第22話 町を留守にするための暦
旅立ちの朝を決めた途端、パン屋の仕事が三倍に増えた。
「ミラ、塩はどこ?」
「いつもの棚!」
「いつもの棚が三つある!」
「粉の隣よ!」
「粉も三種類あるよ!」
厨房から、リノとカイの声が交互に飛んでくる。
ミラは旅用の外套を広げたまま、額を押さえた。
「やっぱり私、行かない方がいいかしら」
「昨日は、長く任せる練習だと」
ノアが言うと、ミラは鋭く睨んだ。
「練習で店を燃やされたら困るの」
「燃やさないよ!」
厨房からリノが叫ぶ。
直後、金属の器が落ちる音がした。
「たぶん!」
「今の一言で不安が増しましたね」
「あなたは黙って荷造りして」
ネーヴァへ向かうのは、ノア、ミラ、レグナートの三人。
それに暦獣のチクタ。
護衛として、レグナートの部下であるハウルが同行する。もう一人のセインは、エルデに残って中央との連絡と地下扉の警戒を担当することになった。
北の雪境都市まで、旧観測路を使って六日から八日。
雪が深ければ、さらにかかる。
パン屋をそれだけ空けたことは、ミラにも一度もなかった。
「毎朝焼くパンは三種類」
ミラは大きな板へ絵を描いていた。
丸いパン。
細長いパン。
固い保存パン。
「丸は朝売る分。細いのは工房や畑へ持っていく分。固いのは旅人と備蓄。粉の量は、この匙で――」
「文字で書けば?」
カイが炭を持ち上げる。
「読めない人も手伝うでしょう」
「じゃあ、絵と字を両方書く」
カイは丸パンの横へ、覚えたばかりの文字を慎重に添えた。
朝。
その下には、オルガが作った数字の焼き印で個数を入れる。
「これなら、俺も読める」
手伝いに来たガスが頷いた。
「ガス爺は焼かないで。売るだけ」
「パンくらい焼ける」
「前に焼いたの、皿みたいに硬かった」
「歯を鍛えるパンだ」
「食べ物に鍛錬を求めないで」
長く留守にするためには、誰か一人へ仕事を押しつけるだけでは足りない。
仕込み。
窯。
販売。
配達。
粉と薪の補充。
仕事を分け、それぞれを別の人が引き受ける。
窯はミラから習った宿屋の女将。
販売はガスと野菜売りの老女。
配達は学び期の子どもたち。
仕込みはリノが手伝うが、粉の重い袋はカイとオルガが運ぶ。
「問題が起きたら、誰が決めるの?」
リノが尋ねた。
「パンのことなら女将さん。お金のことならオルガ。材料が足りないなら市場の管理役」
ミラが三つの印を板へ描く。
「一人ですべて決めないの?」
「私だって、全部正しく決められるわけじゃないから」
「前は全部一人でやってたよ」
「だから休めなかったのよ」
ミラはそう言って、少し気まずそうにノアを見た。
川辺へ連れ出された日から、まだそれほど経っていない。
だが、自分がいなければ何も回らないと思っていた彼女が、今は仕事を他人へ渡そうとしている。
「戻ったら、店が乗っ取られてるかも」
オルガが言った。
「そのときは工房をパン屋にするわ」
「炉で焼けば早いぞ」
「全部炭になるでしょう」
軽口を交わしながら、引継ぎ札が一枚ずつ壁へ掛けられた。
店の仕事だけではない。
ノアにも、留守中に渡さなければならない仕事がある。
市場日の記録は、学び期を終えた者が交代で書く。
勤務札の争いは、オルガとセラが双方の話を聞く。
季節観測板は、三地区の観測役がこれまで通り更新する。
葬送や出生など、暦師でなければ正式に日付を定められない出来事が起きた場合は、証言と物だけを保存し、ノアの帰還を待つ。
「待っている間に、記憶が薄れたら?」
羊飼いの男が尋ねた。
「その日のうちに、見たことを別々の札へ書いてください」
ノアは証言箱を用意した。
証人同士で相談せず、一人ずつ記録する。
字が書けない者は、学び期の書き手へ話す。ただし書き手は内容を変えず、疑問があれば別欄へ記す。
「私がいないからといって、出来事がなかったことにはなりません」
「帰ってから、日を決めるの?」
「必要な三つがそろっていれば」
出来事。
証人。
物的記録。
暦師が町を作るのではない。
町の人々が記録を守ってこそ、暦師は日付を定められる。
広場の片隅では、レグナートも書記官へ指示を出していた。
「中央から追加命令が届いても、即座に記録を接収するな。命令番号、作成年、起案者を確認しろ」
「監察官の不在中に、緊急命令が来た場合は?」
「住民の生命へ直接関わるもの以外は保留だ」
「院長命令でも?」
書記官の問いに、レグナートは一瞬だけ黙った。
「院長命令だからこそ、確認する」
以前の彼なら、まず従っていただろう。
偽造されたエレナの署名。
十三年前に用意された白紙命令書。
七都市を消した地下台帳。
中央の印があることは、もはや正しさの証明にならない。
「あなたも変わりましたね」
ノアが言うと、レグナートは顔をしかめた。
「規則の意味を確かめているだけだ」
「町で決めていいことを覚えたんだよ」
リノが言った。
「その言い方はやめろと言ったはずだ」
旅程札は、町の長机で作られた。
出発日は国暦とエルデ暦の両方で記す。
目的地は雪境都市ネーヴァ。
往路の目印は、北橋、凍らない泉、三つ石の峠、旧観測塔。
帰還予定は、三回目の七つ鐘まで。
「ネーヴァで春の日を調べるなら、それより遅くなるかもしれません」
ミラが言う。
「予定を過ぎそうなら、観測塔へ伝言を残します」
「誰が取りに行くの?」
「最初の七つ鐘を過ぎたら、ユアンとヨルクが途中まで確認に向かいます」
ラウゼンから戻ったばかりのユアンが腕を組む。
「俺の帰る日を待ったんだ。今度は俺が確かめる」
「山までは行かない約束よ」
ネーネがヨルクを睨む。
「泉までだ」
「橋が壊れてたら?」
「そこで戻る」
「勝手に先へ行ったら?」
「旅程札に書いてないことはしない」
帰還を待つ者にも、無理をさせない。
探しに行った人まで帰れなくなれば、待つ家が増えるだけだ。
リノが四人分の旅程札を並べた。
最後に、チクタの札も置く。
名前の横には、砂時計模様と丸い耳。
「暦獣にも札が必要ですか」
ノアが尋ねる。
「チクタが何しに行ったか忘れたら困る」
「本人は字を読めません」
「私たちが読む」
チクタは札へ前足を置き、小さな泥の跡を残した。
「本人の印も入りましたね」
レグナートが真顔で言った。
ノアは札を受け取った。
目的。
季節の異常を知らせるため。
それで十分だった。
出発前の夕方、町の大時計が七つ鳴った。
住民たちは失われた人の名を読み、休めなかった者の次の休みを決める。
そのあと、旅立つ四人を長机へ呼んだ。
「見送りの祭り?」
リノが尋ねる。
「祭りではない」
ノアは答えた。
「行く人の顔と目的を、町の人が確認する場です」
「難しい名前にしたね」
「名前はまだありません」
「じゃあ、行ってらっしゃいの日」
「そのままですね」
だが、誰も反対しなかった。
ガスは小さな陶器の鈴をミラへ渡した。
「雪で離れたら鳴らせ」
セラは薬包をレグナートへ押しつける。
「寒さで指が動かなくなる前に飲みな」
「薬の回数は」
「一日二回」
セラは少し考え、言い直した。
「朝、起きて食べたあと。眠る場所を決めて食べたあと。日が分からなくなっても二回だ」
オルガはノアへ細い鉄筆を渡した。
「凍った木札にも書ける」
「代金は」
「帰ってから働いて返せ」
「私は鍛冶仕事ができません」
「じゃあ、工房の勤務日を整理しろ」
「承知しました」
旅に出る前から、帰ったあとの仕事が一つできた。
それは不思議と、安心できる約束だった。
最後にリノが、四人へ小さな丸パンを渡した。
一つずつ、表面の切れ目が違う。
ノアには三本。
ミラには二本。
レグナートには四角。
ハウルには斜めの十字。
「誰のか分かるようにしたの」
「チクタの分は?」
「同じ袋に入れると食べるから、私が持ってる」
チクタが抗議するように鳴いた。
「帰ってきたら渡す」
「それでは旅の食料になりません」
「帰ってくる理由だよ」
リノはノアへ向き直った。
「名前、言って」
「ノア・アルデン」
「何しに行くの?」
「ネーヴァが春を迎えられない理由を調べます」
「帰ろうとする日は?」
「三回目の七つ鐘まで」
「遅れたら?」
「手紙を出します」
「忘れたら?」
ノアは首から記名札を下げた。
「これを読みます」
リノは頷いた。
翌朝、北門が開いた。
エルデの人々が見送る中、四人と一匹は旧観測路へ出る。
冬の始まりを示す白い息が、道の上へ流れていった。
三日目、凍らない泉へ到着した。
五日目、三つ石の峠を越えた。
六日目の朝。
森を抜けた一行の前に、雪に埋もれた町が現れた。
屋根も、畑も、城壁も白い。
だが異様なのは積雪ではなかった。
町の入口に立つ大きな暦板には、同じ日付が何百回も刻まれている。
王暦六百十三年、雪月最終日。
春待ちの日。
その下へ、新しい文字で書き足されていた。
四千七百四十八回目。
門の内側から、痩せた少年が一行を見つめた。
「春を知ってる人?」
少年は震える手で、閉ざされた門へ触れた。
「だったら教えて。次の日って、本当に来るの?」




