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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第13話 名前を覚えた最初の

 古い学び札には、ノア・アルデンと書かれていた。


 見間違いではない。


 ノアは窓辺へ札を運び、傾けながら何度も文字を確かめた。


 最初の文字を少し右へ倒す癖。


 姓の途中で、筆を一度止める癖。


 王都の記録にある自分の名と、綴りも読みも一致している。


「同じ名前の人じゃないの?」


 リノが粉板から身を乗り出した。


「その可能性はあります」


 ノアは答えたが、声に自信がなかった。


 アルデンという姓は、王都周辺に多いわけではない。まったく存在しない姓ではないが、辺境の古い学び札へ同姓同名が記される確率は高くなかった。


「あなた、子どもの頃にエルデへ来たことは?」


 ミラが尋ねた。


「ありません」


「本当に?」


「少なくとも、記憶には」


 ノアは王都の養育院で育った。


 物心がついた頃には、灰色の石造りの建物で、同じ服を着た子どもたちと暮らしていた。


 冬は窓から風が入り、朝食の粥は薄かった。


 読み書きを覚えたのも、養育院の小さな教室だ。


 その記憶に、パンの匂いも、止まった時計塔も、赤茶色の髪の少女もいない。


「学び札の年代を調べる必要があります」


 ノアは札の裏面を確認した。


 十三人の名の横には、それぞれ小さな印が刻まれている。


 パン。


 槌。


 羊。


 薬草。


 家ごとの仕事を示す印らしい。


 ノアの名の横にだけ、何もない。


「始まりの日は読める?」


 ミラが指差した。


 札の上部には、薄く数字が残っている。


 月と日だけで、年がない。


 実り月十三日。


「十三日……」


 リノが小さく言った。


 チクタが机の上で身を低くした。


 背中の砂時計模様は消えていない。だが、鼻先を札へ近づけるたび、落ち着かない様子で左右を見回している。


「存在しない十三日と関係があるの?」


「まだ分かりません」


「そればっかり」


「分からないことを、分かったことにはできません」


「でも、調べるんでしょう?」


「ええ」


 ノアが頷くと、リノは安心したように粉板へ戻った。


 子どもたちは、今日も読み書きの練習へ来ている。


 昨日、自分の名を書けるようになったリノは、今朝から他人の名前に挑戦していた。


 最初に選んだのは、チクタである。


 本人は炭で毛を黒くされるたび、迷惑そうに鳴いていた。


「この札を見つけた場所を確認しましょう」


 パン屋の物置には、古い粉箱や割れた道具が天井まで積まれていた。


 ミラによれば、母エレナが使っていた品の多くは、捨てずにここへ入れてあるという。


「片づけようとは思ってたのよ」


 ミラが言った。


「いつですか」


「暇になったら」


「日付がない町で、それは永遠に来ない予定ですね」


「休み方を覚えたばかりの人に言われたくない」


 古い学び札が入っていたのは、底の浅い木箱だった。


 箱には十三枚分の仕切りがある。


 十二の仕切りには、炭の粉や削れた木屑が残っていた。


 最後の一つだけ、内側へ青い布が貼られている。


「空草染めです」


 ミラが布へ触れた。


「母が、大切なものを入れるときに使ってた」


 布の下を慎重に剥がすと、薄い紙片が一枚出てきた。


 文字は水に濡れたように滲んでいたが、中央暦院の古い印が見える。


 ノアは読める部分を書き写した。


 ――児童一名を一時保護。


 ――出身地および出生年月日、不明。


 ――本人の申告名、ノア。


 姓の部分は破れている。


「本人の申告名?」


 ミラが聞き返す。


「保護された子ども自身が、そう名乗ったという意味です」


「何歳?」


「記載部分がありません」


「この紙があなたのものだと思う?」


「判断できません」


 だが、指先が冷えていた。


 ノアは自分の幼少期について、詳しい記録を持っていない。


 養育院へ入ったのは五歳頃。


 それ以前は、事故の影響で記憶が曖昧だと教えられていた。


 出生記録には王都南区と記されていたが、両親の欄は空白。


 三級暦務官になる際にも調査されたが、古い火災で原本が失われたと説明された。


「同じ名前の別人です」


 ノアは紙片を布の上へ戻した。


「どうして言い切れるの」


「私は王都の養育院で育ちました。この町の学び期に参加した記憶はありません」


「記憶が消える町なのよ」


 ミラの言葉は、責めるようではなかった。


 だからこそ、ノアの胸へ深く刺さった。


 日付を失った出来事は、記憶から薄れていく。


 それは何度も住民へ説明してきた。


 自分だけが例外だと考える理由はない。


「ノア」


 物置の入口から、リノが顔を出した。


「カイたちが喧嘩してる」


「何があったのですか」


「昨日来た人は次を習って、今日来た人は最初からで、分からなくなった」


 調査を続けたい気持ちはあった。


 だが、今困っている子どもたちを放置するわけにはいかない。


 ノアは紙片と学び札を布で包み、鞄へ入れた。


「続きはあとです」


「今度は日を決めなさい」


 ミラが言う。


「曖昧なままにすると、あなたも仕事へ逃げるでしょう」


 反論できなかった。


 パン屋の裏では、カイと宿屋の少年が粉板を取り合っていた。


「俺は数字を習うんだ!」


「俺はまだ名前が書けてない!」


「昨日来なかったお前が悪い!」


「宿が忙しかったんだから仕方ないだろ!」


 双子の姉妹は別々の字を教えられ、どちらが正しいかで揉めている。


 大人の参加者も増え、教える側が足りなくなっていた。


 来られる日に来る仕組みは、入口としてはよかった。


 しかし学ぶ順番を共有しなければ、人数が増えるほど混乱する。


「全員、一度座ってください」


「席がない」


 カイが言った。


「では、立ったままで」


「座れって言ったじゃん」


「揚げ足を取らないでください」


 ノアは学び札を集めた。


 名前を書ける者。


 数字を読める者。


 注文札を理解できる者。


 今までは覚えた項目へ印をつけるだけだったが、それでは次に何を学べばよいか分からない。


「学ぶ内容を、三つの段階へ分けます」


 粉板へ大きな階段を描く。


「一つ目は、自分の名前と、一から十までの数字」


「馬は?」


 小さな男の子が尋ねる。


「馬は名前のあとです」


「昨日は一頭いいって言った」


「覚えていたのですか」


「馬だから」


 階段の端に、小さな馬を一頭描く。


「二つ目は、生活で使う札を読むこと。注文、勤務、薬、値段」


「三つ目は?」


 リノが尋ねる。


「短い文章を書くことです。誰に、何を、いつ渡すか。自分が見たことを、他人へ伝えられるようにする」


「全部できたら、卒業?」


「第一学び期を終えたことにします」


 学び期という言葉に、ミラが物置の方を見た。


 古い仕組みを、そのまま繰り返すわけではない。


 だが、エレナたちが十三人の子どもへ教えていたものを、今の町に合う形で引き継ぐことはできる。


「いつまでが第一学び期なの?」


 双子の姉が尋ねる。


 暦停止命令があるため、終了日を公的に定めることはできない。


「三つの段階を終えるまでです」


「早い人だけ終わっちゃう」


「終えた人は、まだの人を手伝います」


「それじゃ卒業できないよ」


「人に教えることも、三つ目の課題に加えます」


 カイが嫌そうな顔をした。


「俺、教えるの苦手」


「百本と十本を間違えた話をすれば、数字の大切さは伝わります」


「それは言うなよ」


 周囲が笑う。


 レグナートも客席から出てきた。


「段階を終えたか、誰が判断する」


「教えた者と、本人です」


「本人だけでは、できていないのに印をつける者が出る」


「だから二人で確認します」


「教える者の基準が違えば?」


 ノアは少し考え、共通の確認札を作った。


 自分の名を見ずに書く。


 硬貨を数える。


 薬札の回数を読む。


 注文内容を一文で伝える。


 実際に暮らしで使う課題なら、できたかどうか判断しやすい。


「監察官も確認役を?」


 ノアが尋ねる。


「中央の職務ではない」


「数字だけ教えると言っていましたね」


「言ったが」


「途中で投げ出すのですか」


 レグナートはノアを睨んだ。


「お前は人へ仕事を押しつけるときだけ、役人らしくないな」


「町で学びました」


 第一学び期の仕組みが決まると、混乱していた教室が少しずつ動き始めた。


 昨日来た者が、今日来た者へ名前の書き方を教える。


 数字を覚えたカイは、硬貨を並べて年下の子に数えさせた。


「九の次が十だ」


「その次は馬?」


「十一だ」


「馬は?」


「最後だ」


 野菜売りの老女は、何度も間違えながら自分の名前を書いた。


 最後の一文字がどうしても逆になる。


 四度目で正しく書けたとき、彼女はしばらく板を見つめた。


「これが、私かい」


「名前です」


 リノが答える。


「婆ちゃん本人は、もっと皺があるよ」


「分かってるよ」


 老女は笑い、目元を前掛けで拭った。


「市場へ出て五十年になるのに、自分の名を書いたのは初めてだ」


 その板を見に、周囲の者が集まった。


 誰も笑わなかった。


 老女はもう一度、今度は見本を見ずに名前を書いた。


 少し曲がったが、読めた。


 最初の段階を終えた印として、学び札へ小さな芽の形が刻まれた。


 夕方までに、三人が自分の名を書けるようになった。


 リノは学び札を一枚ずつ箱へ戻す。


「今度は十三人より増えるね」


「今日は十七人です」


「箱、足りない」


「新しいものを作りましょう」


「古い箱も使う?」


 ノアは、十三の仕切りがある箱を見た。


「使います。ただし、古い札とは分けて保管します」


「ノアの札も?」


「それはまだ、私のものと決まっていません」


「でも、名前は同じ」


「名前だけでは、同じ人だと証明できません」


 リノは納得していない顔をした。


 それでも学び札の端へ、今日覚えたばかりの文字で何かを書き始めた。


「何を書いているんですか」


「見つけた人、リノ」


「物的記録へ勝手に書かないでください」


「こっちは新しい札だよ」


 古い札と同じ大きさの木片だった。


 表には、ノア・アルデン。


 裏には、リノが見つけた日、と書かれている。


「日付がないですね」


「今日の日付、中央が駄目って言ってるから」


「では記録として不十分です」


「でも、みんな覚えてるよ」


 リノは教室に残った人々を指した。


 ミラ。


 カイ。


 レグナート。


 自分の名前を書けるようになった老女。


 同じ机で学んだ子どもたち。


「ノアと同じ名前の札を見つけた日。ここにいた人、みんな証人」


 正式な暦印は押せない。


 古い札の人物がノア本人かも分からない。


 それでも、今日この場所で札を発見し、皆で見たことは事実だった。


「保管しておきます」


 ノアは新しい札を受け取った。


「捨てない?」


「捨てません」


「忘れない?」


「忘れそうになったら、読んで思い出します」


 リノは満足そうに頷いた。


 夜、ノアは一人で古い学び札を調べ直した。


 十三人の名。


 実り月十三日。


 出身不明の子どもを保護した紙。


 箱の底に貼られた青い布。


 布の縁には、肉眼では見えにくい刺繍が残っていた。


 糸を傷つけないよう、蝋板へ模様を写す。


 浮かび上がったのは、王都養育院の印だった。


 ただし、現在使われているものとは形が違う。


 その下には、エレナの筆跡で一行だけ縫い込まれている。


 ――この子を王都へ返してはならない。


 ノアは、自分の名が書かれた札を握った。


 王都で保護されたはずの彼が、なぜエルデから王都へ返されたことになっているのか。


 そして、なぜミラの母は、それを止めようとしていたのか。


 答えを知る人物がいるとすれば、十三年前の学び期に参加した、残る十二人だった。

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