第23話 次の日を知らない町
「次の日は、来ています」
ノアが答えると、門の少年は泣きそうな顔で首を振った。
「来てないよ。今日も春待ちの日だ」
門の内側に吊るされた暦板には、確かに同じ日付が並んでいた。
王暦六百十三年、雪月最終日。
春待ちの日。
四千七百四十八回目。
昨日も、その前も、十三年前からずっと同じ日。
だが、町の人々が同じ一日を繰り返しているわけではない。
少年の外套は擦り切れ、門柱には年輪の違う補修材が重ねられている。屋根の雪も、何年分も積もっているはずがなかった。
時間は進んでいる。
日付だけが先へ進めないのだ。
「君の名前は?」
「トト」
「この町の門番ですか」
「見張りだけ。門番だった父さんは、前の春待ちの日に死んだ」
「それは、何回目の春待ちの日です」
「分からない」
トトは暦板を見上げた。
「父さんが死んだあとにも、春待ちの日はいっぱいあったから」
死んだ日が、同じ名前の日々に埋もれている。
ノアは旅鞄から聞取帳を取り出した。
「町の代表者へ会わせてください」
「町長は、春になったら選び直すって決めてた」
「今は?」
「ずっと同じ町長」
トトは門の閂へ手をかけた。
「でも、寝てないよ。ここの町長は」
「比較されると、エルデの町長が気の毒ね」
ミラが小声で言った。
「本人は気にしないでしょう」
「寝てるものね」
門が開く。
雪を踏んで町へ入った瞬間、チクタがミラの肩掛け鞄から顔を出した。
背中の砂時計模様が、上半分だけ白く曇っている。
「寒いの?」
ミラが手で包もうとすると、チクタは首を振り、町の奥を指すように前足を伸ばした。
そこには、円形の広場と大きな鐘楼があった。
鐘楼の下には薪が積まれている。
ただし、その量は驚くほど少ない。
「手紙にあった燃料庫ですか」
レグナートが尋ねる。
トトは頷いた。
「最後の共同薪。鐘楼と療養所に使う分」
「各家庭の薪は?」
「もうほとんどない。家具を燃やしてる家もある」
道沿いの家を見ると、扉の外された戸口や、椅子の脚だけが積まれた軒先があった。
寒さをしのぐため、暮らしそのものを少しずつ薪へ変えている。
広場へ着く前に、女の怒鳴り声が聞こえた。
「昨日も一束渡したでしょう!」
「昨日じゃない! 前の春待ちの日だ!」
「全部、春待ちの日よ!」
燃料庫の前で、二人の女性が薪束をつかみ合っていた。
一人は管理人らしく、腰から鍵を下げている。
もう一人は幼い子どもを背負っていた。子どもの頬は赤く、苦しそうに息をしている。
「この子が熱を出してるの!」
「だから昨日渡したの!」
「燃やし切ったわよ!」
「一晩で一束も?」
「夜が二回来た!」
「そんな証拠、どこにあるの!」
ノアは二人の間に入った。
「子どもを先に暖かい場所へ」
「誰よ、あんた」
「エルデの暦務官です」
「中央の人?」
薪の管理人が警戒した。
「王都暦局です」
「同じでしょ。春を連れてこなかった人たち」
言い返す前に、ミラが母親から子どもを抱き取った。
「療養所はどこ?」
トトが広場の奥を指す。
ミラとハウルが子どもを運び、レグナートは護衛用の毛布を母親へ渡した。
「薪は一束必要です」
ノアが言うと、管理人は鍵を握り締めた。
「簡単に言わないで。療養所の分を出したら、鐘楼の火が消える」
「鐘楼の火は何のために?」
「春を迎える鐘を凍らせないため」
女は鐘楼を見上げた。
「この町では、春待ちの日の次の朝、鐘を鳴らすはずだった。鐘が鳴れば雪解けの日になる」
「今まで、一度も鳴らしていないのですか」
「鳴らせないのよ」
「なぜ?」
「次の日じゃないから」
町の人々は、春が来なかったから同じ日付を使っているのではない。
同じ日付のままだから、春を迎える鐘を鳴らせない。
季節が暦に従うのではない。
だが中央の制度は、鐘が鳴らない限り、ネーヴァを冬季閉鎖の町として扱い続ける。
道は修理されず、春の配給も来ず、燃料を運ぶ商隊も入れない。
「まず、薪を渡してください」
ノアは管理人へ言った。
「記録できない」
「今から作ります」
「今日の日付しか書けないわ」
「日付だけで管理しません」
ノアは鞄から細長い木札を取り出した。
片面へ、薪束の絵を一つ。
その下へ、療養所の印を刻む。
「薪を渡したとき、薪棚に残っている束の数と、受け取る人の名を書きます」
「明日も同じ日付なのに?」
「次に受け取るとき、前の札と残数を照合します」
「夜を数えなくていいの?」
「夜も数えます。ただし、今日という名前だけに頼らない」
ノアは小さな穴を二つ開けた。
「火を入れてから、夜を越すたびに一つ結び目を作ります。二度夜を越えたなら、結び目は二つ」
母親が、濡れた外套の紐を差し出した。
「本当に二つある」
紐には、固い結び目が二つ作られている。
「この子が咳をするたび、次の朝まで持てって結んだの」
管理人は結び目を指で確かめた。
嘘を疑っていた顔に、迷いが浮かぶ。
「昨日渡したと思ってた」
「間違いではありません」
ノアは答えた。
「この町では、どの夜の前も春待ちの日です。あなたの記憶の中で、二度の受け渡しが同じ日に重なっていた」
管理人は鍵を開けた。
薪束を一つ取り出し、母親へ渡す。
「次は、この札を持ってきて」
「分かった」
「子どもがよくなったら、残った薪を返して」
「残らなかったら?」
「空の札を持ってきて。使い切った理由を書く」
争いは消えなかった。
薪が足りない事実も変わらない。
けれど、誰かが二重に受け取ったと疑われる理由は一つ減った。
療養所では、ミラが子どもへ湯を飲ませていた。
セラから預かった薬包を開き、寝床の横へ服用札を置く。
「薬も、今日一回じゃ分からなくなるわね」
「眠りから起きて食事をしたあと。体を拭いて寝床へ戻る前。出来事と組み合わせましょう」
ノアが札を書く。
レグナートは療養所の窓を調べていた。
「隙間が大きい。薪を増やしても、熱が逃げる」
「窓を塞ぐ木も、燃やしたの」
療養所の女主人が答える。
「布は?」
「患者の毛布に使ってる」
ミラが旅の荷から予備の防水布を出した。
「帰りに困りますよ」
ノアが言う。
「子どもが今困ってる」
「ですが」
「帰る前に返してもらう日を決めればいいでしょう」
ノアは口を閉じた。
自分の言葉を使われている。
防水布を窓へ張ると、冷気は目に見えて弱まった。
薪へ火をつけ、子どもの震えが治まるまで、ミラは寝台の横を離れなかった。
その間に、ノアとレグナートは町長へ会った。
町長は鐘楼の管理室にいた。
六十代ほどの痩せた女性で、名をエッダという。
机の上には、同じ日付を記した帳簿が何十冊も積まれていた。
「エルデからの手紙は読んだ」
エッダは七都市の写しへ目を落とした。
「でも、この町に次の日は作れない」
「作るのではありません。失われた日を探します」
「同じよ」
「違います」
ノアは窓の外の鐘を見た。
「存在しなかった春を作ることはできません。しかし、春を迎えた証拠があるなら、その日を復元できます」
「証拠はない」
「雪解けは一度も?」
「毎年、少しは解ける」
「花は?」
「咲く」
「作物は?」
「短い夏に育てる」
「では、自然の春は来ています」
「暦の春じゃない」
エッダの声が低くなる。
「十三年前、春待ちの日の夜に中央の役人が来た。翌朝、鐘を鳴らすなと言われた。春の日を登録すれば、町の土地が旧所有者へ戻るからだと」
「旧所有者とは?」
「私たちよ」
町長は一冊の帳簿を開いた。
山林。
炭焼き場。
雪解け水を使う畑。
春の日を迎えるたび、町の共同所有権が更新される仕組みだった。
だが春が来なければ、更新期限を迎えない。
中央は「所有者不在の冬季保留地」として、森の伐採権を別の商会へ移していた。
「森を取られたから、薪がないのですか」
レグナートが尋ねる。
「町の者が木を切れば、中央の土地を盗んだことになる」
「違法な処理だ」
「でも印がある」
エッダは中央の許可証を見せた。
「あなたたちの印よ」
レグナートは紙を受け取り、顔を強張らせた。
現院長の署名。
ネーヴァの春季未到来を理由とした、森林管理権の移譲。
「この許可は毎年更新されています」
ノアが紙の日付を見た。
「毎年?」
「中央では年が進んでるもの」
町長は笑わなかった。
「私たちだけが、同じ日で待たされてる」
日が暮れると、ネーヴァの人々は鐘楼の火の周りへ集まった。
春を迎えるためではない。
凍死しないためだった。
ノアは燃料庫の前へ、受取札の箱を設置した。
薪を受け取った家。
用途。
残数。
夜を越えた回数。
字の書けない者には、トトが絵を描く。
「俺、字は少し読める」
少年は薪束の横へ、家族の人数を数字で書いた。
「父さんが教えた」
「お父様が亡くなったのは、いつですか」
「春待ちの日」
「何があった日か、覚えていますか」
「最初の白い花が咲いた日」
ノアの筆が止まった。
「花は、どこに?」
「町の外。鐘が鳴るはずだった朝に、父さんが持ってきた」
「残っていますか」
「押し花にした。父さんの帳面に」
死んだ門番は、春が来た証拠を残していた。
トトは鐘楼の小部屋から、古い帳面を持ってきた。
頁の間には、白い六弁の花が挟まれている。
その横に、父親の字で記されていた。
――雪解け川、開く。
――渡り鳥、三羽確認。
――白鐘花、開花。
空。
植物。
動物。
エルデで作った季節観測と、同じ三つの印だった。
「この日、春の条件はそろっていた」
ノアが言う。
「では、次の日にできる?」
トトが期待を込めて尋ねた。
「これだけでは足りません」
少年の顔が曇る。
「ですが、最初の証拠です」
町長エッダは、押し花へ触れずに見つめた。
「ほかにも見た人がいる」
「証人を集めてください」
「十三年前よ。覚えてない人も多い」
「覚えている部分だけで構いません。相談せず、別々に話してもらいます」
「物は?」
「春の日に使う鐘。雪解け川の水位柱。畑の種蒔き札。残っているものを探します」
ノアは聞取帳の新しい頁を開いた。
同じ日付を四千七百四十八回重ねた町。
その下には、確かに次の日へ続く痕跡がある。
翌朝――ネーヴァでは、また春待ちの日と呼ばれる朝。
トトは町中を走り、十三年前の白い花を見た者を集め始めた。
最初に鐘楼へ来たのは、片腕の炭焼きだった。
男は古い薪割り斧を持ち、ノアの前へ置く。
「春の日に、最初の木を切るための斧だ」
刃には、中央暦院の封印が打ち込まれていた。
「鐘が鳴らなかった朝、役人に取り上げられた。昨日、燃料庫の床下から見つかった」
封印の裏には、小さな文字が刻まれている。
――春季所有権の更新を阻止するまで、使用禁止。
春が来なかったのではない。
春が来たことを、町に認めさせなかったのだ。




