第29話 戦争が終わらない砦
北方砦都市ヴァルドでは、朝になるたび敗戦の鐘が鳴った。
低い鐘が三つ。
城門が閉じる。
住民は窓を塞ぎ、兵士たちは武器を地面へ置く。
そして砦の中央で、同じ降伏文書が読み上げられる。
「王暦六百十三年、鉄月十三日。ヴァルド守備隊は戦闘を停止し、中央暦院の停戦管理下へ入る」
読み上げ役の老兵が紙を畳む。
すると城門が開き、住民は仕事へ戻った。
ただし翌朝になれば、また同じ敗戦日が始まる。
「十三年間、毎日ですか」
ノアが尋ねた。
案内役の女兵士フェルナは頷いた。
「降伏確認が終わるまでは戦闘中。読み上げたあとは、一時停戦中。次の日になれば、正式な終戦手続きをするはずだった」
「その次の日が消された」
「そういうことらしい」
砦の壁には、十三年分の補修跡がある。
当時若かった兵士は白髪になり、戦争を知らない子どもが武具を磨いている。
時間は進んでいる。
ヴァルドだけが、戦争の終わった翌日へ進めない。
「戦闘中の都市なら、中央から特別配給が出るはずです」
レグナートが言った。
「帳簿では出ている」
フェルナは倉庫を指した。
「守備兵三百二十人分。毎月、欠かさず」
「現在の兵士は?」
「八十七人」
「残りは」
「死んだ。町を出た。行方不明。それでも名簿から消せない」
戦争が終わっていないため、死亡確認も除隊も正式には処理できない。
配給倉庫の前では、古い兵士名簿が読み上げられていた。
「第一隊、バルド・ケイン!」
返事はない。
「第二隊、リード・マウレン!」
列の外にいた老女が手を挙げる。
「息子は、まだ帰ってないよ」
「代理受領は認められません」
「十三年だよ。死んだとも、帰ったとも書いてないんだろう?」
「戦闘中行方不明です」
「なら、その子の分を母親が食べちゃいけないのかい」
配給係は答えず、麦袋へ不在印を押した。
不在者分は三日保管されたあと、中央管理分として南の集積所へ返送されるという。
「本当に返送されていますか」
ノアが尋ねた。
配給係は視線を伏せた。
「荷車は来る。空の受領札も届く」
「荷を積んだところは?」
「集積所の役人がやる。俺たちは近づけない」
帳簿上は三百二十人分が届く。
実際には百人分にも満たない。
それでも不在者分を中央へ戻した記録だけは、毎月作られていた。
存在しない配給を、存在しない兵士へ渡し、さらに返送したことにしている。
「敗戦日が終わらなければ、兵士名簿も配給制度も更新されない」
ミラが言った。
「誰かがずっと得をする仕組みね」
フェルナは砦の奥へ一行を案内した。
旧戦時文書庫は、城壁の下に造られている。
鉄扉には三つの鍵穴。
その中央へ、暦板が埋め込まれていた。
――終戦確認日の翌日、開庫を許可する。
「敗戦日の翌日ではないのですね」
ノアが気づく。
「降伏と終戦は違う」
フェルナが答えた。
「ヴァルドは武器を置いた。でも戦争そのものが終わったという命令は届かなかった」
「届かなかったのではなく、隠された可能性があります」
ノアは降伏文書の写しを見た。
王暦六百十三年、鉄月十三日。
七都市から消された日と一致する。
「終戦命令を見た人は?」
「当時の司令官なら」
「今はどこに?」
フェルナは城壁の上を指した。
「毎日、敵軍が来ないか見張ってる」
ヴァルド司令官ガルドは、八十を超えていた。
背は曲がっているが、古い甲冑を外そうとしない。
望楼の机には、十三年分の敵情報告が積まれていた。
すべて同じ結論。
敵影なし。
「戦争は終わっています」
レグナートが言った。
「中央の正式命令を見ていない」
ガルドは遠眼鏡から目を離さない。
「敵国との講和条約は、十三年前に締結されています」
「その写しは?」
「中央にあります」
「ここにはない」
「では、降伏文書を読み上げた翌日、何が起きたか教えてください」
ノアが尋ねる。
ガルドの指が止まった。
「翌日は来ていない」
「日付ではなく、出来事です」
「出来事?」
「鐘を三度鳴らし、武器を置き、降伏文書を読んだ。そのあと、眠った。次に目覚めたとき、何がありましたか」
老人は目を閉じる。
「白い旗を掲げた」
「誰が?」
「敵軍の使者だ」
「何を持っていましたか」
「終戦確認書」
フェルナが息を呑んだ。
「そんな話、聞いたことがない」
「話すなと言われた」
「誰に?」
「中央の停戦管理官だ」
ガルドは望楼の床板を外した。
中から、古びた革筒が出てくる。
「使者は敵軍へ戻る途中で殺された。管理官は、敵の残党に襲われたと言った」
「実際には?」
「矢は、ヴァルド側のものだった」
革筒の中には、血の跡が残る文書が入っていた。
両国の印。
敵軍司令官の署名。
ヴァルド司令官ガルドの受領印。
――鉄月十四日をもって、北方戦役の終結を確認する。
「鉄月十四日」
ノアは呟いた。
消された十三日の翌日。
ヴァルドが一度も迎えられなかった日だ。
「なぜ隠したのですか」
フェルナが司令官へ詰め寄る。
「町を守るためだ」
「十三年も戦争を続けることが?」
「管理官は言った。終戦文書を出せば、ヴァルドは敵と密約した反逆都市になると」
「嘘です」
レグナートが文書を確認する。
「正式な講和手続きです。中央暦院にも写しが送られたはずだ」
「送った」
ガルドは拳を握った。
「だが受領されなかった。鉄月十四日は存在しないと言われた」
日付が存在しないから、終戦文書も存在しない。
使者の死も、受領した司令官の証言も、正式な記録へ入らない。
「ほかに証人は?」
「当時の副官。鐘楼番。敵軍の負傷兵を治療した医師」
「今も生きていますか」
「副官は三年前に死んだ。鐘楼番はいる。医師は療養所だ」
ノアは三人の証言を別々に取った。
鐘楼番は、降伏の翌朝に六度鐘を鳴らしたと話した。
三度は敵の使者を迎える鐘。
三度は戦争の終結を知らせる鐘。
療養所の医師は、敵軍の使者に同行していた負傷兵を治療した記録を残していた。
傷に巻いた包帯には、敵国の軍印とヴァルド療養所の印が並んでいる。
副官は亡くなっていたが、墓へ収められた日誌に一行だけ残されていた。
――戦は終わった。だが中央は、終わった日を受け取らない。
出来事。
証人。
物的記録。
戦争が終わった日は、確かに存在していた。
「鉄月十四日を復元すれば、文書庫は開きます」
ノアが言うと、ガルドは首を横へ振った。
「終戦を認めれば、我々は敗者になる」
「すでに降伏文書を毎朝読んでいます」
「降伏した日と、敗者になったあとは違う」
「何が違うのですか」
「戦争中なら、死んだ者は兵士だ。終わったあとなら、戻らなかった者になる」
毎朝の儀式は、町を苦しめるだけではなかった。
帰らない兵士を、まだ戦場にいることにできた。
死を認めずに済んだ。
配給名簿から名前を消さずに済んだ。
待つ家族へ、帰らないと告げずに済んだ。
「私の息子もだ」
ガルドは遠眼鏡を置いた。
「最後の偵察隊へ出した。戦が終わったと認めたら、あいつが帰らないことも認めなければならない」
ノアはすぐに答えなかった。
日付を戻すことは、失われた人を戻すことではない。
むしろ、待ち続ける理由を終わらせる場合がある。
「終戦日を戻しても、行方不明者を全員死亡とは定めません」
「同じことだ」
「違います」
ノアは配給名簿を開いた。
「戦争が終わった日を定め、その日までに戻らなかった人を確認する。その後、捜索記録、目撃証言、遺品を一人ずつ調べます」
「十三年経っている」
「だから全員を一つの言葉で消さないのです」
戦死。
行方不明。
捕虜。
他都市で生きている者。
それぞれに違う出来事がある。
敗戦日を繰り返すだけでは、誰の最期も、誰の生存も確かめられない。
「息子さんの名は?」
「オルド・ガルド」
ノアは兵士名簿へ、その名を見つけた。
最終任務。
北西街道の偵察。
帰還記録なし。
「終戦の日を戻したあと、最初に調べます」
「戻らなかったと分かったら?」
「帰らなかった日を、あなたと一緒に記録します」
ガルドは長い間、何も言わなかった。
やがて古い甲冑の留め金へ手を掛ける。
一つ。
二つ。
十三年間外さなかった胸当てが、床へ置かれた。
「終わらせてくれ」
その日の夕方、ヴァルドの住民は砦の広場へ集まった。
反対する者もいた。
まだ家族が帰ると信じたい者。
特別配給が止まることを恐れる者。
終戦後の税や土地処理が始まることを不安に思う者。
ノアは約束した。
帰還兵と行方不明者の確認は、一人ずつ行う。
配給は即日停止せず、実在する住民の人数で再配分する。
終戦を理由に、過去へさかのぼって住民を罰しない。
そして旧戦時文書庫を、町の立会いなしには開けない。
翌朝。
敗戦の鐘は鳴らさなかった。
代わりに、鐘楼番が六度鳴らす。
敵の使者を迎えた三つ。
戦争の終わりを告げた三つ。
ノアは血の付いた終戦確認書と、医師の包帯、鐘楼番とガルドの証言札を記録台へ置いた。
「王暦六百十三年、鉄月十四日」
暦墨で、失われた日を書く。
「ヴァルドは北方戦役の終結を確認した」
暦印が光った。
砦の壁に掲げられていた敗戦日の札が、一斉に落ちる。
兵士たちの名簿から、戦闘中の赤印が消えていく。
現在の日付が、鐘楼の暦板へ浮かんだ。
王暦六百二十六年、眠り月十八日。
ヴァルド第一日。
誰も歓声を上げなかった。
町のあちこちで、長く息を止めていた者が、ようやく吐き出すように泣いていた。
文書庫の扉から、金属音が響く。
三つの鍵穴が、自動的に回った。
鉄扉が開く。
中に積まれていたのは、武器でも軍事機密でもなかった。
土地証書。
帰還兵の身分札。
七都市の共同所有更新書。
消された十三日目に、住民たちが中央へ提出した書類だった。
「全部、残ってる」
ミラが呟く。
「申請がなかったのではありません」
ノアは最初の箱を開けた。
「受け取った上で、日付を消したのです」
奥の棚には、七都市の土地を移転した際の対価一覧があった。
ネーヴァの森。
グランザの鉱山。
セレノの港。
ハルムの穀倉。
ラウゼンの果樹園。
ヴァルド周辺の農地。
エルデの旧観測路。
いずれも戦後復興費として、中央の有力者と協力商会へ格安で譲渡されている。
戦争の混乱で記録が失われたのではない。
土地を奪った事実を隠すために、戦争の終わった日と、権利を申請した日が消された。
「これで、証明できますか」
フェルナが尋ねる。
「七都市すべての証書がそろえば」
ノアは答えた。
「中央が地方の記録を信用しないと言っても、中央自身の受領印があります」
文書庫の最奥には、小さな黒い箱が置かれていた。
表には、零番監査記録。
エドガー・アルデン保管分。
鍵はなく、ノアが近づくと蓋が開いた。
中には一冊の出生台帳と、青い布に包まれた幼児用の記名札が入っていた。
札に記された名前は、ノア・アルデン。
出生地は空欄。
生年月日は、黒い墨で塗りつぶされている。
その下に、中央暦院の処理印があった。
――当該児童の出生記録を無効化。
――暦上、存在しない者として扱う。
ノアは黒く塗られた自分の誕生日を見つめた。
七都市の土地だけではなかった。
中央は十三年前、ノアという人間の始まった日まで消していた。




