第33話 七本の切れ目を入れる人
旧観測宿の扉は、押しても開かなかった。
鍵は掛かっていない。
取っ手も動く。
それなのに、扉の向こう側へ厚い壁があるように、一寸も奥へ進まない。
「内側から押さえているのですか」
ノアが耳を当てる。
パン生地をこねる音は続いていた。
ぺたん。
こねる。
折る。
また、ぺたん。
人が暮らしている音だ。
「母さん!」
ミラが扉を叩いた。
「エレナ・フェン! 中にいるの!」
生地をこねる音が止まった。
しばらくして、女の声が返ってくる。
「その名前を、どこで知ったの」
ミラの息が震えた。
「私よ」
「誰」
「ミラ。ミラ・フェン」
扉の向こうが静まり返る。
ノアはミラの横顔を見た。
期待を抑えようとしている。
だが扉を叩く指には、次第に力が入っていた。
「あなたの娘よ!」
「エレナに娘はいない」
返ってきた言葉は、冷たかった。
ミラの手が止まる。
「いるわ」
「いない」
「パンの切れ目を数えられなくて、いつも一つ多くもらおうとした」
「……」
「寝る前に髪を結んでもらった。雨の日は窯の前で、母さんの膝に座った」
「やめて」
「七つに切ったパンの真ん中を、私にくれた」
「やめなさい!」
扉が内側から強く叩かれた。
「外のものは、人の名前を使う! 忘れた記憶を見せて、扉を開けさせる!」
ミラが後退する。
扉の向こうの女は、エレナという名を知っている。
娘の記憶にも反応した。
それでも開けようとしない。
「ここへ来た人を疑う理由があるのですね」
ノアが扉へ問いかけた。
「今度は誰」
「ノア・アルデンです」
自分で名乗った文字が、胸元の札から薄れていく。
扉の七つの印が、微かに光った。
「ノア……」
女の声が変わった。
「その名前を、誰が残したの」
「エルデの人々です」
「違う。最初に呼んだ人」
「分かりません」
「父親は?」
「エドガー・アルデンという人物の記録を見つけました」
扉の向こうで、何かが床へ落ちた。
「エドガーは、戻ったの?」
「いいえ」
「では、なぜあなたが外にいるの」
「私にも分かりません」
ノアは幼児札を青い布ごと取り出した。
「これを持っていました」
扉には小さな受け渡し口がある。
内側の板がわずかに開いた。
「布だけ入れて」
「札も確認してください」
「文字は信じない」
「では布だけを」
ノアは青い布の端を差し入れた。
向こう側から、指が伸びる。
細い指。
小麦粉が爪の間へ入り、手の甲には古い火傷の痕があった。
布へ触れた瞬間、その指が止まる。
「私が縫った」
女が呟く。
「この端の糸は、私が縫ったもの」
「それを証言できますか」
「何のために」
「扉を開いたあと、私が誰かを確かめるために」
「自分のことまで、他人に決めさせるの」
「今の私は、自分で名前を書いても消えます」
ノアは扉へ、自分の名札を当てた。
「私を知る人が書けば残る。だから、あなたが見た子どもと私が同じ人物か、証言してほしいのです」
扉の隙間から、女の指が名札へ触れた。
薄れかけていたノアの名が、かすかに濃くなる。
「エドガーが連れてきた子どもは、青い布に包まれていた」
女はゆっくりと言った。
「自分の名前を知らなかった。泣いても声が出なかった。私たちは、その子をノアと呼んだ」
「なぜ、その名前を?」
「エドガーが、そう呼んでほしいと言った」
「では、あなたが私を見た証人ですか」
「ええ」
内側で閂が外れる音がした。
「でも、扉が開いても、すぐに入らないで」
「なぜです」
「ここでは、入ってきた人数を間違えると、一人消える」
扉が手の幅だけ開いた。
暖かい空気と、焼きかけのパンの匂いが流れ出す。
「外に何人いる?」
ノアは振り返った。
「ノア。ミラ。レグナート。ハウル。チクタ」
「人は四人」
「暦獣が一匹です」
「中にいるのは六人」
「名前を教えてください」
「今は役目だけ」
扉の女は答えた。
「パンを焼く者。火を守る者。水を汲む者。眠る者を見張る者。印を数える者。扉を守る者」
「名前は?」
「何度書いても消えた」
宿には、十三年前の一行すべてが残っているわけではなかった。
九人の大人と、子ども一人。
そのうちノアは外へ出た。
今、中にいるのは六人。
残る三人が、どこへ行ったのかは分からない。
「入る前に、全員の存在を確認します」
ノアは四枚の札へ、今ここにいる者の名を書いた。
ノアの札だけは、ミラが書く。
チクタには砂時計と丸い耳の印。
「中の六人にも、一人ずつ何か持ってもらってください」
「文字は残らない」
「物で構いません。違う形の皿や匙でも」
扉の向こうで相談する声がした。
やがて、女が答える。
「木匙が六本ある。柄の傷が、一つから六つ」
「それを一人一本持ってください」
外に四人。
中に六人。
暦獣一匹。
合わせて十人と一匹。
セドの寝具帳にあった、十三年前の宿泊者と同じ人数だった。
「扉を開けます」
女が告げる。
「全員、自分が持っているものを言って」
ノアは鉄筆。
ミラは空草色の糸。
レグナートは監察官徽章。
ハウルは陶器の鈴。
チクタは、自分の旅程札へ前足を置く。
中からも声がした。
「傷一つの匙」
「傷二つ」
「傷三つ」
六つまで確認したところで、扉がゆっくり開いた。
宿の中には、夜も昼もなかった。
窓の外は白い霧に覆われている。
暖炉の火が灯り、卓には何度も補修された食器が並ぶ。
壁一面に、縦線が刻まれていた。
一日を数えた印ではない。
パンを焼いた回数。
水桶を満たした回数。
薪を割った回数。
眠りから起きた回数。
出来事ごとに、別々の列が続いている。
「四千七百を越えています」
ノアはパンの印を見上げた。
「外でも、それだけ朝が来た?」
女が尋ねる。
「およそ十三年です」
宿の六人は驚かなかった。
自分たちの体が老い、道具が擦り減り、何人かを失ったことで、長い時間が過ぎたとは分かっていたのだろう。
「外は、何日?」
「王暦六百二十六年、眠り月二十一日です」
「その日付は、ここでは言わないで」
火を守る老人が叫んだ。
壁の印が一斉に揺れる。
窓の霧の向こうで、黒い線が走った。
「外の日付を入れると、この宿が見つかる」
パンを焼く女が、慌てて粉を壁へ投げる。
白い粉が黒線を覆うと、揺れは収まった。
「申し訳ありません」
「知らなかったんでしょう」
女はノアを見る。
年齢は五十ほど。
髪には白いものが混じり、頬は痩せている。
だが空草色の糸を、左手の指へ巻いていた。
ミラは何も言えずに、その女を見つめていた。
女の方もミラを見る。
顔だけでは、まだ分からないらしい。
「パンを焼いていたのですね」
ミラが掠れた声で言った。
「食べなければ生きられないから」
「切れ目は?」
「何?」
「焼く前に、何本入れるの」
女は作業台の生地へ手を伸ばした。
迷いなく指を動かす。
一。
二。
三。
七本。
「人数が分からなくなっても、七つの町の分を忘れないため」
ミラは前掛けの紐を外した。
端へ縫い込まれた、小さな空草色の糸を見せる。
「これは誰が縫ったもの?」
女は糸へ近づいた。
指先で縫い目をなぞる。
表から三針。
裏から一針。
糸が少なくても、解けにくい縫い方。
「私」
女の唇から、声が漏れた。
「小さな子の前掛けに……」
「その子の名前は?」
「名前……」
女は目を閉じた。
ミラが何も言わず、七本の切れ目が入った生地を持ち上げる。
真ん中を少し大きく割った。
「いつも、ここを私にくれた」
女の目が開く。
曖昧だった視線が、初めてミラの顔へ結ばれた。
「ミラ」
十三年間、日付のない宿で消え続けた名前が、はっきりと呼ばれた。
「母さん」
ミラは子どものように女へ抱きついた。
エレナの両手が宙で迷う。
やがて娘の背中へ回り、前掛けを強く握った。
「大きくなった」
「十三年も待たせたのよ」
「ごめんなさい」
「帰れないなら、手紙くらい出して」
「書いても消えたの」
「一通だけ届いた」
ミラは泣きながら笑った。
「七つの町を見つけろって。相変わらず、説明が足りないのよ」
エレナも笑おうとして、声が崩れた。
「待った日を、なくさなかった?」
「毎日、パンを焼いた」
「そう」
「休む日も作った」
「それは、あなたには必要ね」
二人はしばらく離れなかった。
ノアは目を逸らし、壁の記録を確認する。
六人のうち、ほかの五人は親子の再会を静かに見守っていた。
だが一人だけ、傷六つの匙を持つ男が、宿の奥の廊下を気にしている。
「何かありますか」
ノアが尋ねた。
「扉が開いたことで、数が変わった」
「人数は確認しました」
「人の数じゃない」
男は廊下の先を指した。
そこには、十三と刻まれた小さな扉がある。
「この宿を日付の外へつないでいる人が、奥にいる」
「エドガー・アルデンですか」
「最初はそうだった」
「今は?」
男は傷六つの匙を握った。
「名前が残っていない。誰なのか、誰も思い出せない」
十三の扉の向こうから、爪で木を引っかくような音がした。
エレナがミラを抱いたまま、ノアを見る。
「奥の人を連れ出さない限り、私たちはこの宿から出られない」
「なぜです」
「あの人が、消された十三日目を一人で支えているから」
扉の隙間から、黒い暦墨が流れ出した。
床の上へ広がった墨は、ゆっくりと一つの名前を形作る。
ノア・アルデン。
書き終わると同時に、宿の壁からノアの影だけが消えた。




