第14話 十三人目の席
十三年前の学び期に参加した十二人のうち、町に残っているのは九人だった。
最初に訪ねたのは、鍛冶工房のオルガである。
「私が学校に?」
彼女は真っ赤な鉄を金床へ置き、槌を振り上げたまま眉をひそめた。
「学び札には、槌の印とオルガという幼名があります」
「同じ名前の子だろ」
「当時、町に同名の子どもはいなかったと、ガスさんが証言しています」
槌が振り下ろされる。
甲高い音が工房へ響いた。
「覚えてない」
「エレナさんから読み書きを習ったことも?」
「知らない」
もう一度、鉄を打つ。
答えを拒むような音だった。
ノアは工房の入口に立ったまま、オルガの手元を見た。
鉄は細長く延ばされ、先端を曲げられている。何を作っているのか尋ねる前に、見習いのカイが奥から顔を出した。
「文字を作ってるんだ」
「余計なことを言うな」
オルガが低く唸る。
作業台には、鉄で作られた小さな字形が並んでいた。
学び札へ名前を刻むための、組み替え式の焼き印だ。人数が増え、毎回手彫りするノアを見かねて作っていたらしい。
「学校の記憶はなくても、字を教える手伝いはしてくださるんですね」
「これは仕事だ。木札を早く作れれば、勤務札にも使える」
「代金を払います」
「まだ試作品だ」
「完成したら」
「いらん」
「無償の供与は――」
「うるさい役人だな!」
オルガは鉄を水へ突っ込んだ。
蒸気が上がり、彼女の顔を一瞬隠す。
「本当に、何も覚えてない」
蒸気の向こうから、声がした。
「でも、エレナって名前を聞くと、文字を間違えて手を叩かれた気がする」
「叩く方でしたか」
「いや。あの人は叩かない」
オルガは自分の左手を見た。
「間違えた私が、自分で手を叩いた。腹が立ってな」
「何の文字を間違えたか、覚えていますか」
「休む、って字だ」
ノアの筆が止まった。
「私は子どもの頃から工房を手伝ってた。休むなんて、怠け者のすることだと思ってた」
オルガは完成した焼き印を布へ置いた。
「エレナに、休んだ日も札へ書けと言われた。働かなかった日を、どうして残すんだって喧嘩した気がする」
「エレナさんは何と?」
「休んだ日が分からなければ、働きすぎた日も分からない」
今のオルガが、見習いたちの交代休みを作ろうとしている理由。
忘れたはずの教えが、言葉ではなく習慣の底に残っていた。
「学び期の人数は、十三人でしたか」
「知らん」
「ノアという子どもは?」
オルガは首を振った。
だが、槌を持つ手が止まった。
「青い服」
「え?」
「誰かいた。青い服を着た、小さい子」
「男の子ですか」
「分からない。顔も思い出せん」
彼女は苛立ったように頭をかいた。
「その子は、字を書くのが一番うまかった。なのに自分の名前だけ、何度も書き直してた」
「なぜでしょう」
「名前を決めてなかったんじゃないか」
オルガから得られた証言は、そこまでだった。
二人目は門番。
三人目は羊飼いの兄弟の兄。
四人目は宿屋の主人。
同じ学び期に参加していた者を一人ずつ訪ねたが、返ってくる言葉は似ていた。
エレナから何かを教わった気がする。
青い布。
子どもが十三人。
けれど、最後の一人の顔だけが思い出せない。
「まるで、その子の部分だけ切り取られている」
ミラは集めた証言札を卓へ並べた。
パン屋の営業時間が終わったあと、古い学び札の調査に協力してもらっている。
レグナートも、中央へ送る報告を一時中断して同席していた。
「記憶抹消の暦術は存在するの?」
ミラが尋ねる。
「特定の記憶を自由に消す術はない」
レグナートが答えた。
「出来事の日付と、それに結びつく記録を失わせれば、結果として記憶は薄れる。だが、誰か一人だけを狙って消すには、その人物に関する記録を徹底して排除する必要がある」
「それが行われた可能性は?」
「ある」
彼は古い札を持ち上げた。
「この札だけが残ったことの方が不自然だ」
「母が隠したのよ」
「だから残った。中央が見つけていれば、処分されていたはずだ」
ノアは十二人分の証言を、共通点ごとに分けた。
青い服を覚えていた者が四人。
年下の子だったと答えた者が三人。
字がうまかったという証言が二人。
その子が、エレナのそばを離れなかったという者が一人。
「残り三人は、町を出たのね」
ミラが名簿を指で追う。
「一人は亡くなっています。二人は所在不明です」
「死んだ人からは聞けないね」
リノが言った。
教室で使った炭を片づけながら、話を聞いていたらしい。
「亡くなった人自身からは聞けません」
「でも、その人が残したものなら話す?」
「物は話しません。手がかりにはなります」
「同じようなもの」
リノは十二人の名のうち、一つを指した。
草花の印が添えられている。
「この人、誰?」
「薬草売りのセラさんによれば、フィーという女性です。八年前に亡くなりました」
「お墓ある?」
「あるはずです」
「じゃあ行こう」
「もう暗くなります」
「明日?」
ノアは答える前に、暦停止命令を思い出した。
中央から認められていない日付を、調査予定として使ってよいのか。
そんな迷いを察したのか、レグナートがため息をついた。
「個人的な訪問予定まで停止命令の対象にはならない」
「では、次の朝に」
「普通に明日と言え」
「監察官がよいのであれば」
「私が許可する話でもない」
日付を使うたびに、中央の命令が頭をよぎる。
それ自体が、町の暮らしを再び縮こまらせ始めていた。
翌朝、墓地へ向かうと、チクタが真っ先に一つの墓石へ駆けていった。
フィーの墓には、名前だけが刻まれている。
生まれた日も、亡くなった日もない。
墓石の根元には、枯れた薬草を編んだ輪が置かれていた。
「セラさんが供えたのでしょうか」
「私じゃないよ」
後から来たセラが答えた。
「フィーの弟が、町へ来るたび置いていく。今は北の村に住んでる」
「弟さんは、学び期のことをご存じですか」
「姉から話を聞いてたかもしれないね」
フィーの弟を呼ぶには、北の村へ使いを出す必要がある。
すぐに話は聞けない。
ノアは墓石を調べた。
表面に記録はない。
しかし裏側へ回ると、石と土の隙間に小さなガラス瓶が埋められていた。
「墓を荒らすなよ」
セラが睨む。
「掘り返しません。自然に露出した部分だけ確認します」
瓶の口は蝋ではなく、樹脂で塞がれていた。
中には、細く丸めた紙が入っている。
「フィーが生きているうちに入れたものか、亡くなったあとに誰かが入れたものか確認が必要です」
「墓を建てた石工なら、まだ生きてる」
石工を呼び、話を聞いた。
瓶は、フィー本人の希望で墓石の裏へ収めたという。
「死ぬ前から墓を頼んでたのか」
ミラが驚く。
「病気が長かったからな」
石工は瓶を指した。
「自分が忘れても、土が覚えてるようにって言ってた」
セラと石工を証人として、瓶を取り出す。
紙は傷んでいたが、文字は読めた。
フィーの筆跡で、短い記録が残されている。
――学び期の十三人目は、名前を持たない子。
――エレナが「ノア」と呼び始めた。
ノアの喉が乾いた。
「あなたは、自分で名乗ったんじゃなかったの?」
ミラが保護記録を思い出して尋ねる。
「記録には、本人の申告名とありました」
「その記録が間違っていたのね」
「フィーさんの記述だけでは、どちらが正しいか判断できません」
続きを読む。
――青布の子は、暦院の者を見て泣いた。
――自分を零番と呼ぶ声を聞いたと言った。
――十三日が来る前に、町から出さなければならない。
そこで文章は途切れていた。
紙の下半分が、刃物で切り取られている。
「零番って何?」
リノが尋ねる。
レグナートの顔が強張っていた。
「知っているんですか」
ノアが問う。
「中央暦院の古い分類記号だ」
「何を分類する?」
「人ではない」
レグナートはそう答えたが、視線を紙から逸らした。
「では、なぜ子どもがそう呼ばれたのです」
「確認が必要だ」
「分からないことを、分かったことにはできない?」
リノが言うと、レグナートは苦い顔になった。
「ああ。その通りだ」
墓地を出る前に、リノはフィーの墓前へ新しい薬草の花を置いた。
「話してくれて、ありがとう」
「本人の声を聞いたわけではありませんよ」
「でも、この人が書いたんでしょう」
リノは墓石の名を指でなぞった。
少し前まで文字を読めなかった彼女が、一文字ずつ声にする。
「フィー」
名前を読まれた墓の周りで、風が草を揺らした。
日付のない墓でも、そこにいた人の言葉は、別の誰かへ届く。
パン屋へ戻ると、オルガが焼き印を完成させていた。
組み替えた鉄の字形を熱し、木札へ押し当てる。
最初に焼かれたのは、フィーの名前だった。
「古い学び期の十三人を、もう一度札にする」
オルガが言った。
「覚えてることが増えたら、書き足せばいい」
「公開してよいか、家族の確認が必要です」
「分かってる」
「ノアの名は?」
ミラが尋ねる。
ノアは古い札と、新しい焼き印を見比べた。
「本人と確認できるまで、疑義ありと記します」
「本人かもしれない人が、本人だって認めてないのに?」
「だから疑義です」
「本当に面倒な人」
それでもミラは、新しい札を入れる箱を用意した。
十三の仕切りへ、一人ずつ名前が戻されていく。
最後の席には、ノア・アルデン。
その下へ、同一人物か未確定、と添える。
空白のまま消しておくのではなく、分からないことを分からないまま残す。
それも記録の役割だった。
夕方、北の村へ送った使者が、予想より早く戻ってきた。
フィーの弟は、すでにエルデへ向かっていたという。
「どうして、こちらが呼んでいると分かったんです?」
ノアが尋ねると、使者は一通の手紙を差し出した。
「向こうにも同じ使いが来たらしい。中央暦院からだ」
手紙には、ノアの特徴と名前が記されていた。
そして、北の村を含む周辺地域へ命じている。
――ノア・アルデンを名乗る者に、出生および幼少期の証言を与えてはならない。
命令の発行日は十三年前。
ノアが王都の養育院へ入るよりも前だった。




