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風の隣人  作者: 馬込冷静
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05話 サヤカのデビュー戦

風環中央競技場。


スタート地点にはデビュー戦を迎える十二人の走者族が並んでいた。


観客席は普段の模擬レースとは比べものにならないほど埋まっている。


「1番人気はやっぱりサヤカか」


場内モニターには出走選手の名前とこれまでの記録が表示されている。


模擬レースでの安定した走り。 終盤での伸び。 コーナーで速度を落とさないフォーム。 そして何より短期間での成長。


サヤカは注目の新人だった。


オッズもそれをはっきり示している。


サヤカ――1番人気。


だが本人はその数字を見ても笑わなかった。


「……みんな、速そう」


隣に立つコーチが静かに言う。


「速いよ。だから人気は忘れていい」


「はい」


「模擬レースと同じように走れ。ただし、一つだけ覚えておいて」


サヤカが顔を向ける。


「本番では誰も君のために走ってくれない」


その言葉にサヤカは小さく息を吸った。


「……はい」


スタート地点の信号が変わる。


一瞬の静寂。


そして――


スタート。


十二人が一斉に飛び出した。


サヤカは前に出ない。


五番手。


六番手。


想定していた位置だった。


先頭に二人、その後ろに三人。


サヤカは集団の中で呼吸を整える。


足音。


風。


地面から伝わる振動。


次第に周囲の音が遠くなっていく。


いつもの感覚。


だが――


「……速い」


先頭のペースが想定より速かった。


一人が積極的に飛ばしている。


サヤカのコーチはスタンドからレースを見ていた。


「まだ動くな」


サヤカは動かない。


先頭との差は広がらない。


むしろ一定だ。


中盤に入っても先頭は速度を落とさない。


普通ならこのまま終盤で失速する。


そう思わせる走りだった。


しかし。


三コーナーを抜けたところで、先頭の選手がさらに加速した。


「……!」


サヤカの表情が変わる。


予想より早い。


ここで追えば最後まで持たない。


しかし追わなければ届かない。


一瞬の判断。


サヤカは踏み込んだ。


四番手。


三番手。


二番手。


一気に前との差を詰めていく。


観客席が沸いた。


「サヤカ来た!」


「伸びてる!」


いつもの走りだった。


終盤になってもフォームが崩れない。


呼吸も乱れている。


脚も重い。


それでもまだ前へ行ける。


――これなら。


サヤカはそう思った。


先頭が見える。


あと数歩。


あと少し。


ところがその瞬間だった。


外側から一人の選手が飛び出した。


「えっ……!」


サヤカのさらに外。


後方にいた選手がまるで別のギアに入ったように加速する。


一気に横を抜かれる。


速い。


あまりにも速い。


サヤカも懸命に速度を上げる。


だが届かない。


残りわずか。


先頭争いは三人に絞られた。


サヤカ。


先頭を走っていた選手。


そして最後方から飛んできた選手。


ゴールが迫る。


サヤカは最後の力を振り絞る。


「――っ!」


身体を前へ。


足をもう一歩。


しかし。


ゴールラインを最初に駆け抜けたのは――


最後方から一気に差し切った選手だった。


サヤカは2着。


わずかな差だった。


ゴール後サヤカは膝に手をついた。


息が苦しい。


胸が激しく上下する。


悔しかった。


勝てると思っていた。


いや。


勝てるだけの走りはした。


それでも――負けた。


観客席からは拍手が起きている。


「サヤカ、惜しかった!」


「デビュー戦で2着!」


実況も興奮した声を上げている。


だがサヤカ本人は笑わなかった。


コーチが近づいてくる。


「……すみません」


「何が?」


「勝てませんでした」


コーチは少しだけ黙った。


そして言った。


「そうだね。負けた」


慰める言葉ではなかった。


「でも今日のレースで分かったことがある」


サヤカが顔を上げる。


「君は終盤まで崩れない。これは本物だ」


「……はい」


「だけどそれだけでは勝てない」


コーチは競技場を見る。


「今日の勝者は君より速かった。単純にそれだけだ」


サヤカは唇を噛んだ。


「それに君は三コーナーで少し早く動いた」


「……」


「間違いとは言わない。あそこで動かなければ、勝負に参加することすらできなかった。ただあの選手は君が動くのを待っていた可能性がある」


サヤカは驚いた。


「……私を?」


「ああ。君は注目されていたからね」


その言葉でサヤカは初めて理解した。


自分だけが相手を見て走っていたわけではない。


相手もまた自分を見ていた。


模擬レースでは自分の走りを伸ばせば結果がついてきた。


しかし本番では違う。


相手がいる。


相手にも武器がある。


相手も考える。


そして――


自分の弱点を突いてくる。


コーチは続けた。


「今日の2着は失敗じゃない」


サヤカは黙って聞いている。


「でも成功だとも言わない」


「……はい」


「デビュー戦で2着。周りから見れば十分な結果だ。でも君自身が勝ちたいなら、ここからだ」


サヤカは競技場を振り返った。


さっきまで一緒に走っていた選手たちが戻ってくる。


勝者は仲間に囲まれて笑っている。


その姿を見ながらサヤカは拳を握った。


悔しい。


本当に悔しい。


けれど――


もう一度走りたい。


次は勝ちたい。


今日、自分より速かったあの選手に。


そして何より、


今日の自分自身に。


サヤカは静かに言った。


「……コーチ」


「ん?」


「次は勝ちたいです」


コーチは笑った。


「その言葉が聞ければ十分だ」


競技場では次のレースの選手たちがスタート地点へ向かっていた。


一番人気でも勝てない。


注目されていても勝てない。


良い指導を受けていても、努力していても、それだけで勝利が約束されるわけではない。


それが勝負の世界だった。


そしてサヤカは今日初めて――


その厳しさを自分の身体で知った。

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