第35話 一人で支えない十三日目
十三日目を支えているのは、ルカ一人だった。
ノアは扉の前へ座り、内側から聞こえる呼吸を数えた。
浅い。
時折、長く止まる。
そのたびに宿の壁から、誰かの出来事を記した縦線が一本ずつ薄くなった。
「ルカさんが眠ったら、どうなりますか」
「全員の名前が消える」
エレナが答えた。
「最初は交代で見張ってた。でも、誰かが扉の中にいないと宿が外から見つかるの」
「なぜルカさんが?」
「時計塔の仕組みを知っていたから」
扉守りと呼ばれていた男が、傷六つの匙を卓へ置いた。
「エルデの塔と七都市の観測線は、あいつの父親が管理していた。日付を閉じる鍵を、ルカだけが覚えていた」
「十三年間、扉から出ていないのですか」
「ああ」
食事は小窓から渡した。
眠るときは、誰かが外から名を呼んだ。
けれど、呼ぶ側の名前も少しずつ失われていく。
最後には、ルカが全員を覚え直し、扉の内側から宿へ結びつけた。
「一人が全員を覚える仕組みでは、いずれ限界が来ます」
ノアが言った。
「だからエドガーを待ってる」
火守りの老人が暖炉へ薪を足した。
「外から戻って、十三日目を正しい暦へつなぐ約束だった」
「エドガーが生きている保証はありません」
「そんなことは分かってる!」
老人の声に、暖炉の火が揺れた。
「だが、待たなくなったら何をすればいい。俺たちは外へ出られない。ルカも扉を開けられない。待つ以外に、ここでできることがあるのか」
同じ日を生き続けた人々。
次の日を待つネーヴァ。
終戦を待つヴァルド。
帰る人を待つエルデ。
待つことは、希望になる。
だが待つ以外の仕事を失えば、希望そのものが人を閉じ込める。
「エドガーの代わりを、一人決める必要はありません」
ノアは卓へ六枚の経過札を並べた。
「一人が十三日目を支える仕組みを変えます」
「変えられるの?」
ミラが尋ねる。
「すでに、この宿では変化が起きています」
ノアは自分の足元を指した。
一度消えた影。
全員が互いの出来事を記録したことで、今は薄く戻っている。
「私一人の名前を守ったときは、影は戻りませんでした。宿にいる全員を別々の一人として数したあと、戻った」
「数した、じゃなくて、数えた、でしょう」
ミラが言う。
ノアは瞬きをした。
「今、私は何と言いましたか」
「数した、って」
「言葉まで抜け始めてる」
レグナートが胸元の札を確認する。
ノア・アルデンという名は残っている。
だが、暦務官という肩書きは読めなくなっていた。
「急いだ方がいいわね」
ミラはノアの札へ書き足した。
――言葉を間違えたことを、ミラに訂正された人。
「残す必要がありますか」
「今あった出来事でしょう」
「不名誉な記録です」
「完璧なことしか残さない記録は、たぶん嘘よ」
エレナが小さく笑った。
「あなた、私に似たのね」
「今さら?」
「口の悪いところが」
「そこは母さんでしょう」
十三日目へ来てから初めて、親子の会話に日常の響きが戻った。
ノアは六本の木匙を円形に並べる。
中央には、自分たち四人の札とチクタの印。
「全員が一人ずつ、別の人の名前と出来事を預かります」
「預かる?」
傷三つの匙を持つ男が尋ねた。
「自分だけで自分を記録しないということです」
パンを焼く者は、火を守る者の出来事を記す。
火を守る者は、水を汲む者。
水を汲む者は、眠りを見張る者。
眠りを見張る者は、印を数える者。
印を数える者は、扉を守る者。
扉を守る者は、パンを焼く者。
輪のように、隣の一人を覚える。
「一人が忘れたら?」
「その人を記録していた者が呼びます」
「二人同時に忘れたら?」
「さらに外側へ輪を作ります」
ミラはエレナを記す。
エレナはミラを記す。
ハウルはレグナート。
レグナートはハウル。
ノアはチクタ。
チクタが誰を記録するかで、全員が少し迷った。
「ノアでしょう」
ミラが言う。
「本人に確認できません」
チクタはノアの肩へ登り、耳を引っ張った。
「痛いです」
「決まったわね」
チクタの旅程札へ、ノアの名と鉄筆の印が描かれた。
「しかし、宿の中だけで輪を作っても、外の暦へはつながりません」
レグナートが言った。
「はい。外側の証人が必要です」
ノアはエルデの旅程札を取り出した。
表には、ミラが書いたノアの名。
裏には、リノの馬の絵と、帰還予定を待つ七つの丸。
この札の対は、エルデにある。
町の人々が出発を見届け、帰る日を共有した札だ。
「現在の日付は書けません」
外の日付を十三日目へ持ち込めば、中央の術式に宿の場所を知られる。
「出来事だけを送ります」
ノアは短く記した。
――エレナとルカを見つけた。
文字が一度光り、すぐに消えかける。
「弱い」
「外では、私の名前を思い出しにくくなっているのでしょう」
ミラが鉄筆を取った。
――母を見つけた。
今度の文字は残った。
エレナ本人がミラの隣にいる。
出来事と証人と、空草色の糸という物がそろっている。
次に、ミラは書いた。
――ダリオへ。ルカは生きている。
札が強く震えた。
十三の扉の向こうから、鎖の音が止まる。
「父さんに……届くのか」
ルカの声がした。
「旅程札はエルデへ帰るためのものです」
ノアが答える。
「町の誰が読むかは分かりません。ですが、リノなら必ずダリオさんへ伝えます」
「証拠がいる」
ルカが言った。
「父さんは、期待だけで扉を開ける人じゃない」
「何を送れば、あなた本人だと分かりますか」
沈黙のあと、扉が三度叩かれた。
一度。
二度。
「鐘の合図」
エレナが言う。
「それだけでは、以前も使っています」
「もう一つある」
ルカの声が少し近づいた。
「俺が小さい頃、鐘を勝手に鳴らして、父さんに怒られた。三つ、一つ、二つ。そのあとに、弱く一つ」
「意味は?」
「最後の一つは、帰って謝る合図だ」
ミラが旅程札の裏へ、鐘の印を描いた。
三。
一。
二。
そして小さな一つ。
文字も日付も使わない。
親子だけが知る、帰還の合図。
札が熱を帯びた。
宿の壁に刻まれた縦線が、一斉に揺れる。
外へ何かが届いた。
それから、待つ。
日付のない宿では、どれほど時間が過ぎたか分からない。
パン生地を一度こねた。
水桶を一つ満たした。
暖炉へ薪を二本足した。
エレナがパンへ七本の切れ目を入れた、そのときだった。
遠くから鐘が聞こえた。
三度。
間を置いて、一度。
続いて二度。
最後に、震えるような小さな一度。
ルカが扉の向こうで息を呑む。
「父さんだ」
鐘はエルデの時計塔から鳴っていた。
十三日目の外。
十三年後の町。
そこからダリオが、息子の帰る合図へ答えている。
「ルカ!」
音に重なるように、かすかな声が響いた。
ダリオの声ではない。
大勢の声だ。
エルデの人々が、旅程札を囲んで名前を読み上げている。
「ルカ・ダリオ!」
「エレナ・フェン!」
「ミラ・フェン!」
「レグナート・クレイ!」
「ハウル・ベルク!」
最後に、少し間が空いた。
忘れかけた名前を、皆で探している。
「ノア!」
リノの声が先に届いた。
「ノア・アルデン! エルデの暦務官!」
ほかの住民も続く。
市場日を見つけた人。
リノの誕生日を定めた人。
パンを食べるのが遅い人。
「またそれですか」
ノアが呟く。
ミラは泣きながら笑った。
「一番覚えやすいのよ」
ノアの影が、暖炉の光の中へはっきりと戻る。
旅程札の名前も濃くなった。
外にいる人々が、こちらにいる者を数えている。
宿の中の輪と、エルデの輪がつながった。
十三の扉から、鎖が一本落ちる音がした。
「今なら、少し開けられる」
ルカが言う。
「全員で出られますか」
「まだ無理だ。俺が離れたら、宿と外のつながりが切れる」
「では、交代します」
ノアは扉の前へ立った。
「駄目!」
ミラが腕をつかむ。
「一人で代わるとは言っていません」
ノアは宿にいる全員を見た。
「ルカさんが一人で支えている記録を、先ほど作った輪へ分けます」
「そんなことができるの?」
「鐘が届いた今なら、内と外の証人がそろっています」
出来事。
ルカが十三日目を支えた。
証人。
宿の人々と、エルデの住民。
物的記録。
旅程札、鐘の合図、六本の匙、壁の縦線。
「ルカさんが一人で扉の内側にいる必要はありません」
ノアは新しい札へ書いた。
――十三日目を守る者。
その下へ、一人の名前ではなく、宿にいる全員の印を並べる。
六本の匙。
四人の記名札。
チクタの足跡。
そして、エルデへつながる旅程札。
札を十三の扉へ当てる。
黒い暦墨が流れ出し、何度も一人の名を書こうとした。
ルカ。
エドガー。
ノア。
しかし、そのたびに皆の印が墨を分けた。
一つの名前へ集まらない。
黒い線は十一本に分かれ、輪になった。
「一人へ押しつけられない」
レグナートが呟く。
「誰かが弱れば、ほかの者が支えます」
扉の鎖が、もう一本外れた。
隙間から、痩せた手が伸びる。
十三年間、日の光に触れていない手。
エレナと扉守りが両側からつかんだ。
ルカの顔が、暗闇の中から現れる。
髪は長く、頬は落ち窪んでいた。
だが目だけは、エルデの鐘が聞こえる方を見ている。
「父さんのところへ、帰れるか」
「帰ろうとする日を作ります」
ノアは答えた。
「全員で」
ルカの片足が、扉の外へ出た。
その瞬間、宿の奥で別の音が響く。
十三の扉ではない。
床下から、二つの鐘が同時に鳴っていた。
七都市の印のうち、船と麦の印が黒く光る。
「何が起きたの?」
ミラが尋ねる。
ルカは床へ崩れながら、二つの印を指した。
「この宿から出た、残りの二人だ」
「どこへ行ったのですか」
「河港都市セレノと、穀倉都市ハルム」
船と麦の印から、黒い線が伸びる。
「エドガーを中央へ帰すため、外側の扉を開けに行った」
十三年前に宿を出た三人。
エドガー。
そして、名を失った二人。
「二人が生きていれば、十三日目を完全に閉じられる」
ルカは掠れた声で続けた。
「だが、どちらか一人でも名前を失っていたら――」
宿全体が大きく揺れた。
船の印が半分消え、窓の白い霧へ黒い水が流れ込む。
「この宿へ戻る道が、永遠に閉じる」




