


 昼までに、二十一人の死亡確認札が作られた。


 行方不明札は十三枚。


 記録不明札は九枚。


 その中には、名前すら読めない古い墓もある。


「この人たちは、どう呼べばいい?」


 リノが尋ねる。


「勝手に名前をつけることはできません」


「じゃあ、ずっと名前なし?」


「見つかるまで、墓の場所と、残っている物を記します」


 墓番号ではなく、出来事で区別する。


 白い小石が三つある墓。


 春になると黄色い花が咲く墓。


 小さな靴の金具が埋められた墓。


 誰かの名前を取り戻したとき、その人がどこで待っていたか分かるように。


 夕方、墓地の入口へ中央の役人が二人現れた。


「未登録墓所の封鎖に来た」


 男は黒い杭を地面へ置いた。


「零年化完了まで、墓地への立ち入りを禁止する」


「命令原本は?」


 レグナートが尋ねる。


「王国暦再登録令に基づく」


「対象となる墓の一覧は?」


「死亡登録の消えた墓すべてだ」


「今、死亡確認を行いました」


 ノアは二十一枚の札を示す。


「地方の私的記録は認められない」


「墓を一つずつ確認しましたか」


「中央台帳に名前がない」


「ここにはあります」


「中央にないものは、ない」


 役人が最初の黒杭を打ち込もうとする。


 ハロルドの妻が、その前へ立った。


「ここには夫がいるよ」


「退け」


「十三年一緒に暮らした。最期に手を握った。棺へ鈴を入れた。あんたは何を見て、いないと言ってるんだい」


「命令だ」


「質問に答えてない」


 妻の後ろへ、町の住民が並んだ。


 武器はない。


 一人ずつ、死者か行方不明者の札を持っている。


「フィーを知ってる」


「この墓を掘った」


「この人の葬送で湯を配った」


「この子が生まれた日に、礼拝堂へいた」


 役人は黒杭を握ったまま後退した。


「全員が同じ話をしても、中央の証明にはならない」


「では、ほかの町にも証言してもらいます」


 ノアは七都市観測板を墓地へ運ばせた。


 最初にヴァルドから鐘が届く。


 戦死者と行方不明者を分けて確認した記録。


 次にネーヴァ。


 冬の間に亡くなった者を葬った共同墓地。


 セレノからは、届かなかった死亡通知。


 ハルムは、故人のために残した最初の麦束。


 ラウゼンは、墓前へ植える林檎の種。


 グランザは、坑道で亡くなった者の帰還鐘。


 最後にエルデ。


 七つの町が、それぞれの死者と、まだ帰らない者を数える。


 同じ人間の証言ではない。


 同じ墓でもない。


 それでも、中央暦が零になったあとも、人が生き、亡くなり、待たれてきた事実を互いに確認している。


「第四続日」


 ノアは続日板へ記す。


 ――七都市が、亡くなった人と帰りを待つ人を分け、それぞれの名を呼んだ。


 文字が光る。


 墓地の石から消えていた名前が、一斉に戻り始めた。


 一つ。


 十。


 百。


 七都市の墓地で、同じことが起きている。


 中央役人の黒杭に亀裂が入った。


「死亡登録の再審査は中央の権限だ!」


「死亡を作ったのではありません」


 ノアは答えた。


「すでに起きた別れを、なかったことにしなかっただけです」


 黒杭が砕けた。


 役人たちは、何も封鎖できずに帰っていった。


 日が暮れると、エルデでは墓地の前へ灯りを並べた。


 祭りではない。


 全員が参加する義務もない。


 話したい人は故人のことを話し、静かにいたい人は灯りだけ置く。


 ハロルドの妻は、墓石の前で羊乳の粥を食べた。


「夫の好物だったの?」


 リノが尋ねる。


「嫌いだった」


「じゃあ何で?」


「最後まで文句を言いながら食べたからさ」


 リノが笑う。


「それも記録する?」


「やめておくれ」


 ノアが鉄筆を持ち上げると、妻は慌てて手を振った。


 墓地へ、久しぶりに穏やかな笑い声が流れた。


 その夜、中央大暦鐘が三度鳴った。


 零年化完了まで、残り三日。


 鐘のあと、セレノから緊急の手紙が届く。


 中央は七都市を孤立させるため、王国中の郵便と交易を停止した。


 市場へ品物を運べない。


 手紙も出せない。


 食料と記録を町同士で渡す道が、次に切られようとしていた。


 封筒の末尾には、サラの名で一行が書かれていた。


 ――手紙が通れないなら、市場を通して届ける。

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