第30話 存在しない暦務官
ノアの出生台帳には、始まりの日がなかった。
名前はある。
幼児用の記名札もある。
父親と思われるエドガー・アルデンが保管した箱の中に、確かに残されていた。
それでも中央暦院の処理印は、ノアを人として認めていない。
――出生記録を無効化。
――暦上、存在しない者として扱う。
「どういう意味ですか」
フェルナが尋ねた。
「出生記録がない人なら、ほかにもいるでしょう」
「記録が見つからないのとは違います」
レグナートが黒い印を確認する。
「これは、存在していた記録を意図的に無効化する処理だ」
「名前があるのに?」
「名だけを残したのだろう」
ノアは幼児用の札を持ち上げた。
ノア・アルデン。
文字は薄れていない。
だが裏側には、零番という小さな刻印がある。
「零番は、土地や施設の分類ではなかったのですか」
ミラが聞く。
「中央では、どの台帳にも属さない記録を一時的に零番へ置くことがある」
レグナートの声が重い。
「ただし、人間へ使う制度ではない」
「でも使われた」
「少なくとも、ノアには」
出生台帳の次頁には、エドガーの筆跡と思われる短い記録があった。
――当該児童は、七都市共同暦の継承条件を満たす。
――一都市の記録だけでは身元を確定できない。
――七都市すべての証言をもって、出生を登録すること。
その下には、別人の追記。
――共同暦の復元を防ぐため、登録を停止。
――児童を零番指定し、中央暦から除外する。
「七つの町が証言しないと、あなたの誕生日を定められないの?」
ミラが尋ねる。
「そう書かれています」
「どうして赤ん坊一人に、七つも町が必要なのよ」
ノアは答えられなかった。
出生地は空欄。
母親の名もない。
父親欄には、エドガー・アルデンの名すら記されていなかった。
ただ、七都市共同暦の継承条件という言葉だけがある。
「エドガーは、ノアを守るために記録を分けたのかもしれない」
レグナートが言う。
「七都市のどこか一つを押さえられても、身元を確定できないように」
「それなら、なぜ中央は名前を残したのでしょう」
「完全に消せなかったからだ」
ガルド司令官が、文書庫の入口から答えた。
「七つの町に、お前を見た者がいたんだろう」
エルデには、青い服の子どもを覚えていた十二人がいた。
エレナは、その子をノアと呼んだ。
ほかの六都市にも、同じような証言が残されている可能性がある。
「出生の日を消しても、見た人までは一度に消せなかった」
ガルドは幼児札を見た。
「だから中央は、町ごと地図から切り離した」
七都市の土地を奪うため。
戦時中の不正を隠すため。
それだけではなかった。
七つの町が互いの記録を証言できなくすれば、ノアの出生も確定できない。
「私が、七都市を消す理由の一つだった?」
「まだ決まってないわ」
ミラがすぐに言った。
「記録にそう書かれてるだけでしょう」
「中央の記録です」
「今まで散々、中央の記録が嘘だって見てきたじゃない」
ミラは幼児札をノアの手から取り上げ、光へかざした。
「あなたが町を消したわけじゃない。赤ん坊にそんなことできるわけないでしょう」
「しかし、私を利用した可能性はあります」
「利用した人が悪いの」
幼児札が、ミラの指の間で震えた。
揺れているのは彼女の手ではない。
札に刻まれたノアの名が、端から薄くなっていた。
「ノア」
ミラが声を上げる。
出生台帳の名前も滲み始めている。
黒い無効印から細い線が伸び、頁の文字を飲み込んでいく。
「処理印が動いている」
レグナートが台帳を閉じようとする。
だが黒い線は紙の表面を越え、ノアの鞄へ向かった。
暦務官免許。
旅程札。
ネーヴァの春季復元記録。
ヴァルドの終戦記録。
ノアが自分の名を書いた箇所だけが、灰色へ変わっていく。
「止められますか」
ミラが尋ねる。
「原処理を解除しなければ無理だ!」
レグナートは中央印へ監察印を重ねた。
光が弾ける。
しかし監察印の方が欠けた。
「中央暦の最上位処理だ。地方では解除できない」
「なら、別の紙へ書き直します」
ノアは鉄筆を取った。
新しい木札へ、自分の名を書く。
ノア・アルデン。
書いた直後は読める。
だが数呼吸で、姓から薄れ始めた。
「私が書く」
ミラが別の札へ刻む。
ノア・アルデン。
今度は消えない。
「どうして?」
「本人が自分を登録することはできないのかもしれない」
レグナートが言う。
「存在しない者の自己申告は、中央暦に定着しない」
「でも、私が書けば残る」
「証人の記録だからだ」
ミラは次々に札を書いた。
ノア・アルデン。
エルデへ来た暦務官。
リノの誕生日を見つけた人。
市場日を戻した人。
パンを食べるのが遅い人。
「最後は必要ですか」
ノアが尋ねる。
「リノが覚えてる大事な特徴よ」
「特徴として弱すぎます」
「反論できるなら、まだ大丈夫ね」
だが公式記録の消失は止まらない。
暦務官免許から氏名が消えた。
発行番号を照合したレグナートの携帯台帳には、該当者なしと表示される。
「免許番号そのものはあります」
ノアが確認する。
「所有者欄だけが空白だ」
「では、私は暦務官ではなくなった?」
「免許を剥奪されたのではない」
レグナートは言葉を選んだ。
「最初から所有者がいなかった扱いになっている」
ノアが復元した日付は残っていた。
リノの誕生日。
エルデの市場日。
ネーヴァの春。
ヴァルドの終戦日。
しかし担当者欄だけが空白になっていく。
出来事はある。
町の記録もある。
それを行った人間だけが、中央の暦から抜け落ちていた。
「中央へ戻れば、どうなりますか」
ミラが聞く。
「身分証明ができない」
レグナートが答える。
「宿にも泊まれず、門も通れず、公的な契約も結べない。税を納めることも、裁判で証言することもできない」
「拘束されたら?」
「拘束記録を作れない」
「なら捕まえられない?」
「逆だ」
ガルドが険しい顔をする。
「記録せず、どこへでも連れていける」
文書庫の入口で、中央式の伝信鐘が鳴った。
ヴァルドに十三年間届かなかった装置が、終戦日を取り戻したことで再び動き始めている。
レグナートが受信紙を引き出した。
一枚目は、ヴァルド終戦処理への照会。
二枚目は、旧戦時文書庫の封鎖命令。
三枚目。
それを読んだレグナートの顔が強張った。
「何と書かれていますか」
「中央暦院から、全都市と関所への緊急通達だ」
彼は紙を長机へ置いた。
――ノア・アルデンを名乗る者は、登録の存在しない身分詐称者である。
――当該人物による暦処理、契約、証言をすべて無効とする。
――発見した場合、零番保護対象として中央暦院へ移送せよ。
「保護対象?」
ミラが吐き捨てる。
「記録せず連れていくための言葉ですね」
ノアは通達の発行日を見た。
今日ではない。
十三年前の日付だった。
「また、用意されていた命令」
「ノアが七都市の記録へ触れた場合、自動的に発行されるよう設定されていたのだろう」
レグナートが言う。
「出生台帳を開いたことで、停止していた処理が再開した」
「閉じれば戻る?」
ミラが台帳へ手を伸ばす。
「戻りません」
ノアは首を横へ振った。
「処理はすでに実行されています」
ミラが何かを言おうとしたとき、フェルナが文書庫の外から呼んだ。
「暦務官殿、配給名簿の相談を――」
入口まで来た彼女は、ノアを見て足を止めた。
「あなたは……」
目が迷う。
数日前から案内し、同じ食卓を囲み、終戦日を復元する場に立ち会った相手を見ているはずなのに、名前が出てこない。
「ノアです」
ミラが言う。
「エルデの暦務官、ノア・アルデン」
「ノア……」
フェルナは額を押さえた。
「そうだ。知ってる。なのに、思い出そうとすると抜ける」
共有した出来事に日付がある者は、まだノアを思い出せる。
しかし担当者欄が空白へ変わるほど、記憶との結びつきも弱くなっている。
「エルデへ戻ります」
ノアは幼児札を青い布へ包んだ。
「今戻れば、関所で捕まる」
レグナートが止める。
「戻らなくても、いずれ私を忘れます」
「そんなことない」
ミラが言った。
「私が覚えてる」
「あなた一人の証言だけでは、暦は定着しません」
「一人じゃない」
ミラは消えずに残った木札を握る。
「リノがいる。エルデの皆がいる。あなたが日を返した人がいる」
「中央は、私が関わった記録を無効にすると通達しています」
「中央に決めさせなければいい」
ノアは彼女を見る。
「どうやって?」
「町の人に決めてもらうの」
ミラは当然のように答えた。
「あなたが存在するかどうかを、あなたを見たこともない中央の人じゃなく、毎日一緒に暮らした人たちに」
ヴァルドの住民たちが、空白になった記録の担当者欄へ名前を書き始めた。
ノア・アルデン。
終戦日の証人。
ノア・アルデン。
文書庫を開くために働いた暦務官。
書けば、少しずつ薄くなる。
それでも別の人が、また書き足す。
紙へ。
木札へ。
城壁へ置かれた伝言板へ。
トトから預かった春のパンの包み紙へ。
「中央暦に残らなくても、町の記録には残せる」
フェルナも、震える手でノアの名を書いた。
「忘れそうになったら、読む」
ガルド司令官は、終戦確認書の裏へ太い字で記した。
――この日を取り戻した暦務官は、ノア・アルデン。
ノアは初めて、自分の名が他人の手で増えていく光景を見た。
自分では書けない。
中央には登録されない。
出生の日も分からない。
それでも、自分と同じ日を過ごした人々が、ここにいたと証言している。
文書庫の奥で、黒い零番箱がひとりでに閉じた。
同時に、ノアの胸元にあった暦務官徽章から、最後の光が消えた。
肩書きも、資格も、国の記録も失った。
残ったのは、町の人々が手で書いた名前だけだった。
ノアはその札を一枚、胸元へ結ぶ。
「エルデへ帰りましょう」
今度はミラが頷いた。
「あなたが、あの町で何者なのかを確かめに」




