第31話 名前のない旅人を泊める宿
ヴァルドを出て最初の夜、ノアは宿へ泊まれなかった。
「登録番号が見つかりません」
街道宿の主人は、受付台に置かれた照合板を何度も叩いた。
ノアの暦務官免許を重ねても、板には同じ文字しか浮かばない。
――所有者なし。
旅程札を置けば、同行者三名と暦獣一匹の記録は出る。
ミラ・フェン。
レグナート・クレイ。
ハウル・ベルク。
暦獣チクタ。
四人目の欄だけが、空白だった。
「目の前にいるでしょう」
ミラがノアの肩を指す。
「それは分かります」
宿の主人は困り切った顔をした。
「ですが、存在しない方を客室へ入れた記録は作れません」
「記録を作れないと、何が困るのですか」
ノアが尋ねた。
「火事や盗難があったとき、宿泊者名簿と人数が合わなくなります。食料税も、寝具の貸出数も、馬小屋の使用料も」
「では、人数だけ一人増やしてください」
「名前のない一人は、密輸人や逃亡兵として扱われます」
宿の壁には、中央暦院から届いた緊急通達が貼られていた。
――ノア・アルデンを名乗る者は、登録の存在しない身分詐称者である。
――零番保護対象として中央へ移送せよ。
主人は何度も通達とノアを見比べている。
「通報するのですか」
レグナートが尋ねた。
「中央の命令なら、しなきゃならないんでしょう」
「命令を読みましたか」
「字は少ししか」
「では、誰を通報するのです」
「ノア・アルデンを名乗る人を」
「本人だと、どう確認しますか」
主人は黙った。
通達には、容姿も年齢も書かれていない。
登録がないため、中央の人物台帳にも照合できない。
ノア・アルデンと名乗れば対象になる。
逆に名乗らなければ、目の前の男が対象者か確かめる手段もなかった。
「それなら違う名前で泊まればいい」
ハウルが言った。
「偽名は使いません」
ノアは即答した。
「存在しないって言われてるのに?」
「だからこそです」
別の名前を名乗れば、中央が言う身分詐称を、自分で事実にしてしまう。
「野宿します」
ノアが荷物を持ち上げると、外から強い風が吹いた。
細かな雪が戸口へ舞い込む。
「今夜は峠が荒れる」
宿の主人が止める。
「外へ出たら危険です」
「しかし泊められない」
「そうなんです」
誰も望んでいないのに、記録だけが一人を外へ追い出そうとしていた。
ミラは受付台へ両手を置いた。
「私の部屋へ泊めます」
「一室の定員は二名です」
「私とノアで二人」
「照合板では一人です」
「じゃあ寝具も食事も一人分でいいわ。私が半分にする」
「それでは料金が――」
「二人分払う」
「存在しない人からは受け取れません」
「私が払う!」
「一人の宿泊者が二人分を払う理由を帳簿へ書けません!」
主人の声も大きくなった。
怒っているのではない。
決められた欄に収まらない出来事を、どう扱えばよいか分からないのだ。
ノアは受付台の帳簿を見た。
宿泊者名。
登録番号。
入宿日。
退出予定日。
部屋番号。
非常時の連絡先。
必要な項目はそろっている。
ただし、中央の登録番号を持つ人だけを泊める前提で作られていた。
「中央の番号を使わず、宿が直接確認した事実を書きませんか」
「そんな名簿は監査で認められない」
「通常の宿泊台帳とは別にします」
ノアは白紙を一枚出した。
「臨時滞在記録です」
「また新しい記録を作るの?」
ミラが尋ねる。
「登録が確認できないという事実を隠すわけにはいきません」
ノアは紙の上へ項目を書いた。
本人が名乗った名前。
同行者が確認する名前。
宿へ到着した出来事。
外見と所持品。
入宿を認めた責任者。
退出予定。
問題が起きた場合の連絡先。
「登録番号の代わりに、証人を書くのですか」
主人が紙をのぞき込む。
「はい。私が突然いなくなっても、誰と来て、どこへ向かったかが残ります」
「盗みをしたら?」
「被害品と状況を記録してください。登録がないから罪もない、とはなりません」
「逆に、あんたが宿で怪我をしたら?」
「宿泊者として扱ってください」
主人は眉を寄せた。
「中央では存在しないのに?」
「この宿へ来たことは、あなたも見ています」
出来事がある。
証人がいる。
雪に濡れた外套、荷物、旅程札という物的記録もある。
出生の日がなくても、今夜ここへ来た事実まで消えるわけではない。
「私が証人になります」
ミラが最初に署名した。
ミラ・フェン。
同行者。エルデからネーヴァ、ヴァルドまで共に旅した。
レグナートも監察官印を押す。
「中央登録の確認不能。ただし、本人の存在および旅程への同行を現認」
ハウルは、ノアの外見を書いた。
「黒髪。背は俺より少し低い。細い。武器なし。荷物の半分が紙」
「最後は必要ですか」
「別人と見分けるためだ」
チクタも紙の隅へ前足を置いた。
小さな泥印が残る。
「暦獣まで証人なの?」
主人が尋ねる。
「本人の名前を呼び分けています」
ミラが答えた。
「私がノアと言えば、そっちを見る。レグナートと言えば嫌そうな顔をする」
「暦獣にも好みがあるのか」
「待て。私のときだけなのか?」
チクタはレグナートを見て、ぷいと顔を背けた。
「記録へは書かなくて結構です」
臨時滞在記録には、宿の主人自身も署名した。
――雪の夜、ノア・アルデンと名乗る成人男性一名が来宿。
――中央登録は確認できないが、同行者三名の証言により、一夜の滞在を認める。
「これでいいのか」
「正式な身分証明にはなりません」
「なら意味がない?」
「今夜、宿にいる一人を数えられます」
主人は照合板を見た。
中央の登録人数は三名。
臨時滞在記録に一名。
暦獣一匹。
「火事になったら、五つの命を探せばいい」
「はい」
主人はようやく部屋の鍵を出した。
「二階の六号室。寝具は二組出す。食事も二人分だ」
「料金は?」
「存在しない人から受け取れないなんて、帳簿に書いてない」
ミラが笑った。
「さっき言ってたでしょう」
「今、別の記録を作ったからな」
夕食は豆の煮込みと黒パンだった。
宿にはほかにも、吹雪で足止めされた旅人がいた。
皆、壁の通達を見ている。
ノアの名を聞いた者は、距離を取った。
近くの席に座っていた商人は、荷物を自分の足元へ引き寄せる。
「気にしなくていい」
ミラが小声で言った。
「登録のない人物を警戒するのは自然です」
「それ、平気な人の言い方じゃないわよ」
「平気ではありません」
ノアが答えると、ミラの手が止まった。
「そう」
「驚きましたか」
「あなたが自分から言ったことに」
「事実を隠す理由はありません」
「なら、もう少し詳しく」
ノアは煮込みを見つめた。
「自分が座っている椅子だけ、誰にも見えていないような感覚があります」
「私は見えてる」
「はい」
「宿の主人も。レグナートも。チクタも」
「分かっています」
「分かってるのと、感じるのは違う?」
「おそらく」
ミラは自分の黒パンを半分に割り、ノアの皿へ置いた。
「これ、何ですか」
「私が半分あげた記録」
「食べれば消えます」
「味は残るでしょう」
ネーヴァで彼女が言ったことと同じだった。
紙だけが記録ではない。
同じ食卓でパンを分けたことも、二人の間には残る。
ノアはパンを口へ運んだ。
「硬いですね」
「そこは感想を選びなさいよ」
夜半、宿の正面扉が強く叩かれた。
「中央の巡回だ!」
主人の顔が青ざめる。
照合板には、三名の宿泊者しか登録されていない。
だが二階には、ノアを含め四人がいる。
「裏口から出ます」
ノアが立ち上がる。
「吹雪の中へ?」
「宿へ迷惑を掛けられません」
「もう記録へ書いた」
主人は受付台の下から、臨時滞在記録を取り出した。
「ここで追い出したら、俺が入宿を認めた事実まで嘘になる」
「中央へ逆らうことになります」
「違う」
主人は震える手で紙を握った。
「この宿にいる人数を、正しく数えるだけだ」
扉が再び叩かれる。
主人は中央の巡回兵を中へ入れた。
「宿泊者名簿を確認する」
「通常登録は三名です」
「二階から四人分の足音がした」
「臨時滞在者が一名います」
巡回兵の目が鋭くなる。
「名は?」
主人は一度だけノアを見た。
それから紙を読み上げる。
「ノア・アルデン」
「零番対象か」
「本人がそう名乗り、三名が同行を証言しています」
「中央へ引き渡せ」
「移送命令の原本は?」
宿の主人の声は震えていた。
それでも、トトが門で行ったのと同じように問い返した。
「この宿から客を連れ出すなら、責任者の名前と目的を記録します」
巡回兵は臨時滞在記録を奪おうとした。
その前へ、レグナートが監察官徽章を置く。
「証拠保全中の参考人だ。私の監督下にある」
「中央登録がない者を、参考人にはできません」
「だから調査している」
「院長命令です」
「番号は?」
巡回兵は答えられなかった。
通達は持っている。
しかし、誰をどの根拠で連行するかを記した移送命令はない。
「今夜の拘束は認めない」
レグナートが告げた。
「異議があるなら、明朝、正規の命令書を持ってこい」
巡回兵はしばらく睨んでいたが、吹雪の中へ戻っていった。
扉が閉じると、宿の主人はその場へ座り込んだ。
「怖かった」
「申し訳ありません」
ノアが言う。
「謝るな。客を泊めただけだ」
主人は臨時滞在記録の下へ、一行を書き足した。
――中央巡回兵による移送要求あり。命令原本の提示なし。宿泊継続。
「明日、監査で怒られるだろうな」
「この記録の写しを私が持ちます」
レグナートが言った。
「監察官までいなくなったら?」
主人の問いに、レグナートは答えられなかった。
代わりにノアが、同じ内容をもう一枚へ写した。
一枚は宿。
一枚はレグナート。
一枚はミラ。
「三つあれば、全部を同時には消しにくい」
「町同士が証言するのと同じか」
「はい」
翌朝、吹雪は止んでいた。
宿の主人は、ノアへ退出印を押した臨時滞在記録の写しを渡す。
「次の宿で困ったら見せろ」
「身分証にはなりません」
「でも、昨夜ここにいた証拠にはなる」
ノアは紙を受け取った。
中央には存在しない。
それでも昨夜、宿に入り、食事をし、眠り、朝に出た。
その一晩を知る人が、また増えた。
街道へ出ようとしたとき、宿の裏手から老いた使用人がノアを呼び止めた。
「その青い布」
老人は、幼児札を包んだ布を見ていた。
「十三年前にも見た」
「どこでですか」
「この宿だ。中央の暦師が、青い布に包んだ子どもを連れてきた」
老人はノアの顔を見上げる。
「父親らしい男も一緒だった。エドガーと呼ばれていた」
「どこへ向かいましたか」
「エルデだ」
老人は街道の南ではなく、雪山の東を指した。
「ただし、子どもは一人じゃなかった」
ノアの胸元で、幼児札が熱を帯びる。
「七つの町から連れてこられた人たちがいた。日付を取られて、自分の名前も言えなくなった人たちだ」
老人の声が震えた。
「エドガーは、その人たちを十三日目の中へ隠すと言っていた」




