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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第32話 日付のない宿帳

 宿の老使用人は、セドと名乗った。


「今は覚えている」


 老人はそう前置きしてから、ノアの青い布を指した。


「だが、あの夜のことを話そうとすると、名前から抜けていくんだ」


「無理に思い出さないでください」


 ノアは宿の食堂へ戻り、白紙の札を何枚も用意した。


「見たことを、順番に確認します。日付や名前が分からなければ、分からないままで構いません」


「十三年前と同じだな」


 セドが呟く。


「同じ?」


「あの暦師も、そう言った。日付を書けないなら、起きたことを書けと」


 宿の主人に断り、食堂の一角を聞き取りの場にする。


 窓の外では、昨夜の吹雪で埋まった街道を、使用人たちが掘り起こしていた。


 客へ朝食を出す時間でもある。


 宿の仕事を止めないため、セドの聞き取りは、湯を運ぶ合間に少しずつ行うことになった。


「その夜、何人来ましたか」


「多かった。十人……いや、もっとかもしれん」


「馬車は?」


「二台。馬は四頭。青い布の子どもが一人」


 セドはノアを見る。


「今のあんたより、ずっと小さかった」


「ほかの人々は?」


「大人だ。みんな自分の町の印を持っていた」


 老人は指で卓へ絵を描く。


 林檎。


 雪の山。


 鉱石。


 砦。


 船。


 麦。


 時計塔。


 七都市の印だった。


「七人ですか」


「一つの印につき一人……だったと思う」


「エドガー・アルデンは?」


「黒い髪の暦師だ。右手を怪我していた。文字を書くときだけ、左手を使った」


「その筆跡を確認できますか」


「宿帳があれば」


 主人が首を振った。


「十三年前の帳面は、中央の巡回に持っていかれた。登録のない客を泊めた記録があると言われてな」


「全部ですか」


「その月の分は」


 セドはしばらく黙っていた。


「表の帳面はな」


 老人は厨房の奥へ向かい、薪棚の下から細長い木箱を引き出した。


 底には、油と煤で黒くなった薄い帳面が隠されている。


「これは?」


「寝具の帳面だ」


 宿の主人が驚く。


「まだ残していたのか」


「洗う毛布と、貸した湯たんぽの数を書くものだ。客の名前は必要ないから、巡回も持っていかなかった」


 表紙には、寝台、毛布、湯、食事の印。


 日付欄はない。


 代わりに、宿で起きた出来事ごとに使用数が記されている。


 ――北の橋が凍った朝。


 ――屋根の煙突を直したあと。


 ――商人の馬が仔を産んだ夜。


「これなら、暦がなくても順番が分かります」


 ノアは頁を慎重にめくった。


「先代の主人が始めた」


 セドが言う。


「日付を間違えて税を多く取られたことがあってな。何をしたときの客かも書くようになった」


 十三年前の冬。


 頁の途中に、不自然な空白があった。


 紙は残っているのに、文字だけが消えている。


 ただし寝具の数は、針で穴を開けて記されていた。


 大人九人。


 子ども一人。


 毛布十九枚。


 湯たんぽ十二個。


 食事は、最初の夜が十人分。


 次の朝も十人分。


 その次の夜も十人分。


 さらにもう一度、朝食十人分。


「一泊ではありません」


 ノアが言う。


「三度、朝を迎えています」


「だが宿代は一泊分しか受け取らなかった」


 セドは空白の頁を見つめた。


「暦師が言ったんだ。同じ日の中にいるから、一泊だと」


「外は同じ日だったのですか」


「違う。雪が降って、止んで、また降った。パン種も三回膨らんだ」


 時間は進んでいる。


 だが宿帳の日付だけが変わらない。


 ネーヴァやヴァルドで起きていたことと同じだ。


「客たちは、何をしていましたか」


「最初の夜は話していた。次の朝から、自分の名前が出なくなった」


 林檎印を持つ男は、自分を果樹園の者としか言えなくなった。


 鉱石印の女は、弟の名を何度も尋ねた。


 船印の老人は、帰る港を思い出せず、窓の外を見続けた。


「エドガーさんは?」


「眠らなかった。全員の名前を札へ書き続けていた」


「その札は残っていますか」


「燃やした」


 ミラの顔が険しくなる。


「どうして?」


「中央の追っ手が来た。暦師が、自分で燃やせと言ったんだ」


「名前を消すために?」


「違う」


 セドは首を横へ振った。


「燃やす前に、全員へ読ませた。自分の名前だけじゃない。隣の者の名前も覚えろと」


 一人が自分の名を忘れても、隣の者が呼ぶ。


 隣も忘れたら、その隣が呼ぶ。


 紙を奪われても、人の間に記録を残すためだった。


「七都市の共同暦と同じ仕組みです」


 レグナートが言う。


「町同士が互いの記録を持つように、連れてきた者たちへ互いの名前を持たせた」


「エドガーは、彼らをどこへ連れていきましたか」


 セドは窓の外、街道の東側を指した。


「古い観測宿だ。今は道がない」


「十三日目の中へ隠すと言っていたのですね」


「ああ」


「どういう意味です」


「追っ手が宿へ入ってきたとき、暦師はこう言った」


 セドは目を閉じた。


「十二日から十四日へ飛ばすなら、消された十三日は空になる。その空白へ、奪われた人を置く、と」


「人を日付へ閉じ込める術式など、聞いたことがない」


 レグナートが言う。


「時間を止めることはできません」


 ノアも頷いた。


「存在しない出来事を作ることもできない」


「なら、老人の記憶違いか」


「いいえ」


 ノアは寝具帳を指した。


「三度の朝を迎えた記録があります。客がいた出来事も残っている。それなのに日付だけがない」


 日付の外に人を置くことはできない。


 だが中央暦から切り離された場所へ、人と記録を避難させることなら可能かもしれない。


 その場所で過ごした時間が、国の暦へ接続されなければ、外からは存在しない期間になる。


「母も、その中に?」


 ミラが尋ねた。


 セドは彼女の顔を見た。


 しばらく見つめ、突然、椅子から立ち上がる。


「そうだ」


「何が?」


「あんたに似た女がいた」


 老人は震える手で、ミラの髪へ触れようとして止めた。


「空草色の糸を、ずっと指へ巻いていた」


「名前は覚えていますか」


「エ……」


 声が途切れる。


 セドは苦しそうに額を押さえた。


「無理に言わなくていいです」


 ノアが止める。


「エレナ」


 ミラ自身が言った。


「エレナ・フェン。私の母です」


「エレナ……そうだ」


 セドの目から涙がこぼれた。


「その名前だ」


 ミラは椅子へ座り直した。


 泣かなかった。


 ただ卓の下で、前掛けを強く握っている。


「母は、どんな様子でしたか」


「ほかの人の世話をしていた。名前を忘れた者へ、何度も呼びかけていた」


「私のことは?」


 セドは答えを探すように、空白の頁を見た。


「パンを焼いた」


「パン?」


「宿の粉を借りて、小さな平焼きパンを十枚。子どもの分だけ、二つに割った」


 ミラの唇が震えた。


「母は、パンの端に印をつけませんでしたか」


「七本の切れ目だ」


 ミラは両手で口元を覆った。


 エレナが家でパンを焼くとき、必ず入れていた印。


 七人で分けても、誰かの分が分からなくならないようにする切れ目だった。


「母は、ここにいた」


「はい」


 ノアは答えた。


 まだ十三日目にいるとは断定できない。


 今も生きているとも言えない。


 それでも、エレナがこの宿へ来て、十人分のパンを焼いた出来事は残っている。


「そのパンを食べたあと、彼女は何と言いましたか」


 セドは目を閉じる。


「娘が待っている、と」


 ミラの肩が小さく揺れた。


「帰れないかもしれない。でも、待った日をなくさないでほしい、と」


 ノアは聞取帳へ、そのまま記した。


 言葉を整えない。


 慰めになるよう変えない。


 セドが思い出した通りに残す。


 聞き取りを終えると、老人は帳面の最後の頁を開いた。


「昨日の分を書いてくれ」


「昨日?」


「存在しない客を一人泊めた夜だ」


 日付は中央暦で記せる。


 しかしセドは、出来事の名も残したいと言った。


 ノアは昨日の宿泊を短くまとめる。


 ――吹雪の夜。


 ――登録番号のない旅人を、同行者三名と宿の主人が確認。


 ――豆の煮込みと黒パンを四人で食べた。


 ――中央巡回兵の移送要求に、命令原本がなかったため応じず。


「名前も書く」


 セドが鉄筆を握る。


 ノア・アルデン。


 一度では薄くなった。


 老人はもう一度書いた。


 宿の主人も書く。


 厨房の使用人も書く。


 昨夜、同じ食堂にいた商人は迷った末に、荷物を抱え直してから署名した。


「盗まれてないことも証言になるか」


「はい」


「じゃあ書く。こいつは俺の荷物を盗まなかった」


「消極的な証言ですね」


「知らない奴を立派だとは書けん」


「十分です」


 寝具帳へ、ノアの名が何度も重なる。


 中央の登録番号はない。


 それでも宿へ来て、食事をして、眠った一人として数えられた。


「この帳面は持ち出せません」


 ノアが言った。


「宿に必要だからな」


「写しをいただけますか」


「一頁だけなら」


 セドは空白だった十三年前の頁も写すことを許した。


 大人九人。


 子ども一人。


 三度の朝。


 七都市の印。


 エドガー。


 エレナ。


 そして、東の旧観測宿。


 出発の準備を終えたとき、チクタが寝具帳の上へ飛び乗った。


 背中の砂時計模様が、黒と白に分かれて光る。


 チクタは空白の頁を嗅ぎ、宿の裏口へ走った。


「そっちは街道じゃない」


 主人が呼ぶ。


 だが裏庭の雪の上に、小さな足跡が現れ始めていた。


 チクタのものではない。


 大人の靴跡が九人分。


 その横に、子どもの小さな足跡が一つ。


 降ったばかりの雪へ、十三年前の一行が今歩いたように刻まれていく。


 足跡は東の森へ続いていた。


 地図にない、旧観測宿へ向かって。


 ミラは空草色の糸を指へ巻いた。


「行きましょう」


「現在の街道ではありません」


 ノアは消えかける足跡を見る。


「追えば、十三日目へ接続する可能性があります」


「母が待ってるかもしれない」


「戻れなくなるかもしれません」


「だから帰る日を書いたんでしょう」


 ノアは胸元の旅程札を握った。


 エルデで待つ人々。


 リノが書いた名前。


 五回目の七つ鐘。


「帰還予定は変えません」


「守れそう?」


「帰ろうとします」


 四人と一匹は、十三年前の足跡を追って森へ入った。


 宿の裏庭で、セドが一行の名を呼び続けている。


 ノア。


 ミラ。


 レグナート。


 ハウル。


 チクタ。


 木々の間へ進むほど、現在の街道の音が遠ざかった。


 やがて雪の降る音さえ消える。


 森の奥に、屋根の半分だけが見えた。


 旧観測宿。


 その扉には、日付のない宿帳と同じ七つの印が刻まれていた。


 内側から、誰かがパン生地をこねる音が聞こえた。

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