第28話 父の署名が残した空白
エドガー・アルデン。
ノアは封書に記された名を、声に出さず何度も読んだ。
同じ姓。
十三年前、七都市の土地処理に関わった中央暦院の暦師。
それだけで、父親だと決まったわけではない。
それでも指先が、わずかに震えていた。
「開けないの?」
ミラが隣から尋ねる。
「開封前の状態を記録します」
ノアは封書を長机へ置いた。
「逃げてる?」
「手順です」
「そう」
ミラはそれ以上言わず、白鐘花のパンを半分に割った。
「じゃあ手順の前に食べて」
「今は必要ありません」
「手が震えてる人に、細かい文字は写せないでしょう」
反論しようとしたが、パンの片方を手へ押し込まれた。
蜂蜜のほのかな甘みが、冷えた口の中へ広がる。
ネーヴァの人々が、春を覚えるために食べた味だった。
「名前が同じだけで、罪まで同じになるわけじゃない」
ミラが言った。
「まだ罪があるとも、父親だとも決まっていません」
「なら、いつものように調べればいいのよ」
出来事。
証人。
物的記録。
自分が決めてきた手順を、今度は自分の名前へ向けなければならない。
ノアは息を整えた。
「開封に立ち会う方を決めます」
中央側の証人としてダレスとレグナート。
ネーヴァ側から町長エッダ。
発見時に同席していた者としてミラ。
記録担当はノア。
ヴァランの荷から見つかった事実については、執行部隊の二名が確認札へ署名した。
「原本は中央へ持ち帰る」
ダレスが告げる。
「ただし、この場で内容を写すことは認める。封書を開いた者、頁数、欠損、追記もすべて記録しろ」
「破棄命令は?」
「命令書の不備が確認された。現在は証拠物だ」
ダレスはヴァランへ視線を向けた。
拘束された上級暦師は、荷車の横へ座らされている。
「そんな古い紙に意味はない」
ヴァランが吐き捨てる。
「意味がないものを、なぜ十三年間持っていたのですか」
ノアが尋ねると、彼は口を閉ざした。
封蝋には、欠けた七芒星の印。
エルデ地下の零番庫で見つけた、七都市観測網の印と同じものだった。
蝋の表面には擦れがあるが、一度溶かして閉じ直した跡はない。
「十三年前の封で間違いないでしょう」
レグナートが光へかざす。
「蝋に混ぜられた青灰は、旧暦院庁舎で使われていたものだ」
「では中身も十三年前?」
トトが長机の端から尋ねた。
「封を破るまでは分かりません」
ノアは細い刃を入れた。
乾いた蝋が、七つに割れる。
中には十一枚の書類が入っていた。
一枚目。
七都市土地処理完了報告。
二枚目から八枚目まで、各都市の土地と施設の一覧。
ネーヴァの共同林。
グランザの鉱山。
セレノの河港と倉庫。
ハルムの穀倉地帯。
ヴァルドの砦と周辺農地。
ラウゼンの果樹園。
エルデの時計塔地下と旧観測路。
すべてに、移転先の名が記されている。
商会。
貴族家。
中央の復興管理所。
そして、その親族が経営する団体。
「戦後復興のための一時接収となっている」
レグナートが読み上げる。
「一時?」
エッダがネーヴァの頁を指した。
「森は今も戻ってない」
「返還予定日は空欄です」
ノアが確認する。
代わりに、所有権更新不能という印が押されていた。
住民が更新を申請しなかったため、権利を失った。
そう記録されている。
「申請なんてできるわけがない」
エッダの声が掠れる。
「春の日を消されたんだ。更新日は、その翌日だった」
ネーヴァだけではない。
グランザでは、鉱夫組合が労働権を更新する日。
セレノでは、港湾使用料を住民で分ける日。
ハルムでは、共同畑の収穫権を確認する日。
七都市すべてで、権利を守るために必要な申請日が、消された十三日目の直後へ置かれていた。
「偶然ではありません」
ノアは頁を並べた。
「先に期限を定め、その直前の日付を消している」
「違う」
ヴァランが声を上げた。
「戦時中の混乱で申請が遅れた土地を、中央が管理しただけだ」
「それなら、戦争が終わったあと返還手続きを行うべきです」
「元の所有者が確認できなかった」
「確認する記録を消したからでしょう」
「地方の記録は信用できない!」
「中央が消す前は、中央へ季節と土地の報告を送っていました」
七都市は互いの記録を照合する観測網だった。
一つの町が災害で帳簿を失っても、ほかの町に写しが残る。
だから土地を奪うには、一つでは足りなかった。
七つすべてを同じ暦から切り離す必要があった。
「九枚目を」
ダレスが促す。
そこには、処理に関わった暦師と官吏の名が並んでいた。
ヴァラン・エルツ。
十三年前の中央暦院長。
数名の土地管理官。
そして最後に、エドガー・アルデン。
役職は、暦連続性監査官。
七都市の日付処理に問題がないことを確認する立場だった。
署名もある。
「この筆跡を知っていますか」
ノアは兄弟へ尋ねた。
レグナートは首を横へ振った。
「私が暦院へ入ったときには、エドガー・アルデンの人事記録は閲覧禁止になっていた」
「存在は知っていたのですね」
「古い監査官名簿で名前だけ見た。七都市処理の直後に失踪したと聞いている」
「死亡記録は?」
「ない」
ノアは署名へ触れず、線の流れを見る。
エドガーの名は濃い黒。
役職欄や日付は、少し薄い灰色。
使用された墨が違う。
「署名だけ、別の時期に書かれています」
「先に署名させて、あとから本文を作った?」
ミラが尋ねる。
「可能性はあります」
エレナの署名を使った白紙命令書と同じ方法だ。
だが、署名が本物である証拠もない。
ノアは紙を横から光へ透かした。
署名部分だけ、紙の繊維がわずかに厚い。
「上から貼られている」
ダレスが指先で縁を確かめた。
紙とほぼ同じ薄さに削った別の紙片が、署名部分へ埋め込まれている。
丁寧な加工だった。
正面から見ただけでは分からない。
「剥がせますか」
ノアが尋ねる。
「証拠物を傷つける」
「裏側の文字を確認できるかもしれません」
ダレスはしばらく迷い、記録へ処置理由を書かせた。
湯気を当て、古い糊を少しずつ緩める。
ミラが湯を沸かし、レグナートが紙を固定する。
ノアは鉄筆の先で、署名片の端を持ち上げた。
裏面に、文字があった。
小さく切り取られたため、全文は残っていない。
それでも読める部分がある。
――七都市の暦外指定に反対する。
――住民の権利申請日を消去する処理は、暦務ではなく証拠の隠蔽である。
最後に、同じ署名。
エドガー・アルデン。
「反対文書の署名を切り取って、完了報告へ貼った」
レグナートが呟く。
「父親は悪い人じゃなかったの?」
トトが尋ねる。
「まだ、父親とは決まっていません」
ノアは答えた。
声は平静だった。
だが署名片を支える手には、力が入りすぎている。
ミラがその手首へ触れた。
「反対した人だったことは?」
「この文書が本物なら」
「本物かどうか調べるのが、あなたの仕事でしょう」
「はい」
ノアは署名片の裏をさらに確認した。
反対文書の本文はほとんど切り捨てられている。
ただ、紙の下端に記録番号の一部が残っていた。
零番監査記録、十三号。
「零番」
レグナートが言う。
ノアが中央で呼ばれていた分類。
時計塔地下の零番庫。
エルデの土地を譲渡された、身元不明の青い服の子ども。
すべてが同じ言葉へつながっていく。
十枚目は、七都市の住民記録に関する処理表だった。
戦時中に死亡した者。
行方不明者。
収容者。
土地権利者。
それぞれの申請状況が記されている。
ほとんどの欄には、同じ印が押されていた。
――期限内申請なし。
しかし横には、提出物の数がある。
土地証書、二百八十一件。
共同所有の更新札、九十四件。
帰還兵の身分証明、百三十二件。
「申請なしなのに、提出物がある?」
ミラが気づいた。
「住民は申請していたのです」
ノアは処理日を見る。
すべて、消された十三日目。
存在しない日付に提出された書類は、中央の暦上では受領されていないことになる。
「日を消した理由は、申請をなかったことにするため」
エッダが椅子へ座り込んだ。
「森を奪うために、春を消したのか」
「森だけではありません」
ノアは七都市の頁を重ねた。
鉱山。
港。
穀倉地帯。
砦。
街道。
時計塔。
戦争が終わった直後、中央と一部の貴族や商会が必要としていた土地ばかりだ。
最後の十一枚目は、受領物の保管先一覧だった。
七都市から提出された土地証書や更新札は、破棄されていない。
中央へ運ばれたと記されている。
「どこに?」
ダレスが尋ねる。
保管先の欄には、後から黒い墨が塗られていた。
ノアは紙を斜めにし、光を当てる。
墨の下に残る筆圧が、わずかに浮かんだ。
北方砦都市ヴァルド。
旧戦時文書庫。
その下に追記がある。
――敗戦日の終了まで、開庫を禁ずる。
ヴァルドでは今も、毎朝同じ敗戦日が繰り返されている。
戦争が終わったと認められなければ、戦時文書庫は開かない。
七都市から奪われた土地証書は、そこに封じられている。
「次の行き先が決まりましたね」
ミラが言った。
ノアはエドガー・アルデンの署名片を見た。
七都市の処理へ反対し、零番監査記録を残した人物。
ノアをエルデへ逃がした可能性がある人物。
そして、中央の記録から姿を消した暦師。
「ヴァルドへ向かいます」
ノアは答えた。
「敗戦日を終わらせ、十三日目に提出された証書を取り戻します」
ダレスは十一枚の書類を封じ直した。
「原本は私が中央へ運ぶ」
「ヴァルドの文書庫を先に確認させてください」
「命令は出せない」
「同行もしないのですか」
「ヴァランを連行する必要がある」
ダレスは弟を見た。
「代わりに、監察官を証人として連れていけ」
「最初からその予定です」
レグナートが答える。
執行部隊が出発したあと、ノアはエルデへ送る短い手紙を書いた。
父かもしれない人物の名を見つけたこと。
その署名が、反対文書から切り取られていたこと。
次はヴァルドへ向かうこと。
最後に、帰還予定日を修正する。
三回目の七つ鐘では、もう戻れない。
新しい予定は、五回目の七つ鐘。
対になった旅程札へ追記すると、しばらくしてリノの文字が浮かんだ。
――遅れるって手紙、ちゃんと来た。
――だから待てる。
その下には、馬ではなく七つの小さな丸が描かれていた。
七つの町すべてを見つけて、帰ってこいという印だった。




