第18話 帰る日を書いた手紙
宿屋の前で、女が旅人の鞄を投げ捨てた。
「帰ってくるって言ったじゃない!」
鞄の持ち主である男は、泥だらけの外套を着たまま立ち尽くしている。
「帰ってきただろ」
「二年も待たせて?」
「二年?」
男は目を見開いた。
「半年だ。長くても七月だ」
「七月って何よ」
「七つの月を越えたってことだ!」
「この町じゃ、月なんて数えてなかったでしょう!」
宿屋の窓から、客たちが顔を出す。
朝のパンを届けに来たミラは籠を抱えたまま足を止め、リノは道へ転がった革鞄を拾った。
「壊れるよ」
「もう壊れてるわよ!」
女が怒鳴る。
鞄ではなく、別のものを指しているのだろう。
ノアは二人の間へ入る前に、宿屋の主人へ尋ねた。
「お二人は?」
「夫婦だよ。妻がネーネ、夫がヨルク。ヨルクは羊毛を売りに北へ出て、そのまま戻らなかった」
「戻らなかったんじゃない」
ヨルクが声を荒らげる。
「帰る道が分からなくなったんだ」
「道を?」
「町の場所じゃない。帰る日だ」
ヨルクは外套の内側から、ぼろぼろの手紙を取り出した。
紙には何度も折り畳まれた跡があり、端は雨に濡れて滲んでいる。
「北の町で羊毛を売ったあと、次の市が開くまで待った。五日ごとだと言われたからな。だが、エルデへ戻る商隊は十三日目に出るって言う」
ノアの指が止まった。
「十三日目?」
「向こうじゃ普通の言い方だった。十三番目の観測日に南へ出るって」
「町の名前は?」
「ラウゼン。冬林檎を作ってる町だ」
レグナートが、パン屋の入口で足を止めた。
「中央の地図に、その町はない」
「あるぞ。俺はそこで半年働いた」
「国の街道台帳にも登録されていない」
「知らんよ。家も畑も人もいた」
ヨルクは苛立ったように紙を振った。
「商隊へ乗るには、中央の通行札が必要だと言われた。だが役所へ行っても、ラウゼンは存在しないから札は出せないって追い返された」
「では、どうやって戻ったんです」
「山道を歩いた。途中で橋が壊れて、別の町へ回って、そこでもエルデはないって言われた」
「エルデも?」
「地図にないそうだ」
暦外区域。
昨日見つけた言葉が、現実の形を持ち始めていた。
存在しない町から、存在しない町へ帰ろうとした男。
中央の街道制度を使えず、季節と土地の目印だけを頼りに、二年近くさまよっていた。
「二年ってのは、どう数えた」
オルガが尋ねる。
ネーネは宿屋の帳場から、小さな箱を持ってきた。
中には、同じ形の木片が山ほど入っている。
「朝、起きるたびに一枚入れた」
「一日一枚?」
「最初はね。途中で、今日は昨日と同じ朝かもしれないって分からなくなった」
ネーネは木片を握った。
「それでも入れた。帰ってこなかった朝を、何もなかったことにしたくなかったから」
箱には六百枚以上ある。
正確な日数とは限らない。
眠れず二枚入れた夜も、逆に何日も入れ忘れた時期もあるだろう。
それでも、この木片は待っていた時間の物的記録だった。
「俺は、手紙を出した」
ヨルクが紙を広げる。
「ラウゼンの郵便所から、何通も」
「一通も届いてない」
「嘘じゃない!」
「嘘じゃなくても、届いてないの!」
ネーネの声が裏返った。
怒りではない。
帰ってきた喜びを、どこへ置けばよいのか分からない声だった。
「手紙の控えはありますか」
ノアが尋ねる。
「郵便所で、同じ内容を帳面に写した。俺が字を書けないから、役人に頼んだ」
「内容を覚えていますか」
「最初は、冬前に帰るって」
「どの冬です」
「分からない。ラウゼンで林檎の収穫が終わったあとだ」
「次の手紙は?」
「雪解けの商隊で帰る」
「その次は」
「春の市が終わったら」
帰る予定日は、何度も変わっている。
約束を破るつもりではなかった。
けれど、基準となる日付がなく、町と町をつなぐ暦もないため、いつ遅れ、いつ変更したのかを伝えられなかった。
「帰る日を書けば、帰れたの?」
リノが尋ねた。
「日付を書いただけでは帰れません」
ノアは答える。
「でも、帰れないと分かった日と、次に帰ろうとする日を書けば、待つ人は事情を知れます」
「手紙が届けばね」
ミラの言葉が重かった。
まず、ヨルクが本当に手紙を出したのか確認する必要がある。
ラウゼンの郵便所が中央の制度外にあるなら、控えを取り寄せることも難しい。
「ヨルクさん。ラウゼンから持ち帰ったものは?」
「羊毛の代金は道中でほとんど使った。あとはこれだけだ」
鞄から、乾燥した林檎を取り出す。
薄く切られ、輪の形に干されている。
「ネーネが好きだから」
妻は目を逸らした。
「二年前の好物なんて、覚えてない」
「覚えてないのか」
「好きだったわよ」
「今は?」
「知らない。二年も食べてないもの」
ヨルクは乾燥林檎を持ったまま黙り込んだ。
戻ってきたのは、出発したときと同じ家ではない。
待った時間の分だけ、相手も変わる。
帰る日を失うとは、道に迷うだけではなかった。
「ラウゼンの印はありますか」
ユアンが乾燥林檎を裏返した。
表面に何かがあるはずもない。
だが、束ねていた紐の留め具へ、小さな木片がついていた。
林檎を三つ重ねた印。
その下に、十三本の線が刻まれている。
「収穫順を示す札だ」
ユアンが言った。
「北では、林檎を採った籠ごとに順番をつける。十三本なら、第十三収穫籠」
「日付の代わりになるでしょうか」
「収穫開始の日が分かればな」
ヨルクが顔を上げた。
「ラウゼンでは、最初の林檎を採った日に鐘を鳴らす。十三回目の鐘の日に、俺はこの林檎を買った」
「その日に手紙を?」
「出した。収穫が終わったら帰るって」
ネーネが乾燥林檎へ手を伸ばした。
受け取る直前で止まり、代わりに留め具を見た。
「これ、本当に二年前のもの?」
「分からん。道中で冬を二回越したと思う」
「思うだけ?」
「俺だって数えようとした!」
再び声がぶつかる。
ノアは木片の箱と、乾燥林檎の札を並べた。
「今、過去のすべてを正確に定めることはできません」
二人が黙る。
「ヨルクさんが町を出た正確な日。ラウゼンへ着いた日。手紙を出した日。ネーネさんが待った日数。現時点では、証言も記録も足りません」
「じゃあ、何も分からないまま?」
ネーネが尋ねる。
「いいえ。今日、ヨルクさんが帰ったことは分かります」
出来事。
町の住民たちが見ている。
泥のついた外套、壊れた鞄、持ち帰った林檎。
そして、待っていた木片の箱。
「今日を、帰還日として記録できます」
「暦停止命令中だ」
レグナートが言った。
「公的な帰還証明が必要なら、国暦で作成します」
「町の暦は?」
「併記します」
レグナートは一瞬迷ったが、反対しなかった。
エルデの曜日循環は中央暦と一致している。
市場へ来た商人の通行証を基準にすれば、現在の日付を国暦へ照合できる。
停止命令は復元作業を禁じているが、今起きた事実の記録まで禁止してはいない。
ノアは記録札へ書いた。
国暦六百二十六年、眠り月二日。
エルデ第一日。
ヨルク・ハイン、長期不在ののち帰還。
妻ネーネ・ハインおよび町民十二名が確認。
「長期って、どのくらい?」
リノが尋ねる。
「期間未確定、と添えます」
「二年待った」
ネーネが言った。
「正確じゃなくても、私は二年だと思って待った」
ノアは別の欄を作った。
ネーネ・ハインは、六百枚を超える木片を用い、夫の帰還を待った朝を記録した。
正確な期間ではない。
しかし、彼女が待ったという事実を消す理由もない。
「こんなことまで書くのか」
ヨルクが木片の箱を見る。
「帰った人だけでは、帰還の記録になりません」
ノアは答えた。
「待っていた人がいて、初めて帰る場所になります」
ネーネの唇が震えた。
怒鳴っていたときには流さなかった涙が、一滴だけ木片の箱へ落ちる。
「私、怒ってるから」
「分かってる」
「帰ってきたからって、すぐ前みたいには戻れない」
「分かってる」
「本当に?」
「これから分かる」
ヨルクは乾燥林檎を一枚、差し出した。
「今も好きか、食べて確かめてくれ」
ネーネはしばらく見つめ、やがて受け取った。
一口かじる。
固く、少し酸っぱいらしい。眉間に皺が寄る。
「前より酸っぱい」
「ラウゼンじゃ、甘い方だ」
「じゃあ私の好みが変わったのね」
「次は、別のを持って帰る」
「次?」
ネーネの目が鋭くなる。
「また行くつもり?」
「羊毛の取引は必要だ。でも今度は、出る日と帰る日を決める」
「帰れなかったら?」
「次の予定を送る」
「手紙が届かなかったら?」
ヨルクは答えられない。
ノアは新しい木札を二枚用意した。
「旅程札を作りましょう」
出発日。
目的地。
帰還予定日。
予定を過ぎた場合、連絡を出す場所。
連絡が届かない場合、捜索を始める日。
「捜索まで決めるのか」
「帰る本人だけに、すべての責任を負わせないためです」
旅先で橋が落ちることもある。
病気になるかもしれない。
町が地図から消されているなら、通行札を得られないこともある。
帰れないことを裏切りにしないためには、待つ側も、いつ何をするか決めておく必要がある。
「次に出るのは、いつ」
ネーネが尋ねた。
ヨルクは即答せず、彼女の顔を見た。
「少なくとも、この冬は行かない」
「なぜ?」
「お前が今の俺を知るまで、ここにいる」
「私が今も林檎を好きか、確かめるため?」
「それも」
ネーネは乾燥林檎の残りを、半分に割った。
一方をヨルクへ返す。
二人は同じものを食べたが、同時に笑うことはなかった。
それでも、宿屋の前に投げ出された鞄は、ネーネ自身の手で家の中へ運ばれた。
夕方、リノは帰還札の写しを読んでいた。
「帰る日が決まると、家になるの?」
「家があるから、帰る日を決められます」
「どっちが先?」
「どちらも必要です」
「難しいね」
チクタは木片の箱へ入り込み、待っていた朝の札に埋もれて眠っている。
ノアが一枚ずつ数え直そうとすると、ミラが手を止めた。
「全部数えるの?」
「おおよその期間を推定できます」
「今日はやめなさい」
「なぜです」
「帰ってきた日に、待った日だけを数え続けなくてもいいでしょう」
ノアは木片を箱へ戻した。
確かに、正確さが必要になるときは来る。
だが今夜は、帰った人が同じ屋根の下で眠る最初の夜だ。
それを過去の計算で埋める必要はない。
レグナートは、ラウゼンの林檎札を写し取っていた。
「中央の観測番号がある」
「存在しない町なのに?」
留め具の裏には、七つの点を円形につないだ印が刻まれていた。
エルデの染め場で見つけた、七都市の観測網と同じ形だ。
「ラウゼンも、暦外区域の一つです」
ノアは七つの点の一つへ、林檎の印を書き加えた。
中央にエルデ。
北にラウゼン。
残る五つの点は、まだ名前がない。
そのとき、ヨルクが思い出したように口を開いた。
「ラウゼンの郵便所に、宛先不明の手紙が山ほどあった」
「どこからの手紙です?」
「周りの町だ。冬が終わらない町。鐘が一日中鳴ってる鉱山。戦が終わったことを知らない砦」
七つの点のうち、さらに三つへ印が埋まる。
「手紙は、誰宛てでした」
「中央暦院だよ」
ヨルクは乾燥林檎の紐を握った。
「どの町も、自分たちの日付を返してくれって書いてた」




