第37話 返事の届かない郵便係
河港都市セレノへ続く街道には、道標の代わりに古い錨が立っていた。
一本目は、鎖が東を指している。
二本目は南。
三本目では、鎖が地面へ埋まり、どちらへ進めばよいのか分からなくなっていた。
「港へ行く道なのに、川の音がしないわね」
ミラが足を止める。
森を抜けてから、半日以上歩いている。
地図では、そろそろ大河が見えるはずだった。
だが空気に水の匂いはなく、代わりに古い紙と封蝋が焼けたような匂いが漂っている。
ノアの手にある釣り針は、南東へ引かれ続けていた。
七回巻かれた赤い糸が、風もないのに震えている。
「道が消えているのではありません」
ノアは三本目の錨を調べた。
根元には文字を削った跡がある。
薄紙を重ね、炭でこすると、元の文字が浮かび上がった。
――セレノまで一里。
その下に、新しい刻印。
――宛先不明につき返送。
「道を返送したの?」
ミラが呆れたように言う。
「港へ向かう人間や荷物だけでなく、道そのものを郵便路として処理したのでしょう」
レグナートが中央印を確認する。
「セレノの都市登録が消えた結果、街道の終点も存在しない宛先になった」
「歩いてる道はあるのに?」
「中央の交通台帳では、ここから先へ進んでも到着地がない」
ハウルが錨の鎖を掘り起こした。
鎖の下には、石畳が続いている。
「道は残ってる。掘れば進める」
「すべて掘っていたら、港へ着く前に冬が終わるわ」
ミラが言った。
エレナは錨へ結ばれた赤い糸を見つけた。
「この結び方、あの人のものよ」
「セレノへ向かった郵便係ですか」
「手紙を束ねるとき、最後に二重に輪を作るの」
糸をほどくと、錨の内側から薄い金属板が落ちた。
船の印。
その裏へ、短い文が刻まれている。
――届ける人は、次の錨へ赤い糸を結ぶこと。
「道標を作り直しながら進んだのですね」
郵便係は、宛先を失った街道を自分の糸でつないだ。
ノアたちは赤い糸を目印に、埋もれた石畳をたどった。
四本目の錨。
五本目。
七本目を越えたところで、突然、潮の匂いがした。
森の向こうに、大きな川が現れる。
川幅は湖のように広く、その先には海へ続く白い光が見えた。
河岸には倉庫と桟橋が並び、何十隻もの船が停泊している。
しかし、動いている船は一隻もなかった。
「港は生きてる」
ミラが言う。
倉庫から荷を運ぶ人。
網を修理する漁師。
樽を転がす港夫。
人々は働いている。
それなのに、船を出す者だけがいない。
港の門をくぐると、番人が板を差し出した。
「到着地を」
「セレノです」
ノアが答える。
番人は板を裏返す。
「その町は登録されていない」
「今いる場所は?」
「セレノ港だ」
「都市としては存在しないのですか」
「港だけがある」
「誰が管理を?」
「中央河川運輸局」
「住民は?」
「港湾従事者」
「家は?」
「作業員宿舎」
町ではない。
住民ではない。
暮らしている家でもない。
セレノは港湾施設と労働者だけに分解され、都市としての名前を奪われていた。
「では、セレノに住む人へ手紙を送る場合は?」
ノアが尋ねる。
「宛先不明で戻る」
「ここにいるのに?」
「作業員番号があれば届く」
「番号がない人は?」
「いないことになる」
番人はノアの身分札を照合板へ置いた。
所有者なし。
表示を見て、顔を強張らせる。
「お前も番号がないのか」
「名前はあります」
「名前だけじゃ、港では荷物より扱いが悪いぞ」
番人は声を落とした。
「入るなら、誰かの荷として登録した方がいい」
「人です」
「分かってる。だから忠告してる」
ミラが臨時滞在記録を出した。
街道宿で、ノアを一人の客として数した――。
ノアは眉を寄せる。
「数えた記録です」
「今、何か言い間違えた?」
ミラが尋ねる。
「いいえ」
自分では気づけなかった。
また言葉が抜け始めている。
番人は宿泊記録と、同行者たちの札を見比べた。
「荷にはできないな」
「当たり前です」
「では臨時入港者。出るときも同じ人数で戻れ」
入港札へ、四人とエレナ、ルカ、宿から救い出した五人、そしてチクタが記された。
旧観測宿の六人のうち、体力の弱い一人は街道宿へ残り、回復を待っている。
その人の名前もまだ戻っていない。
「人数が多いわね」
ミラが札を見る。
「一人ずつ帰すと決めましたから」
セレノの中央通りは、郵便袋で狭くなっていた。
家の壁。
階段。
広場の噴水。
あらゆる場所に、宛先不明の袋が積まれている。
「全部、届かなかった手紙?」
エレナが袋へ触れる。
「開けるな!」
近くの老人が叫んだ。
「宛先人以外が開けたら、返送印を押される!」
「返送先はどこですか」
「分からん!」
老人は頭を抱えた。
「差出地も消えてるんだ。戻せない手紙が、十三年分ここへ戻ってくる!」
セレノから出した手紙。
セレノへ送られた手紙。
どちらも町の存在を認められず、港へ返される。
誰にも届かない言葉だけが、河岸へ積もっていた。
釣り針の糸が強く引かれる。
郵便袋の山の奥。
一人の女が、手紙を仕分けていた。
灰色の髪を短く切り、古い郵便外套を着ている。
胸元に番号札はない。
代わりに、錆びた針を留めていた跡だけが残っていた。
「手紙は届けた」
女はノアたちを見ずに言った。
「七つとも、船へ乗せた」
「あなたが、旧観測宿からセレノへ来た方ですか」
「旧観測宿?」
女の手が止まる。
「知らない」
「七都市の手紙を預かった」
「預かった」
「赤い糸で束ねた」
「束ねた」
「錨へ道標を残した」
「残した」
一つずつ出来事は覚えている。
だが、それらをした自分がどこから来たのかは分からない。
「名前を教えてください」
ノアが尋ねる。
「ない」
「忘れたのですか」
「郵便係に名前はいらない」
女は封筒を三つの山へ分ける。
届けられる。
宛先不明。
返送先不明。
「番号は?」
「消えた」
「では、あなた宛ての手紙は?」
女は初めて顔を上げた。
「私へ手紙を出す人はいない」
「旧観測宿の人々が、あなたの帰りを待っています」
「待つ相手を間違えてる」
「この釣り針を覚えていますか」
ノアは赤い糸が巻かれた釣り針を差し出した。
女は受け取ろうとせず、目だけで追う。
「私の」
「証言できますか」
「針の根元が曲がってる。魚を釣るためじゃない。郵袋の封をほどくために使った」
「糸は?」
「七つの町を忘れないように巻いた」
女の指が、自分の胸元にある針跡へ触れる。
「でも、私の名前は巻かなかった」
「なぜです」
「自分の名前は、自分が覚えていればいいと思った」
十三日目の中で、一人ずつ名前を失った。
外へ出れば、町へ帰れると考えた。
だがセレノそのものが宛先を失っていた。
彼女は手紙を届けるために、自分の故郷の印を使い続けた。
そのたびに、郵便係としての役目だけが残り、個人の名前が薄れていった。
「あなたが届けた手紙へ、返事があります」
ミラが旅鞄から七通の封筒を取り出した。
ネーヴァ。
ヴァルド。
エルデ。
まだ訪れていない町からのものもある。
七都市の代表が互いに読むことを認めた手紙。
「これは、あなたが運んだものです」
「返事じゃない。同じ手紙だ」
「いいえ」
ノアは封筒の裏を見せた。
エルデで受け取った日。
ネーヴァで読んだ日。
ヴァルドで写した日。
町ごとの確認印が追加されている。
「手紙は届きました」
「誰に」
「春を待っていた人。戦争を終えられなかった人。エルデで家族を待っていた人々です」
ノアは新しい封筒を一通出した。
宛先は空欄。
中には、旧観測宿で皆が書いた札の写しが入っている。
――七都市の手紙を預かり、セレノの港へ運んだ人。
「これでは私に届かない」
女が言った。
「名前も番号もない」
「だから、あなた自身に宛先を書いてもらいます」
「自分で書いた名前は消える」
「名前でなくて構いません」
ノアは封筒へ項目を示した。
受け取った場所。
行った仕事。
持っていた物。
帰りを待つ人。
「宛先は、人名だけではありません」
「港では番号が必要だ」
「中央の郵便としてではなく、私たちからあなたへ渡す手紙です」
出来事がある。
証人がいる。
釣り針と七通の手紙という物がある。
「あなたがこれを受け取れば、手紙を届けた人へ返事が届いたことになります」
女は長い間、封筒を見つめていた。
やがて赤い糸を一本抜き、宛先欄へ結ぶ。
文字の代わりに、七つの輪。
「七都市の手紙を届けた郵便係へ」
ノアが読み上げる。
女が封筒を受け取った。
その瞬間、港に積まれていた郵便袋が一斉に揺れた。
宛先不明の印が、いくつか剥がれ落ちる。
女の胸元に、薄い文字が浮かんだ。
最初は一文字。
次に二文字。
「サ……ラ」
エレナが呟く。
女は目を見開いた。
「サラ」
旧観測宿から来た者たちが、同じ名を呼ぶ。
「サラ・ネイ」
扉守りが続けた。
「セレノの郵便係。俺たちの手紙を預かった人」
サラは自分の胸へ手を置いた。
「サラ・ネイ」
十三年ぶりに、自分自身へ届いた名前だった。
だが名前が戻った直後、港の大鐘が激しく鳴った。
船が出る鐘ではない。
大量の郵便を廃棄するときの警告鐘だ。
中央倉庫の扉が開き、黒い外套の役人たちが火を運び出してくる。
「返送不能郵便の保管期限が来た!」
港の役人が叫ぶ。
「本日、全件焼却する!」
「本日とは、どの日ですか」
ノアが尋ねる。
役人は中央暦板を掲げた。
そこには現在の日付ではなく、十三年前の一日が刻まれていた。
七都市の手紙が、初めてこの港へ戻された日。
セレノでは十三年間、すべての手紙が同じ保管期限を待ち続けていた。
サラは、自分の名を取り戻した封筒を外套へ入れる。
「この手紙を燃やさせない」
「一通だけではありません」
ノアは港を埋める郵便袋を見た。
「差出人も宛先人も、まだ生きているかもしれない」
黒い煙が、最初の郵便袋から上がった。
「セレノへ、届いた日を取り戻します」




