第19話 届かなかった手紙の宛先
ラウゼンから届かなかった手紙は、全部で百四十三通あった。
もちろん、今すぐエルデにあるわけではない。
ヨルクが覚えていた郵便所の棚と、おおよその数だ。
「百四十三って、ちゃんと数えたの?」
リノが尋ねる。
「待ってる間に暇だったからな」
「私より字が読めないのに?」
「封筒の数くらい分かる」
「十より大きい数字、読める?」
「そこは郵便所の婆さんに聞いた」
パン屋の奥では、ノア、レグナート、ユアン、ミラが卓を囲んでいた。
中央には、ヨルクが記憶を頼りに描いたラウゼンの地図。
その横に、七つの点を結んだ古い観測網の写しがある。
「手紙は、すべて中央暦院宛てだったのですか」
ノアが尋ねた。
「中央宛てもあったし、家族宛てもあった。だが、外へ出せなかった」
「なぜ?」
「宛先の町が存在しないからだ」
ヨルクは乾燥林檎を一枚、指先で折った。
「郵便所の帳面じゃ、ラウゼンから出る手紙は差出地不明になる。エルデへ送ろうとしても、宛先不明だ。隣の町を経由させようとしても、そこも地図にない」
「どこにもない町同士なら、直接届ければいいのに」
リノが言った。
「街道がつながっていない」
ヨルクは地図へ指を置いた。
「昔は観測路ってのがあったらしい。町同士で季節の記録を運ぶ道だ。だが橋は落ち、道標は削られ、案内人もいなくなった」
「中央の道路台帳から消された結果です」
レグナートが低い声で言った。
「公的な道として存在しなければ、橋の修理予算も、郵便馬車も、巡回兵も来ない」
「町を地図から消すだけで、道まで消えるのね」
ミラが呟いた。
「道そのものは残ります」
ノアは答えた。
「ただ、直す日も、使う人も、帰りを待つ仕組みも失われる」
ヨルクが持ち帰った手紙は一通もない。
郵便所の管理人が、外へ持ち出すことを拒んだからだ。
「勝手に運んで、途中でなくしたら困るってさ」
「正しい判断です」
ノアが言うと、ヨルクは嫌そうな顔をした。
「持ってくれば証拠になっただろ」
「差出人の許可なく運べば、内容を盗んだことになります」
「役人は面倒だな」
「よく言われます」
手紙をエルデへ届けるには、まずラウゼンへ使者を送らなければならない。
だが冬が近い。
西の橋は壊れ、北の山道は雪が降れば閉ざされる。
「次の春まで待つしかない?」
リノの声が沈んだ。
「手紙の内容によっては、待てないものもあります」
ノアは帰還札を見た。
帰る日。
別れの日。
亡くなったことを知らせる日。
読まれないまま季節を越せば、間に合わなくなる手紙もある。
「観測路を復元できないか」
ユアンが地図を覗き込んだ。
「俺が北へ種を運ぶ道と、ラウゼンへ入る山道は途中まで同じだ」
「雪が来る前に往復できますか」
「馬なら六日。荷車なら十日以上」
「手紙を運ぶだけなら馬でいい」
レグナートが言った。
「ただし、中央の通行証は発行できない。存在しない町へ向かう旅程を、公文書へ記載できないからだ」
「なら、町の旅程札を使います」
ノアが白い木札を出す。
「公的効力はないぞ」
「帰らなかった場合に、町が捜し始める日は決められます」
「それだけで人を行かせるのか」
「だから、行く本人の意思を確認します」
ユアンは地図を見たまま答えた。
「俺が行く」
「すぐに決めないでください」
「北の道を知ってる。ラウゼンの種も見たい。姉が残した記録に、ほかの町の土地証書があるかもしれない」
「危険です」
「危険だから、帰る日を決めるんだろ」
旅程札を作るだけでは足りない。
冬の山道では、予定通りに戻れない可能性が高い。
途中の休息場所。
持参する食料。
雪で道が閉じた場合の避難先。
手紙を受け取れなかった場合の行動。
一つずつ決める必要がある。
「一人では行かせられません」
ミラが言った。
「誰か道を知ってる人は?」
「ヨルクだな」
ユアンが答える。
皆の視線が、旅から帰ったばかりの男へ集まる。
「嫌だぞ」
ヨルクは即答した。
「この冬は行かないって約束した」
「それは守るべきです」
ノアも頷く。
「では、道順だけ詳しく聞き取ります」
ヨルクは自分が歩いた道を、粉板へ描き始めた。
曲がった橋。
二股の杉。
石を三つ積んだ峠。
冬でも凍らない泉。
正式な道標ではない。
けれど、実際に帰ってきた人の記憶だ。
「この泉から先は、日が変になる」
「日が変になる?」
「朝が長い。山の影で、太陽がいつ昇ったのか分からなくなる。眠って起きても、まだ同じ日のように感じる」
ノアは道程を距離で分けた。
歩いた時間ではなく、馬の足数、川の数、坂の位置で記す。
日付の感覚が乱れる場所では、自然の目印を使った方がよい。
聞き取りが終わる頃、パン屋の外から声が上がった。
「また揉めてる!」
リノが窓へ駆け寄る。
広場には、保存作業で作った塩漬け壺が並べられていた。
受取札を持った住民たちが、誰から配るかで言い争っている。
「畑のない家を先にしろ!」
「野菜を出した家が先だ!」
「作業札の数で決めたんじゃないのか!」
「子ども一人の仕事と、大人一人の仕事が同じ印なのはおかしい!」
共同保存の作業は成功した。
だが、完成した保存食を配る日と順番を決めていなかった。
腐る心配がなくなったことで、誰も急いで受け取らず、逆に都合のよい日に来るようになった。
その結果、壺の管理を任された者だけが毎日対応することになっている。
「私、三回も鍵を開けたんだよ」
野菜売りの老女が腰をさする。
「受け取りに来るなら、同じ日に来ておくれ」
「市場日に配れば?」
誰かが言った。
「市場は売る品でいっぱいだ」
「七日目は?」
「休む人もいる」
「じゃあ、いつだよ」
ノアは染め場の柱に残っていた収穫祭の印を思い出した。
最初の一籠を分ける日。
畑のある者もない者も集まり、保存の始まりを確かめる日。
まだ過去の祭りを完全に復元できるだけの記録はない。
しかし、現在作った保存食を受け取る日なら、新しく決められる。
「収穫の受取日を作りましょう」
ノアは言った。
「また暦?」
住民たちがレグナートを見る。
監察官は少し考えた。
「共同作業で作った物品の配布日だ。私的な管理日として扱うなら、停止命令には抵触しない」
「中央に聞かなくていいの?」
リノが尋ねる。
「町の壺を、町の誰へ渡すかまで中央が決める必要はない」
「分かってきたね」
「何がだ」
「町で決めていいこと」
レグナートは返事をしなかった。
受取日は、市場日の翌日となった。
市場で不足している家を確認し、翌朝に保存食を分ける。
取りに来られない者には、学び期の子どもや休みの者が届ける。
壺を開けるのは一度で済む。
管理役にも、別の日の休みを与える。
「配る順番は?」
オルガが尋ねた。
「町の備蓄分を先に除きます。そのあと、食料の不足している家。次に持ち込み札と作業札を持つ者です」
「子どもの作業札は?」
「大人と同じ一枚です」
「豆を選んだだけでも?」
農家が不満そうに言った。
カイが前へ出た。
「小さい豆を選ばなかったら、腐った豆が壺に入った」
「でも量が違う」
「では、時間ではなく作業の完了で印を分けましょう」
ノアは作業札を見直した。
大鍋一つ分を切る。
棚一列を直す。
豆一籠を選ぶ。
同じ仕事のまとまりを、一印とする。
子どもだから半分。
大人だから二倍。
そう決めるのではなく、実際に終えた仕事を見る。
「次からは、始める前に決めて」
リノが言った。
「今回はあとからだから、また喧嘩した」
「その通りです」
ノアは素直に認めた。
仕組みを作る側が間違えないわけではない。
最初の共同保存では、物を救うことに急ぎ、分配の手順まで決めきれなかった。
「今回は、全員でもう一度話し合います」
最終的に、足りない家へ多めに渡すことへ、持ち込んだ農家たちも同意した。
代わりに、来年は保存作業を始める前に、持ち込み、作業、備蓄の割合を定める。
その約束を受取札の裏へ書き添える。
配られた最初の壺は、夫を亡くしたばかりの一人暮らしの女性へ渡された。
「私は作業してないよ」
「ハロルさんの葬送で、皆に湯を配ってくれたでしょう」
ミラが言った。
「それは、この作業とは関係ない」
「町で暮らすのに、関係ない仕事なんてないわ」
女性は壺を受け取り、蓋へ手を置いた。
「来年は、豆を選ぶよ」
「一籠お願いします」
リノが作業札を渡した。
受取日が決まると、広場の混乱は収まった。
空になった棚の前で、子どもたちが残った根菜を数える。
ミラは最後の一籠で、大きな平焼きパンを作った。
畑の野菜を細かく刻み、生地へ練り込んだものだ。
「収穫祭のパン?」
リノが期待する。
「まだ祭りとは呼ばないわ」
「じゃあ、受け取った日のパン」
「そのままね」
皆で一切れずつ分ける。
ユアンには、旅の食料として二切れ包まれた。
「帰る日は?」
リノが尋ねる。
「出発から七つ鐘を二回。遅くても三回目の七つ鐘まで」
「二週間から三週間ですね」
ノアは旅程札へ、国暦と町の鐘の両方を記した。
帰還予定日を過ぎたら、ヨルクの地図に沿って捜索隊を出す。
ユアンが帰れない場合は、ラウゼンの郵便所へ伝言札を残す。
「何を書けばいい」
「帰れない理由と、次に連絡できる見込みを」
「帰るって約束は?」
リノが聞く。
ユアンは札を見てから答えた。
「帰ろうとする日を書く」
「帰れないかもしれないのに?」
「帰れないときに、誰かが探せるようにな」
旅立つ者だけの約束ではない。
町もまた、待ち、探し、迎える日を引き受ける。
翌朝、北門へ見送りの人々が集まった。
ユアンの馬には、空の郵袋が二つ下げられている。
ラウゼンの人々が望むなら、届かなかった手紙をエルデへ運ぶための袋だ。
「全部は無理だぞ」
「急ぐものを、向こうの人に選んでもらってください」
ノアが言う。
「勝手に中を見るなよ」
「見ない」
「差出人と宛先だけは記録を」
「分かってる。面倒な役人に何度も聞いた」
ユアンは馬へ乗った。
リノが旅程札の写しを掲げる。
「帰る日、忘れないで!」
「忘れたら、探しに来るんだろ」
「うん!」
ユアンが北門を出る。
その姿が道の先へ消えるまで、誰もその場を離れなかった。
帰る日を決めたからではない。
帰らなければ探すと、町全体で決めたからだ。
昼過ぎ、ノアはヨルクから聞き取った地図を清書していた。
ラウゼンへ続く道の途中。
凍らない泉。
三つ石の峠。
古い観測塔。
その観測塔を示す記号が、エルデの古い季節記録にも描かれている。
七都市からの報告を集める中継地点だ。
記録の裏面へ薄い紙を重ねると、削られていた文字が浮き上がった。
――十三日観測報告は、エルデ地下の零番庫へ送付すること。
零番。
ノアに関わる分類番号。
時計塔の真下にある土地。
そして、開きかけた地下扉。
ノアが紙を持って立ち上がると、チクタが激しく鳴いた。
時計塔の方角から、鐘ではない音が響く。
重い鉄が、床を擦る音。
地下扉が、誰も触れていないのに、さらに大きく開き始めていた。




