第10話 暦を止める命令
黒い馬車から降りた男は、剣より先に懐中時計を取り出した。
蓋を開き、時計塔の文字盤を見上げる。
「到着、国暦第六刻二十三分」
銀髪を短く整えた、三十代半ばほどの男だった。
黒い外套の胸元には、円を十二の区画に分けた中央暦院の紋章が縫いつけられている。後ろには書記官が一人と、護衛が二人。
男は時計の蓋を閉じると、ノアへ視線を向けた。
「王都暦局三級暦務官、ノア・アルデンだな」
「はい」
「中央暦院監察部、レグナート・クレイだ」
差し出された身分証には、監察官の印と指紋紋様が正しく刻まれている。
偽造ではない。
「予定より早いですね」
「私の派遣予定を知っていたのか」
「いいえ。この町に来る前から、私の行動を報告するよう商人へ指示が出ていました」
ノアがジークから受け取った紙を見せると、レグナートは目を通した。
眉がわずかに動いた。
「この通達を出した部署に、心当たりは?」
「監察部ではない」
「では、どこが?」
「現時点では答えられない」
答えられないのか、答える気がないのか。
見分ける前に、レグナートは開いた地下扉へ目を向けた。
「まず、全員を塔から離せ」
「まだ中へは入っていません」
「賢明だ。封鎖設備が残っている可能性がある」
「設備について知っているのですか」
「中央の旧施設には、記録保護のための術式がある。それ以上は、内部を確認してからだ」
命令口調ではあったが、住民を追い払う護衛へは「触れるな、声を荒らげるな」と指示していた。
単純に町を押さえつけに来た男ではない。
だからこそ、厄介だとノアは感じた。
レグナートは規則を信じている。
規則を悪用する者より、正しく使っていると信じる者の方が、説得には時間がかかる。
「監察官さん」
リノがノアの後ろから顔を出した。
「黒い服、暑くない?」
「暑い」
レグナートは真顔で答えた。
「では、脱げばいいのでは」
「職務中だ」
「変なの」
書記官が咳払いで笑いを隠した。
レグナートはリノを見下ろし、その腕の中にいるチクタへ目を止めた。
「暦獣か」
「チクタだよ」
「名をつけたのか」
「本人も嫌がってない」
チクタは肯定するように小さく鳴いた。
レグナートの表情が初めて崩れた。
「暦が完全に崩壊した土地で、暦獣は目覚めない」
「この町の暦は戻り始めています」
ノアが答える。
「それを確認するために、何を定めた」
「一人の誕生日。七日の曜日。市場日。給金日。葬送日です」
「地方暦を新設したのか」
「失われた記録を復元し、現在の生活に必要な合意を追加しました」
「中央の許可なく?」
「生活を続けるために必要でした」
レグナートは何も言わず、広場を見回した。
市場日を示す木札。
パン屋の注文札。
工房の勤務札。
時計塔の七日目。
数日前まで存在しなかった決まりが、今は町のあちこちで使われている。
「話は暦務所で聞く」
「暦務所はありません」
「赴任先だろう」
「建物自体が消えています」
レグナートは額を押さえた。
「では、最も公的な場所は」
住民たちの視線が、一斉にミラへ向いた。
「うちを見るのやめて」
ミラは即座に言った。
結局、監察はパン屋の客席で行われることになった。
レグナートは小さな卓に書類を並べ、護衛を外へ待機させた。
書記官だけが隣に座る。
ミラは歓迎のつもりがないことを示すように、形の悪いパンを二つ置いた。
「代金は」
「いらない」
「職務上、無償の供与は受けられない」
「じゃあ銅貨二枚」
「このパンの相場は一枚では?」
「役人価格よ」
レグナートは反論せず、銅貨二枚を払った。
ノアは少しだけ彼への評価を改めた。
「提出された記録を見せろ」
リノの記念日を定めた記録札から、順に卓へ並べる。
証人の署名ができない箇所には、本人が普段使っている商売印や指紋がある。物的記録の写しと、聞き取りの相違点もすべて記載した。
レグナートは無言で読み進めた。
速い。
だが流し読みではなく、証言者の数、物証、暦印の状態を正確に確認している。
「この少女の生年月日は確定していないな」
「はい。定めたのは、町に迎えられた日です」
「記録上は誕生日と呼んでいる」
「住民の慣習としてです。出生証明とは区別しています」
レグナートはリノを見る。
「自分の本当の生まれた日でなくてもよいのか」
「私がみんなに見つけてもらった日だよ」
「誰かに決められたのではない?」
「ノアは、私がいいって言わないと書かなかった」
リノは胸元から小さな木札を取り出した。
片面に日付。
反対側には、切れ目の入った丸パンが刻まれている。
「これ、私の」
レグナートは手を出しかけ、途中で止めた。
「見ても?」
「いいよ」
許可を得てから受け取る。
札の暦印は薄いが、安定している。
嘘の日付ではない。
「市場日は、税務登録をしていない」
「徴税を始めていないためです」
「外部商人が出入りすれば、取引記録が必要になる」
「次回の市場までに作成します」
「給金制度は?」
「工房単位の私的契約です。国法の最低基準を下回らないよう確認しています」
「葬送日は、教会認定がない」
「教会が閉鎖されています」
「閉鎖許可は?」
「記録がありません」
「町長は」
「寝ています」
レグナートの筆が止まった。
「病気か」
「面倒だからだそうです」
書記官がもう一度、咳払いをした。
監察は昼過ぎまで続いた。
ノアの記録に、暦術上の明確な違反はなかった。
存在しない出来事は作っていない。
証人と物証を照合している。
町の合意も得ている。
それでも、レグナートの顔は険しくなる一方だった。
「手続きは丁寧だ」
すべてを読み終えると、彼は書類を閉じた。
「だが、問題は手続きではない」
「何ですか」
「地方暦が、中央暦から独立して成長していることだ」
「独立させる意図はありません」
「意図の話ではない」
レグナートは市場日の記録を指で叩いた。
「この町の第五日と、隣町の第五日がずれたらどうなる。商人は同じ荷を二重に売ったと疑われ、契約期限が食い違う。給金日が税の基準日とずれれば、脱税に使われる。土地の相続日が異なれば、家同士の争いになる」
「だから中央暦へ照合する作業が必要です」
「照合する前に広めた」
「照合を待っていたら、この町は今日も給金を払えず、死者を送れませんでした」
「分かっている」
レグナートの声が、わずかに強くなった。
「地方独自の暦が原因で、停戦日の解釈が食い違い、戦闘が再開した町を私は見た。百人以上が死んだ。どちらの町も、自分たちの日付こそ正しいと信じていた」
店内が静まる。
規則への執着には、理由があった。
「日付は、人を救います」
ノアは言った。
「同時に、人を縛り、争わせることもある。承知しています」
「ならば、なぜ先に進めた」
「中央が何年も、この町へ正しい日付を届けなかったからです」
レグナートの目が細くなる。
「この町は放置されたのではありません」
ノアは第七日勤務者名簿の写しを卓へ置いた。
「意図的に記録を消された可能性があります」
「証拠は」
「時計塔地下にあります」
「まだ確認していない」
「だから調べます」
「調査中の疑惑を理由に、制度を先行させることは認められない」
「では、町の人々に、また日を数えるなと言うのですか」
レグナートは答えなかった。
代わりに、鞄から封書を一通取り出した。
赤い紐。
中央暦院長の封印。
ノアはそれを見た瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
「正式命令を伝える」
レグナートが立ち上がる。
ミラも、リノも、店内にいた町の者たちも、その声を聞いていた。
「辺境都市エルデにおける、すべての暦復元作業を停止する」
封書が開かれる。
「新たに定められた市場日、給金日、記念日、葬送日および曜日循環は、中央の審査が終わるまで公的効力を持たない」
「審査はいつ終わるの」
リノが尋ねた。
「現時点では未定だ」
「私の誕生日も、なくなる?」
レグナートの口が止まった。
「個人的に祝うことまでは禁じない」
「でも、札は嘘になるの?」
「嘘ではない。ただ、国が認めていない」
「何が違うの?」
答えられない監察官の代わりに、誰も口を挟めなかった。
リノは木札を両手で握りしめた。
「私は、この日にいたよ」
「ああ」
レグナートは静かに答えた。
「その事実を否定する命令ではない」
「じゃあ、消さないで」
レグナートの目が伏せられる。
だが、封書をしまうことはなかった。
「ノア・アルデン。三日以内に、町で使用されている暦印を停止しろ。従わない場合、暦務官資格を剥奪し、復元記録を中央暦院が接収する」
ミラが卓へ手をついた。
「勝手に持っていくの?」
「国家の暦記録は、中央に帰属する」
「これは、この町の人たちが話したことよ」
「記録の保管と、記憶の所有は別だ」
「同じことを、母たちにも言ったの?」
レグナートの表情が変わった。
「母?」
「エレナ・フェン。中央に連れていかれた人よ」
ノアは彼の反応を見逃さなかった。
その名前を知っている。
レグナートは一瞬だけ、封書の下部へ視線を落とした。
「この命令を作成した者は、誰ですか」
「中央暦院長だ」
「起案者は」
「命令書に記載されている」
ノアは差し出された紙を受け取った。
停止命令の本文。
院長印。
監察部の確認印。
そして最下部に、小さく記された起案者名。
エレナ・フェン。
ミラの母の名だった。
「あり得ない」
ミラの唇が震える。
「母が消えたのは、十年以上前よ」
命令書の作成日は、レグナートが町へ到着する三日前。
ノアは紙を光へかざした。
印も、墨も新しい。
偽造の形跡はない。
死んだとも、生きているとも確認されていない女性が、中央暦院から町の暦を止める命令を出していた。




