第45話 市場が手紙を運ぶ日
第五続日の朝、市場へ荷車は一台も来なかった。
いつもなら日の出前から、北門には野菜籠や陶器、薪、布を積んだ商人が並ぶ。
今日は門番だけが、空の街道を見ていた。
「ラウゼンの林檎も来ない」
リノは市場の長机へ、売り物のない籠を置いた。
「セレノの塩も、ハルムの麦も、全部止められた」
中央から届いた命令は、王国全土の郵便と交易を一時停止するというものだった。
零年化によって土地、商人、道路、商品の所有者を再確認できない。
安全が保証されるまで、地域間の移動を禁ずる。
そう書かれている。
「安全のために、食べ物を止めるの?」
リノが尋ねる。
「安全に運ばれたと、中央が証明できない品を止めるという理屈です」
ノアは市場台帳を確認した。
「でも、中央が証明していた道そのものが消えています」
七都市は、互いの物と記録を渡すことで続日をつないでいた。
グランザの勤務交代をセレノが手紙にする。
セレノの手紙を受け取ったハルムが麦を量る。
ハルムの麦をラウゼンが林檎と交換する。
ラウゼンの荷がネーヴァへ届けば、鐘が鳴る。
その一つでも止まれば、七都市の輪は切れる。
「中央の狙いは、品物ではありません」
レグナートが言った。
「町から町へ、出来事の証言が移ることを止めたいのだ」
「郵便も駄目。商売も駄目」
ミラが腕を組む。
「人が直接歩いて届けるのは?」
「移動許可のない者は関所を越えられません」
「じゃあ、どうやってサラは『市場を通す』つもりなのよ」
答えは、正午前に北門へ届いた。
荷車ではない。
一人の男が、林檎を一つ手に歩いてきた。
「ラウゼンから?」
門番が尋ねる。
「違う。俺は北街道の橋番だ」
男は林檎を長机へ置いた。
赤い実の表面には、細い線で七つの印が刻まれている。
「朝、ラウゼンの商人が橋の手前へ来た。関所を越えられないから、林檎一つを俺に売った」
「それをエルデへ売りに?」
「いや。隣の薪売りへ交換した。薪売りは羊飼いへ渡して、羊飼いが俺に戻した」
「戻ったのですか」
「ああ。三人とも別の場所で、同じ林檎を受け取ったと印をつけた」
林檎には、商人、薪売り、羊飼い、橋番の小さな印が並んでいた。
「それで、俺がエルデの市場まで持ってきた」
「品物の移動は禁止されています」
レグナートが確認する。
「俺は自分の林檎を持って歩いただけだ」
「関所では?」
「食べ物一つまで取り上げる命令はないと言われた」
大量の荷は交易。
封筒は郵便。
だが一人が自分で食べる林檎一つなら、中央も止める根拠を用意していなかった。
「林檎の中に手紙を隠しているの?」
リノが実を振る。
「食べ物で遊ばないでください」
ノアは表面の印を調べた。
文字はない。
それでも、ラウゼンを出た林檎が、複数の人の手を通り、エルデへ着いたことは分かる。
実の底には、収穫木を示す三つの点。
枝へ実がついたことを見た農家。
籠へ入れた者。
ラウゼンの市場で売った商人。
出来事と証人が、品物そのものへ刻まれていた。
「これは商品の記録です」
ノアが言った。
「郵便ではありません」
「でも、ラウゼンが今日も市場を開いたって分かる」
リノが気づく。
「はい」
林檎一つが、町の続日を証言している。
「市場の商品を、一つずつ次の町へ渡します」
ノアは七都市の地図を広げた。
「大量に運ぶ必要はありません。町で今日作られ、誰かが受け取り、次の人へ渡した物が一つあればよい」
「それで食料不足は解決しないわ」
ミラが言う。
「ええ。これは記録をつなぐ方法です。食料の問題は別に考えます」
林檎一つで町は冬を越せない。
だが七都市が孤立していないことを証明できれば、中央が「連絡不能な未登録地域」として再登録から除外する口実を一つ減らせる。
「市場を開きましょう」
ノアは空の長机を見た。
「売る物がないよ」
リノが言う。
「町の中にある物を交換します」
住民たちは、最初は戸惑った。
昨日焼いた保存パン。
直した靴。
余った釘。
使わなくなった籠。
薬草。
薪を割る仕事。
子どもへ文字を教える時間。
「仕事も市場へ出していいの?」
カイが尋ねる。
「提供する内容と、受け取る物を決めれば」
「じゃあ俺、薪を二束運ぶ。代わりに靴を直してほしい」
「誰の靴?」
「母ちゃんの」
カイの仕事札と、靴職人の修理札が交換される。
現金だけではない。
町の中で、必要な物と仕事を動かす。
「中央の商人登録がなくても、市場になるの?」
「商品と交換条件を、双方が確認しています」
ノアは答えた。
「王都へ売る市場ではなく、今日ここで暮らす人の市場です」
長机が少しずつ埋まった。
ミラは平焼きパンを八つ。
エレナは空草色の糸で補修した手袋。
ガスは小さな陶器の札。
オルガは釘と包丁研ぎの仕事。
リノは、手紙の宛名を読む手伝いを出した。
「お金は何に使うの?」
リノが尋ねる。
「必要なら使います。物や仕事との交換でも構いません」
「値段が違ったら喧嘩するよ」
「交換前に、双方が納得したことを札へ残します」
「あとで嫌になったら?」
「壊れていた、約束した仕事が行われなかったなど、事実と違う場合は見直します。単に惜しくなっただけなら、次から条件を変えてください」
最初の取引は、ハロルドの妻が持ってきた羊乳と、ミラのパンだった。
「パン二つで乳一瓶」
「乳の方が高くない?」
リノが口を挟む。
「今日は、この人がパンを必要としてるの」
ミラが答える。
「私は乳が必要。二人が決めたならいいでしょう」
二人は交換札へ印をつけた。
羊乳の瓶には、ハロルドの妻の印。
平焼きパンには、八本の切れ目。
エルデの市場が、第五続日に開いた証拠になる。
「これを次の町へ?」
「全部は渡さないわよ」
ミラはパンを一つだけ布へ包んだ。
「市場で交換した物の一部を、受取人が次の町へ渡すのです」
「誰が運ぶ?」
その問いへ答えるように、南門から笛が聞こえた。
入ってきたのは、旅商人のジークだった。
最初の市場日、エルデへ門を叩いてきた男だ。
馬も荷車もない。
背負い袋だけを持っている。
「商人のくせに手ぶらね」
ミラが言った。
「街道の関所で全部止められた」
ジークは袋を下ろした。
「中央登録のない町へ売る品は、所有者不明になるそうだ」
「それでも来たのですか」
「今日はエルデの市場日だろ」
ジークは古い市場札を出した。
ノアが最初に作った、第五日の取引記録。
「品物がなくても、約束した場所へ来るくらいはできる」
「帰りに、このパンを持っていって」
リノが八本切れ目のパンを渡す。
「どこへ?」
「次に会った人」
「誰でもいいのか」
「受け取った人の名前と、どこで会ったかを札へ書いてください」
ノアが市場札を添える。
「最終的に、ネーヴァへ向かう人へ渡してください」
「食べたら?」
「食べた人が、味と形を次の人へ伝えます」
「市場の証拠を腹に入れるのか」
「食べ物ですから」
ジークは笑い、パンを袋へ入れた。
「商売にならんな」
「今日は、何を売るの?」
リノが尋ねる。
「街道で見たことだ」
ジークは長机へ、関所の配置を描いた。
どの道が封鎖されているか。
徒歩なら通れる橋。
中央の兵が何人いるか。
どの町で薬が不足しているか。
「情報にも値段をつけるのですか」
「正しい情報ならな」
「確認できないものは?」
「噂として安く売る」
「噂を売らないでください」
「冗談だ」
ジークは、関所の印がある通行拒否札を出した。
それなら物的記録になる。
エルデは代わりに、保存パンと靴底の補修を渡した。
市場へ来た商人が、売る品を失っても帰りに必要な物を得た。
その出来事も、第五続日の札へ加えられた。
午後、七都市から小さな品が届き始めた。
ネーヴァから、白鐘花を縫った布片。
グランザから、四十三人目の帰還を刻んだ小石。
セレノから、宛先が見つかった手紙の封蝋。
ハルムから、三粒の種麦。
ヴァルドから、終戦後に初めて外した甲冑の留め金。
ラウゼンから、最初の林檎。
エルデは八本切れ目のパンを渡す。
大量の荷は動かない。
それでも、人の手から手へ、町の今日が移っていく。
「市場って、品物を売る日だと思ってた」
リノが七つの品を並べる。
「それだけではありません」
ノアは市場台帳へ記した。
「誰が何を作り、誰が必要とし、何と交換したかを確かめる場所です」
「手紙も届けられる?」
「品物に書ける範囲なら」
サラから預かった、旧灯台守の返事。
娘と孫へ宛てた手紙は、封筒のままでは関所を通れない。
ノアは本人の許可を得て、内容を一文だけ市場札へ移した。
――灯台の火を消さずに待っている。
その札を、小さな灯台形の陶器へ結ぶ。
商品名。
セレノの灯台守から、娘へ渡すための灯り。
価格はつけない。
受取人以外は、次の人へ渡す条件だ。
「これは商品ですか」
レグナートが尋ねる。
「渡すこと自体が条件の品です」
「郵便と判断される可能性がある」
「その場合は、封を開けて確認できます」
「私信ではなくなるぞ」
「内容は、本人が伝えてよいと認めた一文だけです」
秘密を守る手紙と、広く伝えてよい言葉を分ける。
何でも商品へ隠せばよいわけではない。
サラはそれを理解した上で、灯りの一文を選んだ。
ジークが陶器を預かる。
「娘の場所が分からなかったら?」
「次の市場へ置いてください」
「いつまで?」
「見つかるまで、では長すぎます」
ノアは考えた。
「七つの市場を巡って見つからなければ、セレノへ戻してください。手掛かりを見直します」
届けられない言葉を、永遠に人へ背負わせない。
探す区切りも必要だった。
夕方、七都市を巡った最初の品がエルデへ戻った。
八本切れ目のパンだった。
もちろん、元のパンではない。
ジークが道で会った者へ渡し、その者が半分を食べた。
残りは別の村へ。
最後にはすべて食べられた。
代わりに、受け取った七人が同じ形のパンを一つずつ焼き、次へ渡した。
エルデへ戻ったパンは、形が歪み、切れ目も九本あった。
「違うパンになってる」
リノが言った。
「でも、同じものを作ろうとしたことは分かります」
ノアは添えられた札を読む。
――エルデの市場が開いたと聞いた。
――自分たちの村でも、余った芋と薪を交換した。
――中央の登録が戻らなくても、明日食べる物を分けた。
七都市の外にある小さな村だった。
市場の続きは、七つの町だけに留まっていない。
「第五続日」
ノアは続日板へ記した。
――七都市と街道の人々が、品物と仕事と、届けてよい言葉を交換した。
中央大暦鐘が二度鳴る。
零年化完了まで、残り二日。
鐘が止むと同時に、エルデの市場台帳へ黒い印が浮かんだ。
――無許可交易の主催者を拘束する。
その下に、主催者名を記す欄がある。
黒い墨は、ノアの名を書こうとして止まった。
今日の市場を開いたのは、一人ではない。
パンを出した者。
乳を運んだ者。
靴を直した者。
情報を持ってきた者。
品物を次へ渡した者。
町の全員が主催者だった。
黒い印は名前を選べず、台帳の上で砕けた。
「一人を捕まえれば止まる市場じゃない」
リノが割れた印をつつく。
「はい」
ノアは七つの品を長机へ置いた。
「明日は、市場で得た物を使わない日を作ります」
「使わないの?」
ミラが尋ねる。
「中央は、町が生きるには働き続けなければならないと思っています」
零年化完了まで、あと二日。
「だから次は、七都市で同じ日に休みます」




