第41話 すべてを最初に戻す命令
ノアがエルデの一員になった翌朝、町から日付が消えた。
大時計は夜明けと同時に一度だけ鳴った。
鐘の音は普段より低く、地面の奥へ沈むように長く響く。
広場の暦板へ集まった住民たちは、誰も声を出せなかった。
昨日まで刻まれていた文字がない。
王暦六百二十六年。
眠り月二十九日。
帰還の日の翌日。
すべてが白く塗り潰され、その中央に三つの数字だけが浮かんでいる。
零年。
零月。
零日。
「昨日がなくなったの?」
リノが自分の誕生日札を胸元から引き出す。
札に残っているのは、青い糸と、窯の印と、見つけた人々の署名。
中央暦の日付だけが消えていた。
「私の誕生日も?」
「出来事は残っています」
ノアは札を確認した。
「あなたがエルデへ受け入れられたことも、その証人も、青い糸も消えていません」
「でも、いつだったか書いてない」
「中央暦との接続だけが切られています」
「それって、消えたのと何が違うの?」
すぐには答えられなかった。
昨夜、町の人々がノアの名を呼び、黒い零番印を砕いた。
その直後、中央暦院は王国全体へ零年化を始めた。
一人の存在を消せないなら、その人を証明する暦そのものを最初から無効にする。
「これは時間を戻す術ではない」
レグナートが中央から届いた通達を広げた。
「建物も、人の年齢も、昨日の出来事も消えない」
「なら何が零になるんだ」
オルガが尋ねる。
「国が認める記録だ」
通達には、零年処理の対象が並んでいた。
出生。
婚姻。
死亡。
土地所有。
契約。
税。
身分。
労働資格。
すべてを未登録状態へ戻し、中央暦院が順番に再確認する。
「再確認されるまで、この工房は誰のものでもない?」
「中央の制度上は」
「俺が建てたんだぞ」
「建てた出来事は残る。だが所有権の登録番号が失われる」
「登録し直せばいいのか」
「中央が認めればな」
住民たちの視線が、七都市の観測線へ向かう。
エルデは、つい最近まで地図に存在しなかった。
中央へ再登録を申請しても、町そのものを認められなければ、土地も家も仕事も登録できない。
「全部取り上げてから、気に入った人へ配り直すつもりね」
ミラが通達を睨んだ。
「戦争のあとにやったことと同じ」
「今回は七都市だけではありません」
レグナートは紙の末尾を示す。
――王国全域の暦を零年へ移行する。
「王都も?」
「表向きは、すべての地域が対象だ」
「表向き?」
「中央に保管された原簿から、優先的に復元される地域が指定されている」
王都。
中央直轄領。
暦院が認めた貴族領。
大商会の管理地。
それらは零年化の直後に、旧記録をそのまま再登録できる。
一方で、地方の手書き記録や、中央と競合する土地証書は審査対象となる。
「王都の人たちは、ほとんど何も失わない」
ノアが言った。
「七都市の記録だけが、もう一度、存在を証明するところから始めさせられます」
「卑怯だ」
カイが拳を握った。
「全部を零にするって言いながら、自分たちの分だけ先に戻すんだ」
「だから止めます」
ノアは暦板の零日へ手を伸ばした。
「どうやって?」
リノが尋ねる。
「昨日を、中央だけの記録にしないようにします」
広場に長机が出された。
最初に集めたのは、昨夜の記録だった。
北門の開閉札。
五回目の七つ鐘。
旅程札。
エレナとルカの帰還確認。
七都市の証言布。
ノアの町民札。
パンに入れた八本の切れ目。
「食べたパンまで?」
リノが尋ねる。
「物は残っていませんが、同じ形を見た人がいます」
「味も覚えてる」
ガスが言った。
「少し塩が足りなかった」
「余計なこと言わなくていいわ」
ミラが睨む。
「同じパンの話をしている証拠にはなります」
ノアはガスの感想もそのまま記した。
「本当に書くの?」
「都合のよい部分だけ残せば、記録の信用が落ちます」
「塩が足りないことまで、王都に知られるじゃない」
「提出しなければよいでしょう」
町の記録は、中央へ認めてもらうためだけに作るものではない。
住民同士が、同じ出来事を確かめるためにも必要だ。
「でも、昨日の日付は書けないよ」
リノが白紙を指す。
「王暦が零になったから」
「順番を残します」
ノアは暦板の横へ、新しい木板を置いた。
最初の欄に、昨夜の出来事を書く。
――ノア・アルデンをエルデの一員として受け入れた。
次の欄。
――そのあと、八本の切れ目を入れたパンを焼いた。
さらに次。
――住民が眠り、夜番が交代した。
――空が明るくなり、大時計が一度鳴った。
――中央暦が零年零月零日へ変化したことを確認した。
「これは今日の日付?」
「違います」
ノアは答えた。
「出来事の順序です」
「何番目かを数えるの?」
「はい。中央暦との接続が戻るまで、町で確認できる出来事を一つずつつなぎます」
現在を無理に王暦へ当てはめれば、中央に不正暦と呼ばれる。
存在しない正式日付を作ることもできない。
それでも、昨日の次に朝が来たことは残せる。
「名前は?」
リノが尋ねる。
「何の?」
「今日の」
ノアは考えた。
「零年化を確認した朝」
「長い」
「正確です」
「もっと分かりやすくして」
広場の住民から、いくつか案が出た。
白くなった朝。
全部消された朝。
怒った朝。
パンを食べ直した朝。
「最後は何ですか」
「昨日のパンが残ってるから」
ガスが答える。
ミラが残ったパンを籠ごと持ってきた。
「今日の名前を決める前に食べるの?」
「朝食を止める理由はないでしょう」
パンは少し硬くなっていた。
スープへ浸し、住民たちへ一切れずつ配る。
昨日、ノアを受け入れた日に焼いたパン。
今日、零年化を確認した朝に食べたパン。
二つの出来事を同じ物がつないでいる。
「続きの朝」
リノが言った。
「昨日がなくなってないなら、今日はその続きでしょう」
ノアは町の人々を見た。
「中央暦上の正式名称にはできません」
「町で呼ぶだけでいいよ」
「異論がある方は?」
反対する者はいなかった。
新しい木板に記す。
エルデ記録、第一続日。
続きの朝。
「第一って、零から始めないの?」
カイが聞く。
「朝が来たという出来事は一つあります」
ノアは零日の暦板を見上げた。
「何もなかったことにはしません」
町の仕組みを止めないため、続日ごとの仕事が決められた。
市場は予定通り開く。
給金は、最後に確認された勤務札から数える。
契約期限は、中央暦ではなく、次の市場、次の鐘、納品の完了など、出来事の条件を優先する。
葬送や出生があった場合は、証言と物を保存し、続日の順番へ置く。
「毎日、町中の出来事をノアが書くの?」
リノが尋ねる。
「一人では無理です」
時計塔。
パン屋。
鍛冶工房。
礼拝堂。
北門。
町の五か所へ、同じ形の続日板を設置する。
朝と夕方、各場所の担当者が、確認した出来事を記す。
五枚すべてが同じである必要はない。
時計塔は鐘。
パン屋は窯と配達。
工房は勤務と給金。
礼拝堂は出生、病、葬送。
北門は出入り。
「一枚を消されても、残りが順番を証言できます」
ノアが説明する。
「全部違ってたら?」
「違いも残します。確認できた事実だけを照合します」
町の人々が担当を決め始めた。
ノアは自分の名をどの板にも入れなかった。
「何で?」
リノがすぐに気づく。
「私の記録を起点にすると、また存在を消された場合に弱くなります」
「町の一員なのに?」
「町の一員だからこそ、一人で支えません」
リノは少し考え、自分の名を時計塔の担当欄へ書いた。
「私は鐘を数す」
「数えます、です」
「あ」
「私も先日、同じ間違いをしました」
「じゃあノアが教える係」
「それでは私の名前が入ります」
「仕事なら入れていいでしょう」
リノはノアの名を担当欄ではなく、備考へ書いた。
――文字を間違えたら教える人。
「正式な仕事ではありません」
「町でやってる仕事だよ」
消そうとしたが、周囲の子どもたちが同じ文を書き始めた。
ノアの名は薄れなかった。
昼過ぎ、七都市の観測線から次々に信号が届いた。
ネーヴァ。
春の日は残っているが、中央暦の日付が消えた。
ヴァルド。
終戦確認書の年が零へ変わった。
セレノ。
すべての郵便へ、差出日未登録の印が押された。
ハルム。
収穫札から年と月が消えた。
ラウゼン。
林檎の出荷期限が無効となり、商隊が止められた。
グランザ。
交代時刻を示す鉱山鐘が、再び鳴り止まなくなった。
「七都市全部で始まってる」
ミラが観測板を見る。
「町ごとに守るだけでは足りません」
ノアは七本の線をつないだ。
「七都市が、互いの続日を証言する必要があります」
「どうやって毎日知らせるの?」
「市場、鐘、郵便、収穫、勤務、季節。それぞれの町が得意な出来事を使います」
七つの町が同じ日付を書く必要はない。
ネーヴァの鐘が鳴ったあと、セレノでその報告を受け取る。
セレノの郵便がハルムへ届き、ハルムの麦がラウゼンへ運ばれる。
出来事を鎖のようにつなげれば、一つの町だけを暦から切り離せなくなる。
「七都市へ返事を送ります」
ノアが鉄筆を取ったとき、王都の方角から巨大な鐘が鳴った。
一度。
エルデの大時計とは比べものにならない重い音が、空そのものを震わせる。
レグナートの顔が青ざめた。
「中央大暦鐘だ」
「何の鐘ですか」
「零年化の開始を王国全土へ告げる鐘」
二度目が鳴る。
中央からの通達に、新しい文字が浮かんだ。
――七日後、旧王国暦との接続を完全に切断する。
――未登録の地方暦、土地、契約、身分および住民記録は、すべて復元対象外とする。
「七日後に、全部消えるの?」
リノが尋ねる。
「消えるのではありません」
ノアは五枚の続日板を見た。
「中央が、存在しないものとして扱います」
「同じじゃない?」
「違います」
ノアは第一続日の欄へ、王都の鐘を聞いた事実を書き加えた。
「存在しないと言われても、こちらが互いを数え続ければ、なくなりません」
三度目の大暦鐘が鳴る。
七日間の最初の一日が、すでに始まっていた。




