第15話 返す日を決める契約
フィーの弟は、夜明けとともに北門へ現れた。
背の高い、痩せた男だった。灰色の外套には長旅の泥がこびりつき、片手で古い革鞄を抱えている。
「名はユアン」
門番へそう名乗ったきり、男は誰とも目を合わせようとしなかった。
ノアたちが迎えに行くと、ユアンは真っ先に中央暦院の黒い外套を見つけた。
「話が違う」
踵を返そうとする。
「待ってください」
ノアが呼び止めると、男は肩越しに鋭い視線を向けた。
「中央の人間がいるとは聞いてない」
「私は監察官だ」
レグナートが答えた。
「フィー氏の証言を妨げる目的では――」
「姉はもう死んでる。死んだ人間にまで命令する気か」
ユアンは革鞄を強く抱きしめた。
「十三年前、中央の役人は姉に誓約書を書かせた。あの日に見たものを話せば、家族の土地を取り上げるってな」
「その誓約書は残っていますか」
ノアが尋ねる。
「ある」
ユアンは鞄を軽く叩いた。
「だから持ってきた。でも、渡すとは言ってない」
「何を確認すれば、見せていただけますか」
「信用できるかどうか」
「どうすれば信用できますか」
「それを俺に聞く時点で、役人だな」
ユアンは鼻で笑った。
証言を急がせれば、中央が十三年前にしたことと同じになる。
ノアは一歩下がった。
「宿を用意します。話すかどうかは、そのあと決めてください」
「宿代を払う金はない」
「町から出す必要はありません」
「貸しを作る気か」
「では、仕事と引き換えにする?」
ミラが横から言った。
「北の村で何をしてるの」
「種苗商だ」
「ちょうどいいわ。町で種を巡って揉めてる」
ユアンの眉がわずかに動いた。
その揉め事は、市場広場の端で起きていた。
農家の男が、麻袋を抱えて野菜売りの老女へ怒鳴っている。
「返しただろ!」
「返したのは一袋だけだよ。貸したのは二袋!」
「一袋を二回に分けて借りたんだ!」
「違う。二袋を別々の日に貸した!」
「日がない頃の話を、どう証明するんだ!」
袋の中身は、冬蒔きの根菜の種だった。
老女が春先に男へ種を貸し、収穫後に同じ量を返す約束をしたらしい。
だが、貸した回数も返す期限も記録されていない。
「一袋くらい、また貸せばいいでしょう」
見物人が言った。
老女は首を横に振った。
「今年は種が少ない。これ以上渡したら、うちの畑へ蒔く分がなくなる」
農家の男も引かなかった。
「借りた分は返した。もう一袋出せっていうなら、俺の畑が減る」
どちらかが嘘をついているとは限らない。
一度目の貸し借りと、二度目の貸し借りが混ざった可能性もある。
「種袋に印は?」
ノアが尋ねた。
老女は空の麻袋を二枚持ってきた。
どちらにも、彼女の店で使う三つ葉の印がある。
「二袋とも、俺が借りた証拠にはならない」
男の主張は正しい。
袋が二つあっても、その一つが別の客へ渡された可能性はある。
「貸したとき、誰か見ていましたか」
「最初は孫がいた。次は……セラだったかね」
「私は薬草を買いに来てたよ」
呼ばれたセラが答える。
「種袋を渡してたのは見た。でも、あれが一度目か二度目かまでは知らないね」
出来事と証人はある。
物的記録もある。
しかし、順序が分からない。
ユアンは少し離れた場所から袋を見ていた。
「中を見せろ」
老女が差し出すと、袋の底へ指を入れ、縫い目を確かめる。
「これは同じ時期に作られた袋じゃない」
「何で分かる」
「糸が違う。片方は冬前の麻、もう片方は春に採れた麻だ」
ユアンは袋を裏返した。
「こっちは古い。何度も使ってる。こっちは新しい。種を貸す直前に作ったんじゃないか」
老女が目を見開く。
「そうだ。古い袋が破れたから、孫に縫ってもらった」
「なら新しい袋を渡したのが、あとだ」
農家の男も、袋を見て何かを思い出したらしい。
「二度目は……雨のあとだ。畑の種が流れて、追加で借りた」
「返したのは?」
「古い袋の方だけだ」
男は額を押さえた。
「二回借りた。俺が忘れてた」
老女は勝ち誇らなかった。
代わりに袋を抱え、困ったように男の畑の方を見る。
「でも、今すぐ一袋返したら、あんたも蒔けないね」
「収穫したら必ず返す」
「前もそう言ったよ」
「今度は忘れない」
「忘れないって言葉が一番、信用ならないのさ」
男は反論できず、拳を握った。
ノアは白い木札を二枚取り出した。
「新しい契約を作りましょう」
レグナートが口を挟む。
「暦停止命令中だ」
「過去の契約を復元するのではありません。現在の返済条件を、双方が決め直します」
「期限に地方暦を使えば、公的効力は認められない」
「中央暦を使えばいい」
ユアンが言った。
全員が彼を見る。
「町の曜日が中央とずれてないなら、国暦の日付へ直せるだろ」
「照合用の基準点が不足しています」
ノアは答えた。
「市場へ来た商人の通行証には、中央暦の日付がある」
ユアンは顎で東門を示した。
「そいつが入った日を町の第五日として記録したんじゃないのか」
「はい」
「通行証の日付が正しいなら、そこから数えればいい」
レグナートが通行記録を取り寄せた。
ジークの証書には、国暦六百二十六年、実り月二十八日。
エルデの記録では第五日。
双方を照合すると、町の曜日循環は中央暦と一日もずれていなかった。
「七日目が消えていた期間も、実際の日数は過ぎていた」
ノアは計算結果を確認した。
「住民が六日ごとに数え直していただけで、太陽と月の進みは中央と同じです」
「なら、正式な期限を定められる」
レグナートが言った。
「私的債務契約として、国暦の日付を記載するなら停止命令には触れない」
「中央の日付を使わないと、約束として認められないの?」
リノが不満そうに尋ねる。
「町の約束を否定するわけではない」
「でも、中央の字も読めない人がいるよ」
「だから両方書きます」
ノアは二枚の札の上部へ、国暦の日付を記した。
その隣へ、町で分かる表現を添える。
次の冬蒔きが終わり、最初の収穫を三籠終えた日。
「日にちだけじゃないの?」
農家の男が尋ねる。
「収穫日は天候で変わります。国暦の日付だけを期限にすると、不作でも返さなければならない」
「じゃあ収穫だけで決めればいい」
「今度は、いつまでも収穫できなかったと言えてしまいます」
日付と出来事。
二つを組み合わせる。
国暦の期限までに収穫ができた場合、一袋を返す。
悪天候で収穫できない場合、期限の日に双方と証人が集まり、新しい返済日を決める。
返せないことと、約束を忘れることを同じにしないための契約だった。
「利息は?」
老女が尋ねる。
「種を貸した分、少し増やして返してもらいたい」
「どのくらいですか」
「一袋と、来年の最初の根菜を五本」
農家の男は少し考え、頷いた。
「それでいい」
「無理に同意していませんか」
「借りたままよりいい。返す日が決まってた方が、種を残せる」
ノアは二人へ契約内容を読み上げた。
字が読めない者にも分かるよう、種袋と根菜の絵を添える。
二枚を重ね、同じ位置へ契約印を刻む。
一枚は貸主。
一枚は借主。
証人としてセラとユアンが印を置いた。
「俺も?」
ユアンが怪訝な顔をする。
「袋の時期を見分けた証言者です」
「中央に名前が渡る」
「記録の公開範囲は、契約当事者が決められます」
「隠せるのか」
「中央へ登録するのは契約の存在と期限です。証人の詳しい証言は、争いが起きない限り町で保管します」
レグナートが頷いた。
「国法上も問題ない」
ユアンはしばらく迷い、草の芽を模した自分の商印を押した。
契約札は淡く光った。
暦印ではない。
だが、重ねた二枚の木目が同じ線となり、別の札へ取り替えられないことを示している。
老女と農家の男は、それぞれ一枚ずつ受け取った。
「返す日に、また揉めたら?」
男が尋ねる。
「札を持って、同じ机に座ってください」
ノアは答えた。
「契約とは、破った人を罰する紙だけではありません。事情が変わったとき、もう一度話す日を忘れないためのものです」
老女が男へ、新しい種を半袋渡した。
「全部は貸せないよ」
「これで足りる」
「収穫を腐らせるんじゃないよ」
「最初の五本は、あんたに持ってくる」
「契約は五本だけど、味見してまずかったら受け取らないからね」
二人の間に、小さな笑いが戻った。
ユアンはそれを見届けると、革鞄をノアへ差し出した。
「姉の誓約書だ」
「よいのですか」
「町の人間の約束を、町の人間が読める形で残した。中央の監察官も、勝手に持っていかなかった」
レグナートを見る。
「今のところは、それを信用する」
「感謝する」
「信用したのは半分だけだ」
「十分だ」
パン屋へ戻り、複数の証人が見守る中で革鞄を開いた。
中には中央暦院の誓約書と、フィーが保管していた古い種子帳が入っていた。
誓約書には、十三日について口外しないこと。
青布の子どもの名を記録しないこと。
違反した場合、家族の土地所有権を失うことが記されている。
署名者はフィー。
命令者の欄には、中央暦院長の名があった。
だが、ノアが注目したのは種子帳だった。
種を貸した相手と、返却予定日が何年分も並んでいる。
その最後の頁だけ、土地の面積と所有者名が記されていた。
「姉は種苗商の記録に見せかけて、土地証書の写しを残した」
ユアンが言った。
「中央に燃やされたはずのものだ」
エルデ東部の畑。
北の森。
川沿いの染め場。
すべて、戦争より前から町の住民が所有していたと記されている。
そして一番下には、青い布に包まれた子どもへ譲渡された土地があった。
所有者名は空欄。
代わりに、中央の古い分類番号が書かれている。
零番。
土地の場所は、止まった時計塔の真下だった。




