第27話 春の日を買った暦師
門が開いても、ネーヴァの住民は道を空けなかった。
武器は持っていない。
代わりに、全員が同じ三つの印を掲げている。
白鐘花。
雪解け川。
春の鐘。
紙に描いた者。
木へ刻んだ者。
布へ縫った者。
子どもたちは、ミラが焼いた印入りのパンを抱えていた。
中央暦院執行部長ダレス・クレイは、その光景を一度見渡しただけで、表情を変えなかった。
「命令書を確認する」
レグナートが兄の前へ出た。
「監察官として、執行の根拠を照合する」
「監察官レグナート・クレイ」
ダレスは弟を役職名で呼んだ。
「お前には違法暦改変の監督責任がある。確認を求める立場ではない」
「責任があるから確認する」
「命令番号は、緊急暦務令第七十三号。発行者は中央暦院長。執行対象は、雪境都市ネーヴァで作成された不正な春季記録すべてだ」
「原本を見せろ」
「拒否すれば?」
「原本未提示として記録する」
兄弟はしばらく見つめ合った。
先に視線を外したのはダレスだった。
「門前で命令原本を広げることはできない。町内に確認所を用意しろ」
「鐘楼前に長机があります」
ノアが言った。
「住民も同席します」
「暦務令の確認に、住民の同席は不要だ」
「命令によって日付を失うのは住民です」
「地方暦務官の意見は聞いていない」
「では、記録担当として発言します」
ノアは自分の名札を掲げた。
ノア・アルデン。
ネーヴァの春季復元に関わった暦務官。
「誰が、どの証拠を、どの理由で不正と判断したか。それを住民の前で確認します」
ダレスはノアの名を見た瞬間、わずかに眉を動かした。
「ノア・アルデン」
「はい」
「中央へ戻らず、まだ暦務官を名乗っているのか」
「免許停止の正式通知は受け取っていません」
「近日中に届く」
「それは未来の予定です。現在の資格とは分けてください」
後ろで、ミラが小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
「門を通る者は、名と目的を記してください」
トトが通行板を差し出した。
執行部隊の何人かが少年を見下ろす。
ダレスは板を取らなかった。
「中央の官吏に、地方の通行記録へ従う義務はない」
「では、記名を拒否したと書きます」
「好きにしろ」
「名前はもう聞きました」
トトは懸命に文字を刻んだ。
ダレス・クレイ。
春の日を接収するため。
記名は拒否。
「書けた」
トトがノアへ見せる。
「事実どおりです」
執行部隊が町へ入る。
護衛の兵たちは剣へ手を掛けていたが、抜いてはいない。
二台の荷車には、空の木箱、記録を封じる鉄帯、紙を焼却するための炉が積まれている。
最初から、持ち帰る物と燃やす物を分けるつもりで来たのだ。
その後ろに、一人だけ中央の黒い外套ではない男がいた。
白い毛皮の襟。
金糸を使った暦師服。
指には、大粒の青石がはめられている。
「彼は誰です」
ノアが尋ねる。
「ネーヴァ地方暦の正規管理者、上級暦師ヴァラン・エルツ」
ダレスが答えた。
「地方暦の正規管理者?」
町長エッダの声が震える。
「十三年間、一度も来なかったじゃないか」
ヴァランは不快そうに鼻を鳴らした。
「暦外区域へ赴任する義務はない。私は中央で管理記録を作成していた」
「町を見ずに?」
「地方から提出された報告を基にしている」
「何の報告だ」
バルクが前へ出た。
「燃料も、配給も、森の状態も、誰も調べに来てない!」
「冬季保留地の報告は、森林管理商会から毎年届いている」
ノアはヴァランの服に縫われた紋章を見た。
三本の白樹を囲む金の輪。
ネーヴァの共同林を譲り受けた、エルツ森林商会の印だった。
「エルツ森林商会と、あなたの関係は?」
「兄が経営している」
ヴァランは隠そうともしなかった。
「地方暦を管理する暦師の親族が、その土地の管理権を得たのですか」
「正当な競売によるものだ」
「競売を認めた土地記録は、誰が作成しましたか」
「私だ」
鐘楼前の空気が変わった。
住民たちの視線が、ヴァランへ集まる。
春が来ていない。
だから共同林の所有権は更新されていない。
冬季保留地なので、管理者が必要である。
その記録を作った暦師の兄が、森を安く買い取った。
「あなたはネーヴァに春が来ていないと記録した」
ノアは確認する。
「鐘が鳴っていないからな」
「川の水位は?」
「報告なし」
「白鐘花の開花は?」
「報告なし」
「春蒔きの短麦は?」
「冬越し麦として記録されている」
「トトさんの出生は?」
「雪月最終日」
「中央の役人が鐘を鳴らすことを止めた事実は?」
「記録にない」
ヴァランの返答は一貫していた。
中央へ届いた記録だけを正しいとし、それ以外は存在しないものとして扱う。
「では、今日ここで確認してください」
ノアは長机へ物証を並べた。
押し花。
水位柱の写し。
春の斧。
種袋。
産婆の証言。
「十三年前の芽解け月一日、ネーヴァでは春の条件がそろっていました」
「地方住民の記憶と、出所不明の物品だ」
「七人が別々に証言しました」
「集団で口裏を合わせた可能性がある」
「証言の内容には違いがあります」
「違うなら、なおさら不確かだ」
同じなら口裏合わせ。
違えば不正確。
どちらでも退けられる。
「確認する気がないのね」
ミラが言った。
「私は中央の基準に従っている」
「違うわ」
ミラはヴァランの指にある青石を見た。
「自分に都合のいい答えだけを、中央の基準と呼んでる」
「パン屋に暦務の何が分かる」
「パンなら分かるわ」
ミラは印を押した丸パンを一つ、長机へ置いた。
「窯に入れた時刻を書き忘れても、焼けたかどうかは見れば分かる。焦げて、硬くなって、煙が出てるパンを、生地のままだと言い張る人はいない」
「食べ物と国暦を同列にするな」
「同じよ。目の前で起きたことを、帳面にないからって消してる」
ヴァランがパンを払いのけようとする。
トトが先に抱き上げた。
「これは春の日のパンだ」
「食べ物は記録にならない」
「でも俺は覚えてる」
「子どもの記憶に法的価値はない」
「俺は門番だ」
「正式な任命記録がない」
「父さんが死んだ日も消したからだろ!」
トトの声が広場へ響いた。
ヴァランは少年を見ず、ダレスへ向き直る。
「これ以上の確認は不要です。地方住民が不正な記録を共有し、中央暦へ干渉している。すべて接収してください」
ダレスはすぐには命じなかった。
「ノア・アルデン」
「はい」
「お前が復元した春の日は、一つか」
「十三年前の芽解け月一日です」
「現在の日付へ接続したのは?」
「失われていた一日を戻した結果です。途中の年月は、季節記録、出生、死亡、収穫、建物の補修履歴から照合しました」
「すべて確認したのか」
「すべての出来事を個別には確認していません」
ヴァランが勝ち誇ったように口元を上げる。
「ならば現在日付も不正だ」
「現在まで十三年が経過したことは確認できます」
「一日単位の連続性がない」
「それを失わせたのは、中央です」
ノアは零番庫で写した台帳を取り出した。
――第十三観測日そのものを各都市暦から除外。
――除外後は第十二日から第十四日へ接続し、住民の記憶減衰を待つ。
「中央暦院が一日を切り取ったため、ネーヴァの連続記録は壊れました」
「偽造だ」
ヴァランは即座に言った。
「地下施設から得た台帳です」
「存在しない施設だ」
「あなたは確認したのですか」
「中央の施設一覧にない」
「一覧から消された施設です」
「消された施設があったと、どう証明する」
ノアは答えず、レグナートを見た。
監察官が自分の鞄から、同じ台帳の写しを出す。
「私が証人になる」
ヴァランの顔が初めて強張った。
「監察官まで地方の捏造に加担するのか」
「零番庫を確認した。原本には旧院長と現院長の承認印がある」
「監察官一人の証言では――」
「護衛二名も同行した」
ハウルが記名札を掲げる。
ここにはいないセインの証言札も、レグナートが保管していた。
「中央の人間三名。地方暦務官一名。住民一名が同じ施設へ入った」
「住民とは?」
「私よ」
ミラが母エレナの紙片を長机へ置いた。
「十三年前に収容された人の娘。地下で母の筆跡を見つけた」
ダレスが紙片を読む。
――七つの町は、互いの日付を証言できる。
――一つの町だけでは、中央に記録を奪われる。
――七つすべてを見つけなさい。
「筆跡の鑑定は?」
「エルデに原本があります」
ノアが答えた。
「中央へ提出されていない証拠ばかりだ」
ヴァランが苛立った声を上げる。
「提出すれば、あなたが処理するのですか」
「地方暦の管理者だから当然だ」
「では提出できません」
「何だと?」
「あなたには利害関係があります」
ノアはエルツ森林商会の紋章を指した。
「ネーヴァに春が来れば、あなたの兄が得た森林管理権は再審査される。あなた自身が作った冬季記録の正当性も問われる」
「侮辱する気か」
「記録審査から外れるべきだと言っています」
「地方の三等暦務官が、上級暦師へ命令するな!」
「命令ではありません」
レグナートが割って入った。
「監察判断だ」
ヴァランが振り返る。
「何?」
「上級暦師ヴァラン・エルツには、ネーヴァ地方暦と森林管理権に直接の利害関係が認められる。審査の中立性が確保できない」
「お前に私を外す権限はない!」
「仮の忌避勧告を出す権限はある。最終判断まで、お前は証拠へ触れるな」
「ダレス執行部長!」
ヴァランが助けを求める。
ダレスは弟とノアを順に見た。
それから、命令書の封を切る。
「原本を確認する」
羊皮紙が長机へ広げられた。
緊急暦務令第七十三号。
雪境都市ネーヴァで不正に作成された春季記録を接収し、中央暦との競合が確認された場合は破棄する。
「すぐに破棄せよ、とは書かれていない」
レグナートが言った。
「競合の確認後だ」
「春待ちの日と、復元された芽解け月一日が競合している」
ダレスが答える。
「どちらが不正かを審査する者は?」
原本の末尾に、担当暦師の名が記されていた。
ヴァラン・エルツ。
町の全員が、その名を見る。
「命令の執行前提となる審査を、利害関係者が担当している」
レグナートは兄を見た。
「不備だ」
ダレスは黙り込んだ。
ヴァランが羊皮紙を奪おうと手を伸ばす。
「些細な手続きだ! 現地で私が正当性を確認すれば――」
その指が命令書へ触れる前に、暦墨で書かれた担当者名が滲んだ。
ヴァランの名だけが、黒い液となって紙の上を流れる。
続いて、春待ちの日を正しいとする審査印にも亀裂が入った。
「何をした!」
ヴァランが叫ぶ。
「何もしていません」
ノアは命令書を見つめた。
偽りの日付は、出来事、証人、物的記録がそろわなければ定着しない。
ヴァランの作った暦は、中央の力で十三年間保たれていた。
だが今、町には春を証言する人々がいる。
川がある。
花がある。
鐘が鳴った。
そして偽暦を作った本人が、利益を得ていた事実まで明らかになった。
命令書の中央印が、乾いた音を立てて割れた。
「執行不能だ」
ダレスが告げた。
「命令の前提となる審査記録に重大な疑義がある。再審査まで、春季記録の接収を停止する」
住民たちの間から、抑えていた息が一斉に漏れた。
歓声は上がらない。
まだ中央が春を認めたわけではない。
だが少なくとも今日、目の前で奪われることはなくなった。
「部隊を撤収させるのですか」
ノアが尋ねる。
「命令にある接収は行わない」
ダレスは荷車を振り返る。
「ただし、違法伐採の調査は別件だ」
バルクが斧へ手を伸ばしかける。
「緊急使用記録があります」
トトが先に木札の束を掲げた。
「何本拾って、誰に渡して、何に使ったか、全部書いた」
ダレスは少年から札を受け取った。
生木の伐採なし。
倒木二十三束。
療養所、共同炊事場、独居老人宅へ配布。
確認者の署名。
「中央の命令が出た時刻もあります」
ノアは二通目の緊急通達を添えた。
違法伐採を確認したという命令は、住民が森へ入るより前に発行されている。
ダレスの眉が動く。
「これは誰が起案した」
「ヴァラン上級暦師の管理所です」
レグナートが通達番号を確認した。
全員の視線が、再びヴァランへ集まる。
「予測しただけだ」
ヴァランは後退した。
「燃料が足りなければ、住民が森を盗むことは分かっていた」
「ならば、燃料不足を知っていたのですね」
ノアが言う。
「森林管理報告では、十分な配給が行われていることになっている」
「それは商会の報告だ!」
「あなたは先ほど、その報告を基に地方暦を作ったと言いました」
ヴァランの口が閉じる。
配給が届いているなら、住民が森へ入る理由を予測できない。
燃料不足を知っていたなら、管理報告が虚偽だと知っていたことになる。
どちらを選んでも、彼の暦は正しくない。
「ヴァラン・エルツ」
ダレスが呼んだ。
「森林管理報告の虚偽記載、および利害関係を秘した暦審査の疑いで、中央暦院へ同行してもらう」
「私を拘束するのか!」
「調査のためだ」
「地方住民の戯言を信じて!」
「信じたのではない」
ダレスは割れた命令書を畳んだ。
「お前の記録同士が矛盾している」
ヴァランの両手へ、鉄帯が掛けられる。
町の人々は罵声を浴びせなかった。
ただ、その姿を見ていた。
自分たちの春を奪った暦師が、初めて自分の名前で記録される瞬間を。
執行部隊が町を出る前、ダレスはノアへ一枚の封書を渡した。
「ヴァランの荷から見つかった」
「宛先は?」
「現中央暦院長」
封には、十三年前の印がある。
表には、こう記されていた。
――七都市の土地処理に関する完了報告。
――空白化した日付を利用し、旧所有者からの移転を完了。
差出人欄の署名を見て、ノアの呼吸が止まる。
その名は、幼い頃から一度も記録で見たことがないものだった。
エドガー・アルデン。
ノアと同じ姓を持つ、中央暦院の暦師だった。




