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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第40話 ノアが町の一員になった日

 エルデへ戻る街道で、ノアは三度、自分の名前を尋ねられた。


 一度目はハルムの門番だった。


 二度目は、旧観測路の橋を管理する老人。


 三度目は、ラウゼンから来た郵便馬車の御者だった。


「一緒に歩いているのは分かるんだ」


 御者は申し訳なさそうに言った。


「でも、顔を見ていると、誰だったか抜けていく」


「ノア・アルデンです」


 ミラが答える。


「エルデへ帰る人」


 御者は手元の名簿へ書いた。


 ノア・アルデン。


 数呼吸後、文字の端が薄くなる。


「すまない」


「あなたの責任ではありません」


 ノアは七都市の証言が縫われた布札を胸元へ押さえた。


 ラウゼン。


 ネーヴァ。


 グランザ。


 ヴァルド。


 セレノ。


 ハルム。


 エルデ。


 七つの町が、幼いノアを見た記録。


 布札を持っている間は、完全には消えない。


 しかし、それだけだった。


 出生の日付はない。


 中央の登録もない。


 自分の名を書けば消える。


 今では、すぐ隣を歩くミラでさえ、ときどき胸元の札を読まなければならなかった。


「ノア」


 ミラが突然呼んだ。


「はい」


「確認しただけ」


「何度でも構いません」


「私が忘れたら?」


 ノアは答えを探した。


「エレナさんが呼んでください」


「母さんも忘れたら?」


「ルカさんが」


「皆が忘れたら?」


 今度は答えられなかった。


 後ろを歩くエレナが、空草色の糸をミラの手首へ巻いた。


 反対側の端は、ノアの旅程札へ結ぶ。


「名前が出なくなったら、糸をたどりなさい」


「母さんは?」


「私はパンの切れ目で覚える」


 エレナは旅用の平焼きパンを見せた。


 七本の切れ目。


 中央には、鉄筆の形をした小さな印が追加されていた。


「これは誰の印ですか」


 ノアが尋ねる。


「細かいことばかり書く人」


「名前で呼んでください」


「なら、消えないようにしなさい」


 エレナの声は厳しかった。


 けれど、その目は十三年前、青い布の子どもを見送った人のものだった。


 エルデの時計塔が見えたのは、五回目の七つ鐘が鳴る日の夕方だった。


 帰還予定として書いた最後の日。


 町の門には、大勢の住民が集まっている。


 門柱。


 壁。


 荷車の板。


 パン屋の看板。


 あらゆる場所に、同じ名前が書かれていた。


 ノア・アルデン。


 市場日を戻した人。


 給金日を作った人。


 七つの曜日を見つけた人。


 春の町と、戦争の終わった町から帰ってくる人。


 文字が薄くなれば、その上から書き直してある。


「帰ってきた!」


 リノが門の前から走ってきた。


 ノアのすぐ前で足を止める。


 少女は顔を見上げた。


 嬉しそうだった表情が、ゆっくりと不安へ変わる。


「……誰?」


 ミラの手首に巻かれた糸が、強く引かれた。


 ノアは名乗ろうとする。


 だが声が出なかった。


 名前を忘れたわけではない。


 自分がその名前を名乗ってよい理由だけが、急に分からなくなった。


 リノは慌てて、首から下げた何枚もの札をめくる。


「黒い髪。紙をいっぱい持ってる。パンを食べるのが遅い」


「最後の特徴だけで分かるでしょう」


 ミラが言う。


 リノはノアの顔と札を見比べた。


「ノア?」


「はい」


「本当に?」


「本人が本当だと言っても、今は証明になりません」


「そういう言い方するなら、ノアだ」


 リノは笑いかけた。


 それでも目から涙が落ちる。


「何度も読んだのに、顔が分からなくなった」


「名前を残してくれました」


「でも足りなかった」


 リノはノアの外套をつかんだ。


「帰ってきたのに、またいなくなるの?」


 ノアは、町の中を見た。


 誕生日の札。


 市場の注文札。


 給金袋。


 葬送の記録。


 学び期の板。


 季節観測。


 旅程札。


 自分の名は消されても、町で行った仕事は残っている。


 だが、それらはノアが存在した証拠であって、ノアを中央暦へ登録する始まりの日にはならない。


「私の出生記録を戻すには、まだ七都市の完全な接続が必要です」


「誕生日じゃなくていいんじゃない?」


 リノが言った。


 ノアは少女を見る。


「何がですか」


「私も、生まれた日は分からなかった」


 リノは自分の誕生日札を胸元から出した。


 青い糸。


 窯の記録。


 見つけた人たちの証言。


「でも、町に見つけてもらった日を誕生日にした」


「あなたの場合は、その日にエルデの住民として受け入れられた出来事がありました」


「ノアもあるよ」


「いつですか」


「今日」


 リノは町の人々を振り返った。


「今日、帰ってきた。皆が待ってた。門を開けた。今ここにいる」


「それでは、出生の記録にはなりません」


「誕生日にしろって言ってない」


 リノは少し怒った顔で言う。


「ノアが、エルデの人になった日にするの」


 広場が静かになった。


「今日までも、私はこの町で暮らしていました」


「でも、ずっと王都の暦務官だったでしょう」


 ミラが言った。


「中央の命令を受けて、町へ来た人だった」


「現在は暦務官の資格も確認できません」


「なら、ちょうどいいわ」


「何がです」


「王都があなたをいないと言うなら、エルデがもらう」


 オルガが腕を組む。


「工房の勤務日を整理する借りも返してないしな」


 セラが薬籠を掲げた。


「途中で消えられたら、代金を請求できないよ」


 ガスは陶板を一枚、長机へ置く。


 そこには不格好な顔と、大量の紙が刻まれていた。


「俺が作った。似てないが、紙を持ってるから分かる」


「似ていないにも限度があります」


「文句を言うなら本人だな」


 ダリオは、衰弱したルカを支えて前へ出た。


 父と息子は、十三年ぶりに同じ鐘の下へ立っている。


「この男が、息子の名を扉の外から呼んだ」


 ルカも掠れた声で続ける。


「父さんのところへ帰る道を作った」


 エレナはミラの手を握った。


「娘を、十三年間待った日から連れ出してくれた」


 宿から救い出された者たちも、それぞれの経過札を掲げた。


 名前を失ったままの人もいる。


 それでも、自分を一人として数した人物のことは覚えていた。


「町の全員へ確認します」


 ノアは言った。


「感情だけで日付を作ることはできません」


「また仕事の顔になった」


 ミラが呟く。


「必要です」


 長机へ、今日の出来事が集められた。


 北門が開いた記録。


 五回目の七つ鐘。


 旅程札。


 帰還した人数。


 ハルム、セレノ、ヴァルド、ネーヴァの確認印。


 エレナとルカが、実際にエルデへ戻ったこと。


 そして、ノアを町の一員として受け入れるという住民の意思。


「反対する人はいますか」


 ノアが尋ねた。


 一人の農夫が手を挙げた。


「反対じゃない。ただ、何をすれば町の一員になるんだ」


「町の仕事と権利を共有します」


「税も?」


「決められた分は」


「休みも?」


「必要です」


「困ったときは?」


「助けを求めます」


「今まで、一人で決めようとしてたのに?」


 ノアは答えに詰まった。


 ミラが横から言う。


「そこはこれから覚えるのよ」


 農夫は手を下ろした。


「なら賛成だ」


 住民たちは一人ずつ、今日の記録へ印を加えた。


 商印。


 工房印。


 畑の印。


 パンの切れ目。


 文字を習った子どもは自分の名。


 書けない者は、ノアと共有した出来事の絵。


 最後にリノが、空欄の中央へ書く。


 ――ノア・アルデンが、エルデの一員になった日。


「今日からでは、過去がなくなりませんか」


 ノアが尋ねた。


「なくならないよ」


 リノは市場札を指した。


「今日までのことがあったから、今日ここにいるんでしょう」


 過去を作り直すのではない。


 生まれた日を偽るのでもない。


 今、町が一人を受け入れた出来事を記す。


 証人は、エルデの住民。


 物的記録は、ノアが町で積み重ねたすべての札。


 そして本人の意思。


「ノア」


 ミラが尋ねた。


「この町の一員になりますか」


 ノアは、答える前に広場を見た。


 初めて来た日には、今日すらなかった町。


 誕生日のない少女。


 休むことを知らなかったパン屋。


 七つ目の鐘を恐れた住民。


 中央から消された人々。


 ここには、ノアの出生を証明するものはない。


 だが、これからどこへ帰るかを決めることはできる。


「はい」


 ノアは答えた。


「エルデへ帰る者として、町の一員になります」


 暦墨が強く光った。


 中央の黒い零番印が、ノアの胸元へ浮かぶ。


 名を飲み込もうと広がる。


 その上へ、住民たちの印が一つずつ重なった。


 一人。


 十人。


 五十人。


 町の外からも光が届く。


 ネーヴァの白鐘花。


 ヴァルドの終戦鐘。


 セレノの赤い糸。


 ハルムの三本麦。


 ラウゼンの林檎。


 まだ訪れていないグランザからも、鉱石の鈴が一度鳴った。


 七都市が、同じ一人を見たと証言している。


 黒い零番印に亀裂が入った。


「名前を書いて!」


 リノが叫ぶ。


 ノアは鉄筆を握った。


 新しい町民札へ、自分の名を書く。


 ノア・アルデン。


 待つ。


 一呼吸。


 二呼吸。


 文字は消えなかった。


 暦務官免許にも、薄い名が戻る。


 担当者が空白になっていた市場札、誕生日札、春季記録、終戦記録へ、同じ名前が次々と浮かび上がった。


 ノアの顔を見失っていた住民たちが、息を呑む。


「いた」


 リノが泣きながら笑う。


「ずっと、いた」


 ノアの足元へ、はっきりとした影が落ちた。


 出生の日は、まだ分からない。


 中央での身分も、完全には戻っていない。


 それでも、暦の上にノア・アルデンという一人が存在している。


 誰かの所有物でも、零番でもない。


 エルデの町民として。


 大時計が七つ鳴った。


 最後の鐘の余韻が消えると、文字のなかった町の暦板に新しい日が加わった。


 王暦六百二十六年、眠り月二十八日。


 エルデ暦、帰還の日。


 ノア・アルデン受入日。


「誕生日みたいに祝う?」


 リノが尋ねる。


「毎年、住民一人を受け入れるたびに祭りを増やすと、働く日がなくなります」


「じゃあパンだけ」


 ミラが言った。


「七本の切れ目?」


「今日は八本」


「なぜです」


「七つの町と、帰る場所一つ」


 エレナが窯へ火を入れる。


 ミラとリノが生地を運ぶ。


 ノアも手伝おうとすると、粉袋を持たされた。


「町の一員なら働いて」


「受け入れた直後からですか」


「権利と仕事を共有するんでしょう」


 広場に笑いが起きた。


 その夜、七都市の観測線が十三年ぶりにすべて光った。


 時計塔地下の零番庫では、黒く塗られていたノアの出生台帳から、無効印が剥がれ落ちる。


 代わりに、中央暦院の最深部で一冊の白い台帳が開いた。


 表紙に記されていたのは、二つの文字。


 零年。


 最初の頁へ、中央暦院長の命令が浮かび上がる。


 ――地方暦による零番処理の解除を確認。


 ――七都市の暦が完全に接続する前に、全記録を起点へ戻す。


 ――王国暦、零年化を開始する。

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