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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第36話 十一人分の帰り道

 船の印から流れ出した黒い水は、暖炉へ向かっていた。


「火を消させないで!」


 エレナが叫ぶ。


 ハウルと火守りの老人が長机を倒し、水の進路を塞ぐ。


 黒い水は普通の水ではない。


 板の隙間へ染み込まず、床に刻まれた名前や出来事の線だけを溶かして進んでいる。


 壁から、水桶を満たした回数が消えた。


 続いて、眠りから目覚めた回数が数本失われる。


「セレノ側の記録が崩れている」


 ルカは十三の扉にもたれ、苦しそうに息をした。


「向こうへ行った人が、自分の名前を保てなくなったんだ」


「その人が完全に名前を失えば?」


「船の印が閉じる。ここからセレノへ続く記録も消える」


「本人も?」


「誰にも思い出されなくなる」


 ノアは黒い水の前へ膝をついた。


 触れた鉄筆の先から、自分の名が薄くなる。


 水そのものが人を消すのではない。


 セレノへ向かった人物に結びつく記録が、逆流して消えている。


「その方が残した物はありませんか」


「宿を出るとき、ほとんど持っていった」


 エレナが答える。


「港で使うために、縄と封蝋を」


「ほとんど?」


 印を数えていた老人が、船の印の横にある小さな窪みを指した。


「これだけ残した」


 窪みの中には、錆びた釣り針が一本あった。


 針の根元へ、細い糸が七回巻かれている。


「本人の持ち物ですか」


「いつも襟に留めていた」


「名前を覚えていますか」


 六人全員が考える。


 だが、誰の口からも名前は出なかった。


「男でしたか。女でしたか」


「女だ」


 扉守りが答える。


「セレノの郵便係だった」


「何をした方です」


「宿を出る前、全員の手紙を預かった」


「宛先は?」


「七つの町」


 エレナが作業台の引き出しを開いた。


 中には、細く切られた封筒の端が残っている。


「紙を節約するため、手紙を一枚ずつ折って、同じ封筒へ入れたの。あの人が港から船へ乗せると言って」


「手紙は届きましたか」


「分からない」


 セレノからエルデへ届いた、七都市代表の手紙。


 その差出人欄には個人名がなかった。


 だが、赤い糸で七通がまとめられていた。


「手紙は届いています」


 ノアが言った。


「少なくとも十三年後、七都市の声としてラウゼンへ集まり、エルデまで運ばれました」


「なら、あの人は役目を果たした?」


「途中までは」


 名前を失っても、手紙は残った。


 差出人が誰か分からなくても、町の声は別の町へ届いた。


「その出来事を記します」


 ノアは新しい札へ、船の印を描いた。


 ――七都市の手紙を預かり、セレノの港へ運んだ人。


 自分で書いた文字は、黒い水へ引かれ、薄くなり始める。


 ミラが同じ文を別の札へ写す。


 エレナも続く。


 レグナート、ハウル、宿の六人も、一人ずつ同じ出来事を記した。


 名前はない。


 それでも、誰とも区別できない人ではない。


 七都市の手紙を預かって宿を出た、一人の女性だ。


 十枚目の札ができたとき、釣り針に巻かれた糸が赤く染まった。


 黒い水の流れが弱くなる。


「届いている」


 ルカが船の印へ触れた。


「向こうで、誰かがこの記録を受け取った」


「本人ですか」


「分からない。でも道は閉じてない」


 船の印から、遠く波が砕ける音が聞こえた。


 続いて、鐘が一度。


 港へ船が入ったときの鐘だ。


「時間を稼げただけです」


 ノアは黒い水の跡を見る。


「セレノへ行き、その方を直接見つける必要があります」


「その前に、ここから出ないとね」


 ミラは宿の入口を見た。


 十一人と一匹。


 外から来た四人。


 宿で暮らしていた六人。


 十三の扉から出かけているルカ。


 そしてチクタ。


 入ったときより、人が一人増えている。


「来た人数と帰る人数が違う」


 エレナが言った。


「扉は開かないかもしれない」


「置いていかないわよ」


 ミラは母の手を握った。


「誰も残しません」


 ノアは宿の卓へ、十一枚の木札を並べた。


「自分の札を、自分で持たないようにします」


「なぜです」


 レグナートが尋ねる。


「扉を通る途中で自分の名を失えば、自分の札も読めなくなる可能性があります」


 ノアは木札を一つずつ隣へ渡した。


 ミラはエレナの札。


 エレナはミラ。


 レグナートはハウル。


 ハウルはレグナート。


 パンを焼いた者は火を守った者。


 火を守った者は水を汲んだ者。


 水を汲んだ者は眠りを見張った者。


 眠りを見張った者は印を数えた者。


 印を数えた者は扉を守った者。


 扉を守った者はルカ。


 ルカはノア。


「ノアの札を持つのはチクタじゃなかった?」


 ミラが尋ねる。


「チクタには、全員の数を確認してもらいます」


 チクタの背中の砂時計模様は、曜日や季節の異常へ反応する。


 人が記録から外れれば、模様も欠けるはずだ。


「では、ノアは誰の札を?」


「セレノへ行った女性の記録です」


 名前のない一人。


 まだ宿へ戻っていない人。


「外へ出る人数に入らないでしょう」


「今ここにいなくても、帰る道を失わせてはいけません」


 十一人が出れば、それで終わりではない。


 十三年前にここから旅立った二人も、いずれ帰る者として数える。


 ノアは釣り針を札へ結んだ。


 ――七都市の手紙を預かった人。


「私の札が余ります」


 ノアが言うと、ミラが首を横へ振る。


「余らない」


 彼女は新しい札へ、太い字を書いた。


 ――名前が消えても、エルデへ帰ろうとした人。


 ミラはそれを自分の前掛けへ結ぶ。


「私は母さんの札も持っています」


「二枚持ってはいけない決まりはありません」


「途中でどちらか忘れたら?」


「両方、私が呼ぶ」


 エレナが答えた。


「ミラ。ノア」


 十三年ぶりに娘の名を取り戻した声で、二人の名前を繰り返す。


「パンを焼いていた人は、エレナ・フェン」


 ミラも母の名を呼ぶ。


「私の母さん」


 宿を出る前に、持ち出す物を選ばなければならなかった。


 十三年間の壁の記録。


 六人が使っていた木匙。


 エドガーが残した仕組み。


 すべてを運ぶことはできない。


「壁を壊して持っていく?」


 ハウルが尋ねる。


「宿を支える記録が失われます」


「では置いていくのか」


「写します」


 紙だけでは足りない。


 ノアたちは、それぞれ異なる記録を担当した。


 レグナートは、十三日目を作った中央の処理。


 ハウルは、宿へ入った人数と持ち物。


 エレナは、ここで失われた者と残った者。


 ミラは、パンを焼いた回数と七本の切れ目。


 宿の六人は、互いの経過札。


 ルカは、十三の扉を支えた仕組み。


 ノアは、セレノとハルムへ出た二人の記録。


「同じものを、全員で写さなくていいの?」


 ミラが尋ねる。


「一人が失えば、全部が失われる形を避けます」


「でも一枚ずつなら、その人が忘れたら終わりでしょう」


「だから、誰が何を持ったかを全員で覚えます」


 一つの記録を全員が持つのではなく、違う記録を持つ人々を互いに覚える。


 荷物は分かれる。


 責任も分かれる。


 誰か一人が、十三年間すべてを背負わなくてよい。


 最後に、エレナとミラが旅用のパンを焼いた。


 同じ生地を二人でこねる。


 エレナが粉を入れすぎれば、ミラが水を足す。


 ミラが急いで形を崩せば、エレナが無言で丸め直す。


「私の焼き方と違う」


 エレナが言った。


「十三年もあれば変わるわ」


「窯へ入れる前に休ませる時間が短い」


「町の人は朝が早いの」


「縁が硬くなる」


「スープへ浸せばいいでしょう」


「雑になったわね」


「誰の娘だと思ってるの」


 言い合いながら、二人は十一個の小さなパンを作った。


 それぞれ違う切れ目。


 最後の一つには、七本。


「チクタの分は?」


 エレナが尋ねる。


「別にすると先に食べるから、私が持つ」


 ミラの答えに、ノアはエルデを出た朝を思い出した。


 帰ったら渡すと言われた、チクタの丸パン。


 自分たちを待つ町へ、まだ戻れていない。


「帰ります」


 ノアは入口の扉へ手を置いた。


「全員で」


 十一人が輪になった。


 一人ずつ、自分が預かった名と出来事を読み上げる。


「ミラ・フェン。エレナの娘」


「エレナ・フェン。十三年間、七本の切れ目を入れたパンを焼いた人」


「ハウル・ベルク。中央監察官を守り、宿の記録を運ぶ人」


「レグナート・クレイ。零番庫と七都市の不正を確認した監察官」


 六人の経過が続く。


 最後にルカが、ノアの札を読んだ。


「ノア・アルデン」


 文字が一瞬薄れる。


 エレナが続く。


「青い布に包まれ、この宿から外へ出た子」


 ミラが続く。


「エルデへ帰ろうとしている人」


 宿の六人も名を呼ぶ。


「七都市の手紙を預かった人を、忘れなかった人」


 チクタが高く鳴いた。


 砂時計模様は欠けていない。


 十一人。


 一匹。


 そして、今はここにいない二人分の帰り道。


 入口の扉が開いた。


 白い霧の向こうに、十三年後の森が見える。


「一人ずつ出ます」


 ノアが言った。


「出た人は、次の人の名前を呼び続けてください」


 ハウル。


 レグナート。


 宿の六人。


 ルカ。


 エレナ。


 ミラ。


 順番に外へ出る。


 最後にノアが敷居をまたいだ。


 背後で、旧観測宿の壁が軋む。


 扉が閉じる直前、船と麦の印だけが光を残していた。


 ノアが森の雪へ足を置く。


 影もある。


 名前を呼ぶ声も聞こえる。


 全員が外へ出た。


 エレナは降る雪へ手を伸ばした。


「冷たい」


「十三年後の雪よ」


 ミラが答える。


「おかえり、母さん」


 エレナは娘を抱き寄せた。


「ただいま、ミラ」


 旧観測宿の屋根が、白い霧の中へ薄れていく。


 完全には消えない。


 船と麦の印が残っている限り、十三日目にはまだ帰れない人がいる。


 そのとき、ノアが持つ釣り針の糸が強く引かれた。


 東ではない。


 南東の街道。


 河港都市セレノの方角だ。


 糸の先から、かすかな女の声が聞こえた。


「手紙は届けた」


 波音に混じり、言葉が続く。


「でも、私の宛先が分からない」

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