幕間3 不屈
公開模擬レースが終わったあと、私は走路の脇で待っていた。
呼吸はもう落ち着いている。
脚の震えも止まっていた。
それでも帰れなかった。
少し離れたところでコーチが一人の走者に声を掛けている。
話を聞いていた彼女の耳がぴんと立った。
両手で口元を押さえて、それから何度も頷く。
その隣でも別のコーチが選手の記録を見ていた。
私は背筋を伸ばした。
誰かがこちらを見るたびに、顔を上げる。
近づいてくる足音が聞こえると、手に持ったタオルを握り直した。
でもその人は私の横を通り過ぎた。
やがて係の職員が声を掛けた。
「今日の模擬レースはこれで終了です。忘れ物を確認して戻ってください」
私は返事をした。
声が思ったより小さかった。
────────
風環総合アカデミーに来たときから私はプロ走者になるつもりだった。
中等部の三年間は長かった。
普通の授業がある。
寮では掃除も当番もある。
走ることだけをしていればいいわけではない。
人間とルナリィの身体の違い。
一緒に暮らすときに気をつけること。
高速で走る私たちが周りの人を傷つけないための決まり。
健康や安全についても繰り返し教わった。
走れるからといってどこでも走っていいわけではない。
走りたいからといっていつでも走っていいわけでもない。
当時の私はそれが少し窮屈だった。
ジュニア競技に出る日は好きだった。
合図を待つ間の緊張も、隣の子と競り合うことも。
ゴールしたあと、さっきまで競っていた相手と息を切らして話す時間も。
負ければ悔しかった。
勝てば次も勝ちたかった。
テレビの中で走るプロたちを見ていつか自分もあそこに立つのだと思っていた。
高等部へ上がってもその気持ちは変わらなかった。
最初の二年間は普通教科を学びながら、少しずつ将来の進路を考える。
三年目には道が分かれる。
普通科に進んで、その年を終えて卒業する人。
五年目まで残り、専門課程で学ぶ人。
競技指導科。
競技医療科。
情報科学科。
総合運営科。
進路説明の資料にはいろいろな学科が載っていた。
私は走者育成科のページばかり見ていた。
高等部三年目から始まる三年間のプロ走者課程。
その間に公式レースで一度は勝つ。
勝って、卒業して、自分の力でプロとして生きていく。
難しいことは知っていた。
でもそれはもっと先の難しさだと思っていた。
まずチームに入る。
コーチに教わる。
練習してデビューする。
私の想像はいつもそこから始まっていた。
チームに入れない自分は考えていなかった。
────────
公開模擬レースはプロ走者を目指す私たちにとって、最初の関門だった。
コーチたちが見ている。
速さだけではない。
走り方や得意なこと、これから伸びる可能性も見て、担当にしたい走者へ声を掛ける。
だから上位に入れば必ず選ばれるわけではない。
逆に着順が低くても声を掛けられることはある。
その説明を聞いたとき私は少し安心した。
タイムには自信がなかった。
ジュニア競技でも勝ったことはあるけれど、いつも勝てる選手ではなかった。
それでも練習は続けてきた。
苦しくなってからも最後まで走ることだけはやめなかった。
そこを見てもらえれば。
そう思った。
けれどレースではうまく走れなかった。
隣の子が前へ出ると、置いていかれるのが怖くなった。
追いかけて力を使った。
コーナーでは前の背中ばかり見ていた。
最後の直線で脚が重くなったとき、まだ前へ行けると思った。
そう思いたかった。
でも私より後ろにいた子が、横を抜けていった。
追いつこうとしても離れていく。
ゴールまで走りきった。
それはできた。
ただその日の私には、それしか残らなかった。
────────
育成枠の説明会で私は膝の上に手を置いていた。
周りにも同じようにスカウトを受けられなかった子たちが座っている。
泣いたあとなのか、目が赤い子がいた。
配られた資料を最初から最後まで何度も読んでいる子もいた。
前に立った職員が言った。
「今回正式チームへの所属が決まらなかった皆さんにも、練習と評価を受ける機会があります」
育成枠。
正式なチームではない。
自分を担当するコーチも付かない。
決められた時間に集まり、基礎トレーニングを受ける。
体力測定やフォームの確認。
一般走技の基礎講習。
その中でもう一度自分の力を示す。
「在籍期間は原則として六か月です」
私は資料から顔を上げた。
六か月。
「期間中は定期的に評価を行います。成長や適性を認められれば、追加のスカウトを受ける可能性があります」
誰かが小さく息を吐いた。
私も少しだけ肩の力が抜けた。
まだ終わりではない。
けれど職員はそこで説明を止めなかった。
「ただし受け入れるチームに空きがあることが条件になります」
教室が静かになった。
コーチが担当できる人数には限りがある。
今いるコーチたちはほとんど余裕のないところまで選手を受け持っている。
育成枠でどれだけ伸びても、それだけで新しい担当を増やせるわけではない。
私は隣に座った子を見た。
彼女も資料を見たまま動かなかった。
「今回スカウトされた走者はおおむね六か月以内にプロデビューします。その準備や実戦を経験する中で、プロを目指すことをやめる人もいます。怪我によって競技を続けられなくなる人もいます」
多くはないと職員は言った。
そこで欠員が出たとき、育成枠の中から代わりに所属する走者が選ばれることがある。
「育成枠から正式チームへ移れる人はあまり多くありません。その点は理解しておいてください」
私は資料の端を指で押さえた。
六か月あれば何とかなるだろうか。
そう考えかけていた。
でも自分が速くなるだけでは足りない。
空きが出るのを待たなければならない。
その少ない空きに私が選ばれなければならない。
六か月の終わりまでにチームへ入れなかった場合。
記録や成長、適性、練習への取り組みを含めて最終評価を受ける。
それから別の進路へ移ることになる。
正式チームに入った子たちはその間も担当コーチに教わる。
一人ひとりの課題を見てもらってレースへ向けた準備を始める。
私たちは大人数で基礎からやり直す。
今でも差があるのに。
これからもっと離されるのではないか。
それでも誰かがいなくなったときには、そこへ入れる自分でいなければならない。
私はさっき走路で見た子を思い出した。
コーチに声を掛けられ、両手で口元を押さえていた子。
あの子が諦めたら。
あの子が怪我をしたら。
そこまで考えて嫌になった。
そんなことを望みたくなかった。
自分が走りたいからといって誰かに走れなくなってほしいわけではない。
けれど空きが出なければ、私には行く場所がない。
膝の上で手を握った。
「質問はありますか」
職員が教室を見回した。
聞きたいことはあった。
私はプロになれますか。
でもそれを聞いても答えてもらえないことくらいは、分かった。
────────
寮へ戻ると、隣の部屋から笑い声が聞こえた。
チームが決まった友人が電話をしていた。
「うん。そう。コーチから声を掛けてもらえたの」
嬉しそうだった。
私は足音を小さくして、自分の部屋へ入った。
ベッドに座り、スマートフォンを出す。
母からメッセージが届いていた。
『どうだった?』
入力欄を開く。
駄目だった。
そこまで打って消した。
育成枠に入ることになった。
今度は消さなかった。
でも送信できなかった。
机の上には進路説明の資料がある。
私はそれを開いた。
競技指導科のページを読む。
次に競技医療科。
情報科学科と総合運営科も前よりゆっくり読んだ。
走者になること以外にもここで学べることはたくさんある。
私はルナリィだけれど、速く走る仕事を選ばなければいけないわけではない。
別の学科へ進んだ友人もいる。
自分の好きなことを見つけて楽しそうに話していた。
その子たちの選択を駄目だと思ったことはなかった。
それなのに自分が同じ道を選ぶかもしれないと考えると、喉の奥が苦しくなった。
何をしたいのだろう。
走者になれなかったら。
レースに出られなかったら。
私はこれから何を目指して暮らしていくのだろう。
資料を閉じた。
分からなかった。
今まで走ることを選べばいいと思っていた。
その先を初めて考えなければならなくなった。
スマートフォンが鳴った。
母だった。
「……もしもし」
『お疲れさま。今話せる?』
「うん」
『どうだった?』
私は膝の上の資料を見た。
「声、掛からなかった」
言ってしまうと急に目の前がぼやけた。
「育成枠だって。六か月、練習して……また見てもらうの」
『そう』
「ちゃんと走ったんだけど」
声が詰まる。
「最後まで、走ったんだけど」
母はしばらく黙っていた。
私は袖で目を拭いた。
拭いてもまた涙が出た。
『うん』
その返事を聞いてもう一度泣いた。
────────
育成枠の最初の練習日。
私は少し早く走路へ来た。
まだ誰もいないと思っていたのに、先に来ている子がいた。
靴紐を結び直している子。
準備運動をしている子。
黙ってトラックを見ている子。
説明会で見た顔だった。
私だけではなかった。
決められた場所に荷物を置き、出席の確認を受ける。
「身体に痛みや不調はありませんか」
「ありません」
答えてから自分の脚を確かめた。
昨日までと同じ脚だ。
模擬レースで前の子に届かなかった脚。
最後には後ろから抜かれた脚。
それでも今日も走れる。
練習が始まると、まず基礎的な身体の動きを確認した。
私はもっと速く走って見せたかった。
次こそ誰かの目に留まりたかった。
でも指示されたのはゆっくりした動きだった。
「急がなくていいです。次の一歩まで姿勢を保ってください」
やってみる。
思ったよりぐらついた。
もう一度。
今度は足元を気にしすぎて、上体が固くなった。
こんなこともうまくできないのか。
恥ずかしくなって周りを見る。
隣の子も同じところでやり直していた。
目が合うと、彼女は少し困ったように笑った。
私も小さく笑った。
練習の終わりに今日の記録と振り返りを書くように言われた。
私はノートを開いた。
模擬レースでは何ができなかったのか。
今日何が分かったのか。
次に何を確かめたいのか。
すぐには書けなかった。
ただ頑張ります。
もっと速くなります。
そう書こうとしてペンを止めた。
模擬レースの前も同じことを思っていた。
少し考えてから一行書いた。
『隣の子が前へ出ると、焦って追いかけた』
その下にもう一行。
『自分がどのくらいの速さなら最後まで走れるのか、よく分かっていない』
書いてみると嫌だった。
自分の足りないところが紙の上に残る。
閉じてしまいたくなった。
でも閉じなかった。
次の練習で聞いてみよう。
何を測ればそれが分かるのか。
今の自分にもできることはあるのか。
六か月後、チームに入れるかは分からない。
どれだけ練習しても、空きが出ないまま終わるかもしれない。
誰かが諦めるのを待つだけの毎日にはしたくなかった。
空きが出るかどうかは私には決められない。
でもそのときに自分がどんな走りをするのか。
それなら今日から変えていける。
入れなかったとき、別の道を選ぶことになるかもしれない。
その道についても考えていかなければならない。
それでも今はまだ、走者になりたかった。
私は日付を書いた。
育成枠、一日目。
ノートを閉じ、立ち上がる。
走路の向こうでは正式チームの練習が続いていた。
胸の奥がまた少し痛んだ。
いつか私もあそこへ行きたい。
荷物を持って歩き出すと、隣で練習していた子が声を掛けた。
「明日も早く来る?」
「……うん」
「じゃあまた明日」
「また明日」
それだけの約束をして別れた。
スカウトを待っていた日は誰も私の名前を呼ばなかった。
でも明日は自分からここへ来る。
私は靴紐が緩んでいないことを確かめて、寮へ続く坂道を上った。




