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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第39話 誰のものでもない収穫

 穀倉都市ハルムの麦畑は、黄金色のまま放置されていた。


 穂は重く垂れ、少し風が吹くだけで実が地面へこぼれる。


 収穫の時期を過ぎている。


 それなのに、鎌を持つ者は一人もいなかった。


「病気が広がったのですか」


 ノアが尋ねると、道案内の農夫は首を横へ振った。


「刈ったら取られる」


「中央に?」


「誰に取られるのかも、もう分からん」


 農夫は畑の先にある大きな穀物倉を指した。


 扉には、黒い十三の印が押されている。


「麦を倉へ入れると、持ち主の名前が消える。次の朝には中央の荷車が来て、所有者不明の戦時備蓄として持っていく」


「毎年ですか」


「毎年じゃない」


 農夫は苦い顔をした。


「毎回、同じ収穫日だ」


 ハルムの暦板には、十三年前の日付が刻まれていた。


 王暦六百十三年、実り月十三日。


 総収穫日。


 その下へ、今年の収穫量を記す欄がある。


 だが数字は、すべて黒く塗り潰されていた。


「種を蒔く日は進んでいるの?」


 ミラが尋ねる。


「雪が解けたら蒔く。穂が垂れたら刈る。それは分かる」


「なら、季節は進んでる」


「畑はな」


 農夫は自分の腹へ手を当てた。


「俺たちの収穫だけが、十三年前から進まん」


 住民たちは麦をまったく刈らないわけではなかった。


 夜明け前、家族が一日に食べる分だけを手で摘む。


 粉にして、その日のうちに食べ切る。


 倉へ入れない。


 売らない。


 来年の種にも記録をつけない。


 そうすれば中央に見つかりにくい。


 だが備蓄はできず、少し雨が続けば飢える。


 豊かな畑に囲まれながら、町の子どもたちは痩せていた。


「今年の収穫だけは奪わないで」


 空の麦穂から聞こえた声。


 その主は、黒い印のある穀物倉にいた。


 女とも男とも判別しにくいほど痩せた人物が、空の麻袋へ何度も印を押している。


 顔には深い疲れ。


 髪は短く切られ、首から一本の麦紐が下がっていた。


「誰ですか」


 ノアが尋ねる。


「種を残す者」


「名前は?」


「返した」


「誰に」


「倉へ」


 その人物は空袋を持ち上げる。


 袋の表には何も書かれていない。


「名前を一つ渡せば、種麦を一袋だけ残してくれる」


「誰が残すのですか」


「十三日目」


 サラが前へ出た。


 セレノからハルムまで、彼女も同行していた。


 名前を失ったもう一人を、自分の目で見つけたいと言ったのだ。


「私を覚えてる?」


 人物はサラの顔を見た。


 視線が釣り針へ移る。


「手紙を運ぶ者」


「サラ・ネイ」


「名前が戻ったのか」


「皆が返してくれた」


「なら、私の名前も届けた?」


「知らない」


 サラは隠さず答えた。


「手紙には、あなたの名前がなかった」


「そう」


 人物は落胆すら見せなかった。


 何度も同じ答えを聞いてきたようだった。


「名前を返した、とはどういう意味です」


 ノアは倉の床を調べた。


 中央に、古い所有者台帳が埋め込まれている。


 ハルム共同収穫。


 管理者名。


 その欄だけが、何度も削られていた。


 一番下には、薄い筆圧が残っている。


「毎年、自分の名前を書いたのですか」


「種を守るため」


 人物は倉の奥を指した。


 小さな木箱に、種麦が一袋だけ保管されている。


「町の収穫は持っていかれる。でも、管理者の私有分なら一袋だけ残せた」


「書いた名前が消されれば、私有分ではなくなるでしょう」


「次の名前を書く」


 最初は本名。


 次は家で呼ばれていた名。


 その次は、子どもの頃の愛称。


 役目。


 出身地。


 親の名とつながった呼び方。


 一つずつ倉へ渡し、種麦を守った。


「もう残っている名前がない」


 人物は麦紐を握った。


「だから今年は、種も取られる」


「それで、名前を返すから収穫を奪うなと?」


「名前がないなら、私を全部渡す」


 ミラが表情を険しくした。


「種一袋のために、自分を消す気?」


「この種がなければ、来年の麦がない」


「あなたが消えたら、誰が蒔き方を教えるの」


「誰かが覚えてる」


「町の人たちは、あなたの名前も覚えてないのよ」


「名前はいらない」


「いるわ」


 ミラの声が強くなる。


「パンを焼いた人も、手紙を運んだ人も、種を残した人も、役目だけで生きてるんじゃない」


 人物は反論せず、空袋へ印を押し続けた。


 ノアは倉の台帳を写し取った。


 毎年同じ収穫日。


 毎年違う麦の量。


 毎年一人の管理者名が記され、その直後に消されている。


「黒い十三印が、収穫を中央へ移している根拠は?」


 レグナートが台帳の下から命令板を引き出した。


 ――戦時中の総収穫は、所有者を問わず中央軍へ供出する。


「戦争は終わっています」


「ハルムでは終戦日が登録されていません」


「ヴァルドで復元した終戦記録があります」


 ノアは写しを取り出した。


 両国の印。


 司令官の証言。


 鉄月十四日の終戦確認。


「これをハルムの台帳へ接続できれば、戦時供出命令は現在の麦へ適用できません」


「中央は、別の町の日付を認めない」


 種を守る人物が言った。


「だから、七都市が互いに証言するのです」


 ノアはセレノで仕分けた手紙の束を開いた。


 ハルム宛ての郵便は、百通以上あった。


 その中に、赤い糸で結ばれた一通がある。


 差出人は北方砦都市ヴァルド。


 宛先には個人名。


 ――ハルム種子管理官、アイラ・ウェン。


「アイラ」


 サラが声に出す。


 空袋へ印を押していた手が止まった。


「知っていますか」


 ノアが尋ねる。


「知らない」


 答えながら、その人物の目から涙が落ちた。


 サラが封筒を差し出す。


「この字、見覚えは?」


「私の……」


 宛先の下には、麦穂を三本重ねた小さな印がある。


 首から下がる麦紐と同じ結び方だった。


「アイラ・ウェン」


 サラがもう一度呼ぶ。


「旧観測宿から、ハルムへ種を守りに行った人」


 エレナも続く。


「パンを十人分に分けるとき、一番小さいものを自分で取った人」


 ルカが、麦紐を見つめた。


「エドガーへ、ハルムの種を必ず残すと約束した人」


 人物の唇が震える。


「アイラ」


 今度は、自分で口にした。


 倉の台帳に削られていた最初の文字が、薄く浮かび上がる。


 アイラ・ウェン。


 種子管理官。


 名前が戻った瞬間、黒い十三印が台帳の上で動いた。


 アイラの名を再び飲み込もうとする。


「書かせません!」


 ノアが鉄筆を押し当てる。


 だが本人が書いた名は、黒い印へ引かれて薄くなる。


「皆で書いて!」


 ミラの声に、住民たちが集まった。


「誰の名前だ」


 農夫が尋ねる。


「毎年、種を残した人です」


 ノアは台帳の消された欄を示す。


「皆さんが来年も麦を蒔けたのは、アイラさんが一袋ずつ守ったからです」


「種を守る者じゃないのか」


「それは役目です。名前はアイラ・ウェン」


 一人が木札へ書く。


 アイラ。


 別の者が麻袋へ書く。


 アイラ・ウェン。


 字が書けない子どもは、麦穂を三本描いた。


「この人が、種を残したの?」


「そうです」


 痩せた少年がアイラの手をつかんだ。


「去年、蒔き方を教えてくれた人?」


 アイラは頷いた。


「なら覚えてる。土を深く掘るなって怒った」


「怒ってない」


「怒ってたよ」


 少年が笑った。


「アイラが怒った」


 町の人々が、役目ではなく名前で彼女の出来事を語り始める。


 種袋を雨から守った。


 芽の病気を見つけた。


 飢えた家へ、自分の麦粥を渡した。


 毎年、最初の一袋だけを倉から取り戻した。


 黒い十三印に亀裂が入る。


 アイラの名は、もう一つの台帳から消せても、町中の札から同時には消せない。


「収穫を始めましょう」


 ノアが言った。


 農夫たちが畑を見る。


「刈れば、荷車が来る」


「今年の収穫が戦時中のものではないと、先に記録します」


 種を蒔いた者。


 畑を管理した者。


 今年の天候。


 開花。


 実入り。


 最初に刈る穂。


 七都市の終戦記録。


 それらを中央の倉へ入れる前に、畑ごとに残す。


「所有者名が消されたら?」


「個人名だけへ集めません」


 家族の畑。


 共同畑。


 療養所の分。


 来年の種。


 目的ごとに、複数の証人を置く。


 一人の名前が消えても、収穫そのものを所有者不明にはさせない。


 最初の鎌を握ったのは、アイラだった。


 黄金色の穂を一束刈る。


「これは誰の麦ですか」


 ノアが尋ねる。


 アイラは町の人々を見た。


「私のではない」


 黒い印が動きかける。


「町のもの?」


「それだけでも足りません」


 アイラは少し考え、最初の束を三つへ分けた。


「一つは、今年食べる人のもの」


「一つは、来年蒔く人のもの」


「最後は?」


 少年が尋ねる。


「十三年間、麦を奪われた人たちの証拠」


 三つの束へ、それぞれ異なる札を結ぶ。


 畑に鎌の音が広がった。


 一人が刈る。


 一人が束ねる。


 一人が数える。


 一人が目的札を書く。


 穀物倉へ運ばれても、名前は消えなかった。


 黒い十三印が中央から裂け、戦時供出命令の文字が灰になって落ちる。


 夕方、中央の荷車が現れた。


 役人は倉の台帳を確認し、いつもの命令板を掲げる。


「所有者不明の戦時備蓄を接収する」


「戦争は終わりました」


 レグナートがヴァルドの終戦記録を示す。


「この麦は、終戦から十三年以上経過した現在の収穫です」


「地方の写しでは認められない」


「中央の受領印があります」


 さらに、アイラが町の収穫台帳を掲げる。


「所有者不明でもない」


 役人は台帳からアイラの名を消そうとした。


 だが消えない。


 町の住民全員が、同じ名と出来事を持っている。


「この人が種を守った!」


 少年が叫ぶ。


「アイラ・ウェン!」


 農夫たちも続いた。


「今年の収穫を管理した、アイラ・ウェン!」


 役人の黒印が砕けた。


 荷車は一袋も積めずに引き返した。


 その夜、ハルムでは十三年ぶりに、穀物倉から麦が配られた。


 アイラは最初の種袋を抱えたまま、まだ自分の名を何度も確かめている。


「アイラ・ウェン」


「消えません」


 ノアが言った。


「私が眠っても?」


「町の人々が呼びます」


「町を離れたら?」


「サラが手紙を届けます」


「宛先を書ける?」


 サラは新しい封筒を差し出した。


 ――穀倉都市ハルム、種子管理官アイラ・ウェンへ。


「今度は届く」


 アイラは封筒を胸へ抱いた。


 そのあと、十三年間守ってきた種袋の底から、一枚の布札を取り出した。


「エドガーから預かった」


 七つの町の印が刺繍されている。


 中央には、青い布に包まれた子どもの印。


「ノアの?」


 ミラが息を呑む。


「七都市が、この子を見た証拠」


 布札の裏には、七つの短い記録が縫われていた。


 ラウゼンで林檎の蜜を与えられた。


 ネーヴァで白鐘花を握った。


 グランザで鉱石の鈴に泣き止んだ。


 ヴァルドで兵士の外套に包まれた。


 セレノから船で運ばれた。


 ハルムで最初の麦粥を食べた。


 そしてエルデで、エレナにノアと呼ばれた。


「出生の日は?」


 ノアが尋ねる。


「書いてない」


 アイラは最後の縫い目を指した。


 ――七都市すべてが再び同じ暦へつながったとき、この子がここにいた日を定める。


 ノアの旅程札が強く震えた。


 エルデから文字が届く。


 何度も書き直した跡のある、リノの筆跡だった。


 ――早く帰ってきて。


 ――町の人が、ノアの顔を思い出せなくなってる。


 最後の一行は、途中から薄れていた。


 ――私も、名前を何度も読まないと――


 そこで文字は途切れている。


 ノアは七都市の布札を胸元へ結んだ。


「エルデへ帰ります」


 今度は、帰還予定を書かなかった。


「今日から、帰るために出発します」

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