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王都暦局が廃止されたので、曜日のない辺境へ赴任した俺。誕生日も祭りもない町に日付を与えたら、止まっていた一年が動き始めた  作者: やまご


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第11話 休む人を決める日

 暦停止命令が届いた翌朝、ミラはパンを焦がした。


 黒くなった丸パンを窯から取り出し、無言で台へ並べる。


「食べられるよ」


 リノが一つ持ち上げた。


「炭の味がするけど」


「それは食べられないって言うの」


 ミラは焦げたパンを籠へ放り込んだ。


 目の下の隈は、昨日より濃い。


 中央暦院の命令書には、母エレナの名があった。


 十年以上前に消えたはずの人が、三日前の日付で町の暦を止める命令を起案している。


 ミラは夜遅くまで、その紙を何度も見返していたらしい。


 それでも朝になれば、粉を量り、生地をこね、窯へ薪を入れた。


 町の日付が止められても、腹は減る。


「今日は店を休んではどうですか」


 ノアが言うと、ミラは焦げた籠を抱えたまま彼を睨んだ。


「暦を止められた翌日に、パン屋まで止めろって?」


「眠れていないでしょう」


「寝たわ」


「どのくらい」


「目を閉じて、開けた」


「それを睡眠とは呼びません」


「王都では、役人がパンまで焼いてくれるの?」


「焼けません」


「じゃあ働く」


 ミラは新しい粉袋へ手を伸ばした。


 だが持ち上げた瞬間、腕から力が抜けた。袋が床へ落ち、白い粉が舞う。


 リノが駆け寄る。


「ミラ!」


「平気。手が滑っただけ」


「昨日も滑らせたよ。皿」


「あれは皿が悪い」


 棚の皿が、申し訳なさそうに見えた。


 ノアは床へ膝をつき、こぼれた粉を寄せ集めた。


「七日目の決まりを作ったとき、休めていない人の休みを決めると合意しました」


「その暦は停止中でしょう」


「公的効力が停止されただけです」


 店の隅で書類を読んでいたレグナートが、顔を上げた。


「都合のよい解釈をするな」


「命令には、私的な勤務契約を禁じるとは書かれていません」


「日付を用いて契約を成立させれば、停止命令への抵触を疑われる」


「日付を使わなければよい」


 レグナートの眉が動く。


 ノアは粉を払い、立ち上がった。


「ミラさんが今から休む。店を再開するのは、本人が十分に休んだと判断したあと。これは暦術ではなく、単なる交代です」


「十分って、どのくらいよ」


「少なくとも、パンを焦がして皿のせいにしなくなるまで」


 リノが吹き出した。


 ミラは笑わなかったが、反論も少し遅れた。


「私が休んだら、誰が焼くの」


「今日の分は、もうあります」


「焦げてる」


「市場用に残していた固焼きパンが、貯蔵棚に三籠あります」


「勝手に見たの?」


「在庫札を確認しました」


「嫌な役人」


「よく言われます」


 そこへ、店の扉が開いた。


 入ってきたのは鍛冶屋のオルガだった。後ろには、薬草売りのセラと、陶工のガスもいる。


「話は聞いた」


 オルガが言った。


「誰から?」


「リノ」


 ミラが少女を見る。


「助けを呼んだの」


「余計なことを」


「昨日、七日目に決めたよ。休めてない人がいたら、休ませるって」


「決めた暦は止められたでしょう」


「休むのまで中央に聞くの?」


 リノは本気で不思議そうだった。


 単純な問いほど、制度の不自然さを浮かび上がらせる。


 レグナートは椅子へ座ったまま、こめかみを押さえた。


「中央暦院は、住民の休息を禁じてはいない」


「なら、問題ないね」


 セラはミラの手首をつかみ、脈を取った。


「寝不足。食事も足りてない」


「味見はしたわ」


「焦げたパンを?」


「焦げる前の生地」


「生の粉は食事じゃないよ」


 ガスは店の奥から、固焼きパンの籠を運び出した。


「今日はこれを売ればいい。歯が弱い者は湯に浸せ」


「そんなパン屋、評判が落ちる」


「お前が倒れて店が閉まるよりましだ」


 オルガが前掛けを手に取る。


「代金を受け取るだけなら私でもできる」


「銅貨二枚のパンに、銀貨を出されたら?」


「釣りを返す」


「間違えるでしょう」


「鉄の重さは量れる」


「硬貨は鉄じゃない」


 二人が睨み合う。


 ノアは卓へ木札を三枚置いた。


 一枚にはパンの値段。


 一枚には受け取った硬貨。


 一枚には返す釣り。


「硬貨の形を描いておけば、計算が苦手でも照合できます」


 レグナートが呆れたように言った。


「暦務官の仕事ではないな」


「暦務所があれば、住民相談として扱えます」


「ないのだろう」


「ですからパン屋で行っています」


 書記官がとうとう声を立てて笑った。


 レグナートに睨まれ、慌てて口を閉じる。


 ミラは、まだ店を出ようとしなかった。


「皆、自分の仕事があるでしょう」


「工房はカイに任せた」


 オルガが答える。


「今日は留め金を作るだけだ。勤務札もある」


「薬屋は?」


「昼まで閉める。急ぎなら裏口を叩くよう札を出した」


「ガス爺は」


「今日は窯を冷ます日だ」


 ガスは胸を張った。


「何もしてないだけじゃない」


「土を見るという大切な仕事がある」


「寝ながら?」


「目を閉じた方が土の声を聞ける」


 リノがミラの手を引いた。


「外、行こう」


「どこへ」


「決めてない」


「予定もなく出かけるの?」


「休みって、そういうものじゃないの?」


 ミラは答えられなかった。


 エルデには、休日がなかった。


 店を閉めるのは、病気になった日か、材料がなくなった日か、何か悪いことが起きた日だった。


 何も起きていないのに休む、という習慣がない。


「休み方が分からない」


 ミラは、聞こえるかどうかの声で言った。


 ノアはその言葉を聞取帳へ書かなかった。


 代わりに、店の扉を開けた。


「では、練習してください」


「休みの練習?」


「最初から上手な人はいません」


「あなた、休むの上手なの?」


「苦手です」


「説得力ないじゃない」


 それでもミラは、リノに引かれるまま店の外へ出た。


 チクタも肩掛け鞄へ飛び込む。


 広場では市場の片づけが進み、時計塔は静かに七日の循環を刻んでいた。


 中央から公的効力を否定されても、歯車までは止まっていない。


「どこへ行きたい?」


 リノが尋ねる。


「分からない」


「パンを焼かないで、何したい?」


「……川」


 ミラは自分でも意外そうな顔をした。


「子どもの頃、母と川辺で空草を摘んだの。店を始めてからは行ってない」


「行こう」


 三人と一匹は、町の南を流れる川へ向かった。


 ノアは同行するつもりではなかった。


 だがミラに「あなたも休み方を知らないんでしょう」と言われ、言い返せなかった。


 川辺には、季節外れの小さな白い花が咲いていた。


 空草は実り月に咲く青い花で、今は茎さえ残っていない。けれどミラは、母と歩いた場所を一つずつ思い出した。


「あの石の上で、布を洗った」


「こっちは?」


「私が川に落ちたところ」


「ミラも落ちるの?」


「子どもの頃は落ちたわよ」


「今も皿を落とすよ」


「リノ」


 少女が笑って逃げる。


 ミラが追いかけ、途中で足を止めた。


 久しぶりに走ったせいか、息を切らしている。


 けれど店にいたときより、顔色は少しよかった。


 ノアは川辺の石へ腰を下ろした。


 何もしない時間は落ち着かない。


 聞取帳を開こうとして、ミラに取り上げられた。


「休みの練習」


「忘れる前に記録を」


「何を?」


「川辺の位置と、空草の採取場所を」


「覚えておきたいなら、見てればいいでしょう」


「記憶は薄れます」


「全部を紙に任せたら、あなたの方が何も覚えなくなるわよ」


 ミラは聞取帳を抱えたまま、川を見た。


「母が空草を摘んでた姿、昨日よりはっきり思い出せる」


「七日目が戻った影響でしょうか」


「それだけじゃないと思う」


 彼女は靴先で小石を転がした。


「店に立ってたら、思い出す暇もなかった」


 忘れるのは、日付を奪われたせいだけではない。


 暮らすことに追われ、立ち止まれなかったせいでもある。


 休日は、働かないためだけの日ではなかった。


 自分が何をしてきたのか。


 誰と生きてきたのか。


 次にどこへ進みたいのか。


 それを思い出すための余白なのだ。


 チクタが草の上で仰向けになり、腹を日に当てている。


 リノも隣へ寝転んだ。


「ノアもやる?」


「服が汚れます」


「休みの日は汚れていいんだよ」


「その決まりは、誰が作ったんですか」


「今、私」


 ノアは断ろうとした。


 だがミラまで草の上へ座り、聞取帳を枕代わりに置いた。


「返してください」


「休みが終わったらね」


「いつ終わるのですか」


「私が、もう大丈夫って思ったら」


 日付も鐘も使わない、曖昧な約束。


 以前なら認めなかっただろう。


 だが、人が自分の体と心へ与える休みまで、正確な時刻で縛る必要はない。


 ノアは諦めて草の上へ横になった。


 雲がゆっくり流れている。


 しばらくすると、隣から穏やかな寝息が聞こえた。


 ミラは聞取帳を抱えたまま眠っていた。


 リノが声を潜める。


「休むの、上手になったね」


「一度眠っただけです」


「ノアより上手」


 否定はできなかった。


 夕方、町へ戻ると、パン屋の前には客たちがきちんと列を作っていた。


 オルガの釣り銭は一度も間違っていない。


 セラは固焼きパンを湯で煮て、老人向けの柔らかな粥にしていた。


 ガスは土の声を聞くと言いながら、店の椅子で本当に寝ていた。


 店は、ミラがいなくても一日だけなら回っていた。


「私がいなくても平気なのね」


 ミラは少し寂しそうに言った。


「平気ではない」


 オルガが前掛けを外す。


「パンの置き場所は分からんし、客は細かいし、ガスは役に立たん」


「土の声を聞いていた」


「いびきしか聞こえなかったぞ」


「でも、開けられたでしょう」


 ミラが言うと、オルガは頷いた。


「だから次は、私が休む」


「工房は?」


「カイに半日任せる。今日できたなら、次も試せる」


 セラも言った。


「私は次の七日目に店を閉めるよ。病人が出たら起こせばいい」


 休日は、一斉に町を止める日ではない。


 誰かが休むために、誰かへ仕事を渡す日。


 そして渡された者も、次には休めるよう約束する日。


 暦印は使わない。


 公的な休日とは呼ばない。


 それでも店の壁に、新しい木札が掛けられた。


 ――休む人。


 その下へ、次に休む者の印を一つずつ並べる。


 ミラは自分のパン印を最後尾へ移した。


「次は、しばらく先でいい」


「六人いるから、六日後?」


 リノが尋ねる。


「日付は使わないんじゃなかった?」


「じゃあ、みんなが一回休んだあと」


「それなら問題ありません」


 レグナートが店の入口に立っていた。


 いつから聞いていたのか分からない。


「これは暦制度ではなく、業務上の交代表だ」


「監察官が認めるんですか」


 ノアが尋ねる。


「規則にないものを、すべて禁止するつもりはない」


 レグナートは一枚の書類を差し出した。


 中央へ照会を送るため、エレナの起案署名を写し取ったものだった。


「筆跡鑑定の前に、ミラ・フェンへ確認したい」


 命令書の署名と、ミラが保管していた母の粉札が並べられる。


 どちらも同じ癖のある文字だ。


 だがミラは、署名の最後を指でなぞった。


「母の字じゃない」


「先ほどは母の筆跡だと言ったでしょう」


「途中までは母の字よ。でも母は、自分の名前を書くときだけ、最後の線を左へ払う」


 粉札のエレナという名は、最後の線が左へ伸びている。


 命令書では、右へ払われていた。


「母の字を知っている人が、真似して書いた」


 ミラの声が冷える。


 レグナートは命令書を裏返した。


 蝋ではなく、紙そのものへ押された中央暦院の透かし印が見える。


「署名だけを偽造しても、この用紙は手に入らない」


「では、中央の内部に偽造者がいる」


 ノアが言った。


「あるいは」


 レグナートは紙の作成番号を示した。


「この命令書は、十三年前に用意されていた」


 番号の上二桁は、作成年を示している。


 王暦六百十三年。


 エレナが消えた頃だった。


 本文と日付だけが、三日前に新しく書き加えられている。


 誰かが十三年間、ミラの母の署名を入れた白紙の命令書を保管していた。


 そしてノアが町の暦を戻すと知った瞬間、それを使ったのだ。

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