第34話 影のない人を数える方法
壁から影が消えても、ノアの体はそこにあった。
手も動く。
声も出る。
床を踏めば、靴音もする。
それなのに暖炉の火を背に立っても、ノアの足元だけが白いままだった。
「動かないで」
ミラがエレナから離れ、ノアの腕をつかむ。
「動いています」
「そういう意味じゃない!」
彼女の指は、確かにノアの外套を握っている。
だが一度目を離した瞬間、ミラの表情が揺れた。
「……誰をつかんでたんだっけ」
「ノアです」
エレナがすぐに答えた。
「ノア・アルデン。青い布に包まれて、この宿へ来た子」
「そう。ノア」
ミラは名前を繰り返し、握る力を強める。
宿の壁から影を失ったことで、ノアはこの場所の記録からも外れ始めていた。
「外へ戻れば直りますか」
レグナートが尋ねる。
「今、扉を開けたら危ない」
エレナは入口へ目を向けた。
「入ってきた人数と、出ていく人数が合わなくなる」
「ノアが一人として数えられないから?」
ハウルが言う。
「そう。十人と一匹で開けた扉から、九人と一匹しか出なければ、残った一人が宿へ取り込まれる」
「すでに数えられなくなりかけています」
ノアは胸元の記名札を確認した。
ミラが書いた名前は残っている。
しかし目的欄の文字が薄れていた。
――エルデへ帰るため。
最後の「帰るため」だけが読めない。
「名前だけ残しても足りない」
エレナが言った。
「ここにいる理由も、一緒に持たせないと」
名前。
目的。
持ち物。
入った人数。
旧観測宿へ入る前に確認したものが、一つずつノアから失われている。
「数え直しましょう」
ノアは卓へ向かおうとした。
ミラが腕を離さない。
「私も行く」
「数歩です」
「数歩でも忘れた」
二人で卓へ移動する。
ノアは白紙を一枚置いた。
「現在、この宿にいる人を――」
鉄筆を持った手が止まる。
「どうしました」
レグナートが聞く。
「何人でしたか」
外から入った四人。
宿にいた六人。
暦獣が一匹。
分かっているはずなのに、合計だけが出てこない。
「十人と一匹」
トトの声ではない。
ミラが言った。
「ノア、ミラ、レグナート、ハウル。宿にいた六人。それからチクタ」
「ありがとうございます」
「お礼を言う前に書いて」
ノアは人数を記した。
だが、自分の名を書いた瞬間、その行だけが薄くなる。
「本人が書いても残らない」
「なら、皆で書きます」
エレナは粉の付いた指で、卓へノアの名を書いた。
ミラは空草色の糸を一巻き切り、紙の端へ縫いつける。
「母が縫った青い布を持っている人」
レグナートは監察記録の写しを置いた。
「ネーヴァの春季復元と、ヴァルドの終戦確認に立ち会った人物」
ハウルは陶器の鈴を置く。
「地下調査で、自分より先に危険へ近づこうとした暦務官」
「それは褒めていますか」
「事実だ」
チクタは紙の上へ前足を置き、泥の印を残した。
砂時計模様が一度だけ光る。
宿にいた六人も、順番にノアを知る出来事を口にした。
「青い布の子どもを抱いて眠らせた」
「泣けない子へ、水を飲ませた」
「エドガーがノアと呼ぶのを聞いた」
「七都市の印を一つずつ触らせた」
「この宿から外へ出るとき、靴紐を結んだ」
最後に、傷六つの匙を持つ男が言う。
「子どもを外へ出す扉を開けた」
ノアが顔を上げた。
「あなたが?」
「俺だけじゃない。奥にいる人と、エドガーと、三人で開けた」
「あなたの名前は」
男は答えようとした。
口は動く。
だが音にならない。
エレナが傷六つの匙を見る。
「私たちは、彼を扉守りと呼んでいた」
「それは役目です」
「名前は何度も消えた」
「誰か覚えている人はいませんか」
六人は互いを見る。
誰も答えられない。
ノアの名を支えるために証言している彼ら自身も、十三年間のうちに名前を失っていた。
「ノアだけを数えても駄目です」
ノアは証言紙を見た。
「ここにいる全員を、もう一度数え直します」
「私たちの名前は残らない」
火守りの老人が言う。
「名前が分からなければ、出来事から始めます」
「役目と何が違う」
「役目は交代できます。出来事は、その人が実際に行ったことです」
傷一つの匙を持つ女。
十三年間、パンを焼いた回数は四千七百を超えている。
傷二つの老人。
暖炉の火を一度も完全には消さなかった。
傷三つの若い男。
霧の中から水を汲み、桶の数を壁へ刻んだ。
傷四つの女。
眠った者が目覚めなければ、名前の代わりに持ち物を呼んだ。
傷五つの老人。
七都市の印が欠けていないか、毎朝確認した。
傷六つの男。
扉を守り、外から来るものを見分けた。
「名前が戻るまで、出来事で個人を分けます」
ノアは六枚の札を作った。
役職札ではない。
同じ人間が何を積み重ねてきたかを残す、経過札だ。
「パンを焼く人が明日、水汲みをしたら?」
エレナが尋ねる。
「その出来事も加えます。役目が変わっても、以前の出来事は消えません」
「名前より長くなるわね」
「人一人を一語だけで残そうとする方が、無理なのかもしれません」
書き終えると、宿の空気がわずかに変わった。
暖炉の火が、ノアの足元へ細い影を落とす。
「戻った!」
ミラが床を指す。
まだ薄い。
輪郭も揺れている。
それでもノアの影は、確かに宿の壁へつながっていた。
「皆がノアを思い出したから?」
「それだけではありません」
ノアは六枚の経過札を見る。
「私も、この宿の人々を別々の一人として数えた。互いに証人になったことで、宿の中の人数が定着したのでしょう」
一人だけを救おうとすれば、ほかの誰かが数から落ちる。
ここでは、全員を同時に数えなければならない。
十三と刻まれた扉から、再び爪で引っかく音がした。
三度。
一度。
二度。
「エルデの地下で聞いた合図と同じです」
ミラが言う。
「逃げなさい、という意味では?」
「母が使ってた合図は三、一、二」
エレナが首を横へ振る。
「でも、これは違う」
音がもう一度響く。
三度。
一度。
二度。
傷六つの匙を持つ男が、扉の前へ座り込んだ。
「名前だ」
「何が?」
「昔、あいつが自分の名を忘れそうになると、音の数で教えた」
三。
一。
二。
文字数でも、年齢でもない。
「何を数しているのですか」
「鐘だ」
男は自分の耳を押さえた。
「父親が塔で鳴らしていた鐘の順番。三つ、休んで一つ、最後に二つ」
エレナが息を呑む。
「ルカ」
扉の音が止まった。
「ルカ・ダリオ」
ダリオの息子。
エルデの時計塔地下へ収容され、十三年間行方不明になっていた青年。
その名をエレナが呼ぶと、十三の扉に細い亀裂が走った。
内側から、掠れた声が返る。
「……父さんは」
「生きています」
ノアは扉へ近づいた。
「エルデで、あなたの帰りを待っています」
「今日は……何日だ」
ノアは答えかけて止まった。
外の日付を口にすれば、この宿を中央暦へ見つけさせる。
「外の日付は、まだ言えません」
「そうか」
「ですが、あなたがここへ入ってから十三年以上が経っています」
扉の向こうで、長い沈黙があった。
「父さんは、まだ鐘を鳴らしてるか」
「七つの曜日を取り戻しました」
「七つ……」
「あなたの名も、ダリオさんの証言も残っています」
扉に入った亀裂が少し広がる。
黒い暦墨が流れ出し、床へ七つの円を描いた。
「開けるな」
ルカが言った。
「なぜです」
「俺が出たら、十三日目が閉じる」
「閉じれば、皆で外へ出られるのでは?」
「違う」
扉の向こうで、鎖の擦れる音がした。
「この宿は、消された日を使って隠れてるんじゃない」
ルカの声は弱い。
それでも、一語ずつはっきりと届く。
「ここにいる人たちが消されないよう、俺が十三日目を終わらせずに支えてる」
「では、あなたを交代させれば」
「もう一人必要だ」
「誰が?」
黒い墨が、七つの円の中央へ一つの名を書く。
エドガー・アルデン。
「エドガーが戻らない限り、俺はここを離れられない」
「彼はどこへ行ったのですか」
「中央だ」
ノアの影が再び大きく揺れた。
「お前の出生の日を取り戻すために、十三年前の中央暦院へ戻った」
ルカは扉の向こうで咳き込んだ。
「そして、まだ帰ってきていない」




