第12話 同じ机に座る日
パン屋の裏口に、子どもが五人並んでいた。
先頭のリノは木の板を抱え、その後ろには鍛冶工房のカイ、宿屋の手伝いをしている少年、双子らしい姉妹、鼻水をすすっている小さな男の子が続いている。
「何の列ですか」
ノアが尋ねると、リノは当然のように答えた。
「字を習う列」
「誰に?」
「ノアに」
「聞いていません」
「今言ったよ」
厨房では、休み明けのミラが生地をこねていた。
昨日より顔色はよい。パンも焦げていない。
「注文札を使い始めてから、字を教えてほしいって子が増えたのよ」
「印だけでも注文はできます」
「自分の名前を書きたいんだって」
ミラが顎で子どもたちを示す。
「リノは誕生日札。カイは勤務札。自分の札なのに、自分で読めないのが嫌らしいわ」
カイは胸元から給金札を取り出した。
そこにはノアが刻んだ名前と、働いた日を示す槌の印が並んでいる。
「俺の名前、これだろ」
カイは最初の文字を指した。
「はい」
「じゃあ、こっちは?」
「二文字目です」
「二つ合わせるとカイになるの、変じゃないか?」
「文字とは、そういうものです」
「槌の印一個の方が分かりやすい」
「なら、字を習わなくてもよいのでは」
「でも、オルガに渡された注文書を読めない」
カイは唇を尖らせた。
「昨日、釘を百本って書いてあったのに、十本だと思った」
「百本も注文が来たんですか」
「だから急いで作った。そしたら十本だった」
「逆ですね」
「オルガに笑われた」
文字が読めないことは、今まで大きな問題にならなかった。
注文も約束も口頭で済ませ、覚えていなければ周囲へ尋ねればよかった。
だが日付や勤務札、注文札が暮らしへ入り始めると、記録を読める者と読めない者の差が生まれる。
記録は、人を守る。
同時に、読めない者を置き去りにもする。
「町に、読み書きを教えられる人は?」
ノアが尋ねると、ミラは粉を量りながら答えた。
「何人かいるわ。私と、町長と、ダリオ爺。セラも薬の名前なら読める」
「町長に頼んでは?」
「起きてたらね」
「まだ寝ているんですか」
「一度、食事に起きたらしいわ」
「いつ?」
「さあ」
日付が戻っても、町長の生活は戻っていないらしい。
「昔は学校があったのでは?」
「礼拝所で教えていたみたい。閉まってからは、家ごとに仕事を覚えさせるだけ」
子どもたちを見る。
年齢は、誰も正確には分からない。
リノは迎えられた日を誕生日と定めたが、生年月日は不明だ。
カイも、一年ほど工房で働いていることが分かっただけで、何歳から働き始めたのか記録がない。
学校を再開するにしても、入学年齢を基準にはできない。
「年が分からなくても、字は習えるよ」
リノが言った。
「その通りです」
「じゃあ、今日から学校?」
「学校を始めるには、場所、教える人、教材、時間が必要です」
「パン屋の裏。ノア。板。今」
「すべて決められている……」
レグナートが客席で報告書を読んでいた。
「見事な行政計画だな」
「監察官も教えて」
リノに言われ、レグナートは紙から顔を上げた。
「私は中央暦院の監察官だ」
「字、読める?」
「読める」
「なら教えられるね」
「そういう問題ではない」
「何が違うの?」
レグナートは口を閉じた。
この町へ来てから、彼はリノの問いに何度も負けている。
ノアは子どもたちへ尋ねた。
「毎日、ここへ来られますか」
双子の姉が首を横に振った。
「羊の番がある」
妹が続ける。
「二人で交代なら来られる」
宿屋の少年は夕方が忙しい。
小さな男の子は、粉屋の母親について畑へ行く日がある。
カイは工房の仕事がある。
皆で同じ時間に集まれる日は、ほとんどない。
「学校って、毎日行くもの?」
リノが尋ねる。
「王都では、決められた学期に通います」
「学期って?」
「学ぶ期間のまとまりです。始まる日と終わる日が決まっています」
「終わったら、字を忘れる?」
「普通は休みになります」
「休み、増えたね」
ミラが小さく笑った。
だが、中央から暦停止命令が出ている今、新たな入学日や学期を公的に定めることはできない。
レグナートも同じ点へ気づいたらしい。
「学校制度を設置すれば、停止命令に触れる」
「町立学校と呼ばなければ?」
ノアが言う。
「言葉遊びだ」
「読み書きのできる住民が、手の空いた子どもへ教えるだけです」
「定期的に行えば、実質的な教育制度になる」
「学ぶことを禁止する命令ではありません」
「お前は規則の隙間を見つけるたび、うれしそうな顔をするな」
「そのような顔はしていません」
「してるわよ」
ミラと書記官が同時に言った。
ノアは眼鏡の位置を直した。
「いずれにせよ、毎日同じ子が来られないなら、王都式の学期は使えません」
「来られる日に来ればいいよ」
カイが言う。
「それでは、教える内容がばらばらになります」
「前に来た子が、次の子に教えるのは?」
双子の妹が姉を指した。
「私が習ったら、この子に教える」
「私が姉よ」
「背は私の方が高い」
「一緒に生まれたんだから同じでしょ」
二人は言い争いを始めた。
ノアは止めながら、妹の言葉を考えた。
全員が同じ日に始めなくてもよい。
一つ覚えた者が、次の者へ渡す。
授業の時間ではなく、学んだ内容を記録すれば、来られる日が違っても続けられる。
「学び札を作りましょう」
「また札?」
カイはそう言いながら、少しうれしそうだった。
「名前の読み書きができたら一つ。数字を十まで読めたら一つ。注文札、勤務札、薬札など、生活に必要なものから覚えます」
「全部できたら?」
リノが尋ねる。
「最初の札を終えたことになります」
「卒業?」
「まだ早いです」
「じゃあ入学?」
ノアは答えに迷った。
入学とは、学校へ入る日だ。
この町には学校がなく、正確な年齢も、学年もない。
それでも子どもたちは、今ここへ学びに来た。
「今日を、学び始めた日にはできます」
「暦印を使うの?」
レグナートの声が飛ぶ。
「使いません。個人の記録として残すだけです」
「公的効力はないぞ」
「字を覚えた事実は、公的効力がなくても消えません」
レグナートは反論せず、報告書へ視線を戻した。
パン屋の裏へ、古い木箱を並べた。
机は大きな粉板。
筆は人数分ないため、最初は炭の欠片を使う。
ノアが板へ自分の名を書く。
「文字は、音と意味を残すための印です」
「もっと簡単に」
ミラが厨房の窓から言った。
「これは、私の名前です」
「最初からそう言えばいいのよ」
子どもたちは自分の木札を見ながら、板へ文字を写し始めた。
カイは力を入れすぎ、炭を二度折った。
双子は互いの文字を勝手に直す。
宿屋の少年は、客が宿帳へ書いていた字を思い出し、形だけは上手だった。
小さな男の子は、文字ではなく馬を描いた。
「これは名前ではありません」
「馬が好き」
「では、名前を書いたあとに馬を描いてください」
「馬が先」
「名前が先です」
「馬」
「……一頭だけですよ」
レグナートが紙を持ったまま立ち上がった。
「ノア。お前は教え方が硬い」
「監察官は経験がおありで?」
「暦院の新人研修を担当したことがある」
「なら手伝ってください」
「私は――」
リノが空いている炭を差し出す。
「字、読めるんでしょう?」
レグナートはしばらく炭を見つめ、外套を椅子へ掛けた。
「数字だけだ」
彼は粉板の端へ、硬貨を十枚描いた。
「一は一つ、二は二つだ。形だけで覚えるな。数えて確かめろ」
カイが勤務札を持って隣へ移る。
書記官も教室へ加わった。
ミラは窓から様子を見ながら、焼きたての小さなパンを一つずつ配る。
午前が終わる頃、リノは自分の名前を書けるようになった。
少し傾いている。
最初の文字は大きすぎ、最後の文字は粉板の端へ追いやられていた。
それでも、誰かが代わりに書いた名ではない。
リノ自身が書いた、リノという名前だった。
「見て」
ミラへ見せ、カイへ見せ、最後にノアへ板を差し出す。
「読めますか」
「リノ」
「合ってる?」
「はい」
「私が書いたのに、消えない?」
「炭なので、こすれば消えます」
リノの顔が曇る。
「ですが、もう一度書けます」
「何回でも?」
「覚えている限り」
リノは指で自分の文字をなぞった。
「じゃあ、札がなくなっても、私の名前は書けるね」
ノアは頷いた。
中央が記録を接収しても。
紙を燃やしても。
住民自身が読み、書き、誰かへ伝えられるなら、出来事を完全に奪うことは難しくなる。
小さな教室は、暦を守るための場所にもなり得る。
午後には、仕事を終えた大人が二人やってきた。
「子どもだけか?」
荷車を貸していた商人が、入口から中をのぞく。
「注文札を自分で読みたい」
野菜売りの老女も、恥ずかしそうに木箱へ座った。
「孫に聞くと笑うんだよ」
「笑わないよ」
リノが炭を渡す。
「私が教える」
「今日始めたばかりでしょう」
「名前は書けるもん」
学んだ者が、次の者へ教える。
最初に考えた通りの姿が、もう始まっていた。
ノアは人数分の学び札を作り、それぞれが最初に参加した日の印を刻んだ。
暦印はない。
中央の認定もない。
けれど皆が、自分で名前を書いた横へ指を置き、その日を覚えると決めた。
夕方、レグナートの書記官が中央へ送る報告書をまとめていた。
「読み書きの私的講習。暦制度への該当なし、と」
レグナートが確認する。
「その書き方で本当にいいのですか」
ノアが尋ねた。
「規則に反していないものを、違反とは書けない」
「中央に疑われますよ」
「事実を曲げるよりはいい」
レグナートは淡々と答えた。
その机の下で、チクタが一枚の学び札を抱えていた。
誰の名も書かれていない古い札だ。
パン屋の物置から見つけたらしく、表面には子どもの手で練習した文字がいくつも残っている。
ミラが受け取り、埃を払った。
「これ、母の字」
札の中央には、幼いミラの名前が書かれていた。
その横に、母エレナが添えたらしい短い文章がある。
――学び期、第一組。十三人。
「学び期……」
ノアは札を裏返した。
裏面には、十三人の子どもの名と、始まりの日が刻まれている。
十二人の名は、今も町に暮らす者たちの幼名だった。
最後の一人だけ、誰も知らない。
ノア・アルデン。
それは、王都で生まれ育ったはずのノア自身の名前だった。




