第43話 学年のない子どもたち
第三続日の朝、エルデの学び場から学年が消えた。
黒板も机も残っている。
子どもたちが覚えた文字も、計算も消えてはいない。
ただ、壁に掛けていた学び札から、入った時期と習得段階を示す印だけが白く抜けていた。
「私、また最初から?」
リノは自分の札を裏返した。
名前は読める。
自分で書いた文字だ。
だが、その下にあった「文字を一人で書ける」「二桁の数を読める」という確認印がなくなっている。
「忘れてはいないでしょう」
ノアが尋ねる。
「書けるよ」
リノは黒板へ大きく記した。
リノ・フェン。
「では、最初からではありません」
「でも、札には書けない子と同じってなってる」
「中央の登録上は、全員が学習歴なしです」
レグナートが届いたばかりの通達を読み上げた。
――零年化に伴い、地方教育記録を無効化。
――年齢、就学開始日および修了学期を確認できない児童は、再審査まで授業への参加を停止する。
「年齢が分からないから勉強するなって?」
カイが眉をひそめる。
「年齢の違う人間を同じ教室へ入れれば、正しい教育段階を決められないという理屈だ」
「今まで一緒に勉強してたよ」
「中央の学校制度では想定されていない」
エルデの学び場には、幼い子どもだけでなく、仕事の合間に文字を覚える大人もいる。
八歳ほどのリノの隣で、五十を過ぎたガスが数字を練習する。
鍛冶見習いのカイは契約文を読み、野菜売りの老女は自分の名前を書こうとしている。
もともと年齢で分けられる教室ではなかった。
「想定されてないなら、やっちゃ駄目なの?」
リノが尋ねる。
「中央の修了資格は出せません」
「欲しいのは資格じゃないよ」
少女は給金札を掲げた。
「自分の名前と、いくらもらったかを読みたいの」
グランザからも、同じ通達が届いていた。
坑道から帰還した四十三人の子どもたちは、学校の再開を待っている。
しかし鉱山主は、学年を確認できない子どもを授業へ出す必要はないとして、鉱石選別場へ集め始めていた。
観測板から、短い鉄札が押し出される。
――学校閉鎖。
――児童十九名、選別作業へ。
「昨日、大人が帰ってきたから学校を開けるって言ってたのに」
リノが鉄札を握る。
「零年化される前の約束は無効だそうです」
ノアは通達の文面を確認した。
契約と教育記録は無効。
だが、子どもを働かせる勤務命令だけは旧鉱山規則に従っている。
「都合のいい記録だけ残してる」
ミラが言った。
「それを指摘しても、すぐには子どもたちを選別場から出せません」
「じゃあどうするの?」
「何を学んだか、今ここで確かめます」
ノアは壁から古い学び札をすべて外した。
「学年や学期ではなく、本人が実際にできることを記録します」
「試験?」
リノが嫌そうな顔をする。
「落とすためのものではありません」
「間違えたら?」
「次に学ぶ内容が分かります」
最初にリノが、黒板へ自分の名前を書く。
次に、市場札から今日必要なパンの数を読む。
二十四個。
朝に八個売れた。
残りはいくつか。
「十六個」
「確認しました」
ノアは新しい札へ記す。
――本人の名前を書ける。
――二桁の引き算ができる。
「学年は?」
「書きません」
「私は何年生?」
「リノです」
「答えになってない」
「年齢や学年が違っても、同じ計算を学ぶことはあります」
次はガスだった。
自分の名はまだ一人では書けない。
だが陶器の注文札を見れば、形と数を正しく読み取れる。
「丸皿が十二。深皿が六。壺が二」
「文字は?」
「知らん」
「では、品名の文字を次に覚えます」
「子どもより下か?」
「陶器の数え方は、リノさんより詳しいでしょう」
学ぶ内容ごとに、できることが違う。
一列の階段に全員を並べる必要はなかった。
グランザへも同じ方法を送る。
――子どもたちが今できることを、仕事ではなく学びとして確認してください。
返事はすぐに来た。
――選別場から出せない。
「なら、選別場で確かめます」
ノアが記す。
「学校を鉱山へ持っていくの?」
リノが尋ねる。
「働かせるためではありません」
グランザの子どもたちは、鉱石を種類ごとに分けることができる。
毒気を出す石。
水へ入れると割れる石。
火花が出る石。
知らなければ事故につながる知識だ。
「それを文字と結びつけます」
エルデから、三つの記号を送る。
危険。
水を避ける。
火を避ける。
グランザの子どもたちは、鉱石箱へ正しい記号を書く。
十九人中、十五人が三つすべてを正しく使えた。
四人は二つ。
誰も学習歴なしではなかった。
「次はグランザから、こちらへ問題を送ってください」
鉄札に、三種類の鉱石の絵が浮かぶ。
リノたちは旧観測記録を読み、安全な保管場所を考えた。
「これは水から離す」
「こっちは火から」
「この石は?」
カイが首を傾げる。
ガスが答えた。
「叩くと割れて飛ぶ。布で包め」
「どうして知ってるの?」
「昔、焼き物の釉薬に混ぜて皿を全部割った」
「失敗の記録ですね」
ノアが言う。
「それは書くな」
「子どもが同じ事故を避けられます」
「なら小さく書け」
エルデで学んだ答えを、グランザへ返す。
鉱山の子どもたちは、自分たちの知識が別の町で役立ったことを知った。
観測板へ、新しい言葉が届く。
――これは授業?
「授業です」
リノがノアより先に書いた。
――私たちも教えてもらった。
鉱山主は、なおも学校の再開を拒んだ。
学年がない。
教師の資格登録も零へ戻った。
授業時間を勤務から外す根拠がない。
「根拠ならあります」
オルガが昨日の勤務交代札を持ってきた。
「坑道の班は、交代後に休む。子どもにも作業していない時間がある」
「鉱石選別は交代規則の外だそうです」
「なら、先に勤務として登録させろ」
オルガの言葉を、ノアが鉄札へ記す。
――勤務なら、開始、終了、給金、安全責任者が必要。
――それらがない作業は、児童の義務として強制できない。
グランザ側で話し合いが始まった。
子どもへ仕事をさせていた大人たちも、自分たちがいつから働かせ、どれだけ選別させたのか答えられなかった。
零年化で記録が消えたからではない。
最初から記録していなかったのだ。
やがて、鉱山主から短い返事が届く。
――半日だけ、学習を認める。
「半日って、中央の時刻がないのに?」
リノが尋ねる。
「食事籠が届くまで、と決めたようです」
「時間じゃなくて出来事だ」
「はい」
グランザの学校が開いた。
机も教科書も足りないため、坑口の広場に木箱を並べる。
最初の授業は、子どもたち自身が教師だった。
鉱石の見分け方をエルデへ教える。
エルデからは、名前と数字の書き方を返す。
そのやり取りを、セレノが手紙の形に整えた。
ハルムは麦束を数える問題を加える。
ラウゼンは、林檎の木を植えてから実がつくまでの季節を送る。
ネーヴァは、雪解けの三つの印。
ヴァルドは、降伏と終戦が同じ意味ではないことを記した。
「戦争の話も授業にするの?」
リノが尋ねる。
「同じ間違いを繰り返さないためです」
七つの町を一周した学び札が、夕方にエルデへ戻った。
最初は白紙だった札に、七都市の文字、数字、絵、印が重なっている。
最後の欄には、グランザの子どもたち十九人の名前。
――今日、学校を開いた。
中央暦の日付はない。
学年もない。
それでも前に知らなかったことを学び、別の町へ教えた出来事は残っている。
「第三続日」
ノアは続日板へ記した。
――七都市の子どもと大人が、互いに一つずつ教えた。
「これで三日目?」
リノが尋ねる。
「朝が三回来たからではありません」
「じゃあ何で?」
「続けた出来事が、三つつながったからです」
一日目。
エルデが昨日を失わず、続きの朝を始めた。
二日目。
グランザの四十三人が勤務を終えて帰った。
三日目。
七都市で学びが次の人へ渡った。
「明日も学校する?」
「中央が止めても?」
ノアが尋ねる。
「止められたら、私が誰かに教える」
リノは新しい札を用意した。
「教える人がいたら、学び場でしょう」
その夜、中央大暦鐘が四度鳴った。
零年化の完全実行まで、残り四日。
鐘が止んだ直後、礼拝堂の方から叫び声が上がる。
ノアたちが駆けつけると、墓地の石へ刻まれた名前が薄れていた。
ハロル。
フィー。
十三日目に連れていかれ、戻らなかった人々。
死者の記録まで、零年化の対象になったのだ。
墓前にいた老女が、消えかけた夫の名を指でなぞる。
「亡くなった日がないなら、この人は死んでないのかい」
「違います」
ノアは答えた。
「生きていなかったことにもされます」
石から最初の一文字が消えた。
第四続日を始める前に、町は亡くなった人々を、もう一度一人ずつ数えなければならなかった。




