04話 見つける力
アキがコーチになってからしばらく経った。
担当している選手は全部で五人。
榊ナツメ、白瀬ミサキ、花森ユノ、高槻カナデ、雨宮アマネだ。
公開模擬レースではいずれも上位には入れなかった選手たちだった。
当然最初から注目されているわけではない。
「私、スタートが苦手なんです」
一人目の選手はスタート直後に他の選手から置いていかれてしまう。
「でも後半になると追いつけるんですよね」
アキは記録端末を見ながら頷いた。
「だったら最初を速くするだけが答えじゃないかもしれない」
「え?」
「君の場合最初に力を使いすぎると、後半の武器が消える」
アキは過去の練習記録を並べた。
「スタートから最初のコーナーまでの速度を少し抑えて、その分後半まで余力を残してみよう」
「そんな走り方でもいいんですか?」
「試してみよう。合わなければ変える」
二人目の選手は逆にスタートが得意だった。
問題はコーナー。
「コーナーに入ると身体が少し外へ流れてる」
「自分では分からないです」
「だから映像を撮ってみよう」
アキは正面、横、後方。
三方向から映像を撮った。
何度も再生する。
選手と一緒に画面を見る。
「ここ」
アキが停止させた。
「この瞬間にほんの少しだけ身体が外へ逃げてる」
「本当だ……」
「速度そのものよりここで余計な距離を走っていることが問題だと思う」
練習方法を変える。
コーナーだけを繰り返す。
一周ではなく短い区間を何度も走る。
三人目は速い。
しかしレースになると弱かった。
他の選手が横に並ぶと急に動きが硬くなる。
「周りを気にしすぎるんじゃないかな」
「……はい」
「じゃあしばらく一人で走る練習を増やそう」
「一人で?」
「自分の速度を自分で判断できるようにする」
四人目。
五人目。
それぞれ問題が違う。
だからアキの練習メニューも五人とも違った。
同じ練習を全員に与えることはしなかった。
アキにはまだ確立された育成理論がなかった。
どのタイプの選手には、この方法。
この能力なら、このメニュー。
そんな完成されたプランを持っているわけではない。
だからこそ――
選手を見る。
走りを見る。
記録を見る。
映像を見る。
そして考える。
「この子なら何を変えれば一番伸びる?」
毎晩指導記録を整理する。
過去のレース映像を探す。
競技理論の本を読む。
他のコーチの指導方法を調べる。
時には練習が終わったあとも競技場に残って一人で走路を眺めていた。
「……やっぱりここだな」
小さく呟く。
そして翌日。
また選手に新しい練習を提案する。
すぐに結果が出るわけではない。
それでも一週間。
二週間。
一か月。
少しずつ変化が出始めた。
最初に変わったのは一人目の選手だった。
以前なら最後まで走っても順位は下位。
ところがある模擬レースで――
残り半周。
後方にいた彼女が少しずつ前の選手との差を縮め始めた。
最後の直線。
一人。
また一人。
追い抜いた。
「……え?」
本人自身が驚いていた。
ゴール後アキが記録端末を確認する。
「自己ベスト更新」
「本当に……?」
「うん」
アキは笑った。
「まだ伸びると思う」
その言葉を聞いて選手の顔が明るくなる。
それを見ていた他の四人も刺激を受けた。
「私も負けない」
「次は私の番だから」
「コーチ、次の練習、もう一回やりたいです」
少しずつ。
本当に少しずつ。
五人の選手は変わり始めていた。
そしてその変化は本人たちだけのものではなかった。
ある日の昼休み。
学食でアキの担当選手たちが話していた。
「最近走るの楽しくなってきた」
「分かる」
「前は何を練習すればいいのか分からなかったもんね」
「アキ先生、ちゃんと見てくれてるよね」
「うん。私のこと私より分かってるんじゃないかって思う時ある」
その会話を別の生徒が聞いていた。
「アキ先生って、あの新人コーチ?」
「そう」
「最近担当の子たち速くなってない?」
「そうなの!」
そんな会話が少しずつ学園内に広がっていった。
「新人なのに選手の伸ばし方が上手いらしいよ」
「へえ」
「一人ひとり練習方法が違うんだって」
「それって結構すごくない?」
「しかも選手本人が気付いてないところを見つけるらしい」
評判は少しずつ広がっていった。
そして――
その話はサヤカのところにも届いた。
放課後。
更衣室へ向かう途中、友人たちが話している。
「ねえ、知ってる?」
「何?」
「アキコーチの担当選手、最近かなり伸びてるんだって」
「へえ……」
サヤカの足がほんの少しだけ止まった。
「新人なのに結構すごいらしいよ」
「へえ」
別の子が笑う。
「サヤカ、知ってるんじゃない?」
「え?」
「ほら、レース理論の授業。アキ先生だったでしょ?」
「……うん」
サヤカは答えた。
それだけなのに。
胸の奥が少しだけざわついた。
アキ。
競技場の端で選手を見ている姿。
教室でレース理論を説明している姿。
そして担当選手と一緒に練習している姿。
サヤカは思い出していた。
「……本当にそんなにすごいのかな」
「気になる?」
友人に言われてサヤカは少し慌てた。
「えっ……いや、そういう意味じゃなくて」
「ふーん?」
「……ただ、ちょっと気になるだけ」
自分でもなぜ気になるのか分からない。
サヤカには実績のある佐藤主任が付いている。
自分自身の練習だって忙しい。
わざわざ他のコーチのことを考える必要なんてない。
それなのに。
「山田先生……」
小さく名前を呟いた。
そしてふと思う。
――私が最初に走ったとき。
あの人は私の何を見ていたんだろう?
その日の夕方。
サヤカは競技場へ向かった。
いつもの練習のためだった。
トラックではアキが担当選手の一人と話している。
「今日はここまでにしよう」
「はい!」
選手が笑顔で答える。
その横顔を見てサヤカは立ち止まった。
以前より明らかに速くなっている。
「……本当に速くなってる」
サヤカは遠くからアキを見つめた。
アキはまだサヤカに気付いていない。
選手の記録を確認しながら何かを熱心に話している。
その姿を見ているうちに――
サヤカの中にひとつの感情が生まれた。
尊敬。
興味。
そしてそれだけでは説明できない何か。
「……なんか、気になる」
サヤカは自分でも不思議そうに呟いた。
その直後。
アキがふと顔を上げた。
視線が重なる。
サヤカは一瞬驚いた。
そして――
小さく頭を下げた。
アキも同じように頭を下げる。
それだけ。
まだ二人はほとんど言葉を交わしていない。
それでも。
以前とは違う。
サヤカの中でアキはもう単なる「新人コーチ」ではなかった。
――少し知ってみたい。
どんな人なのか。
どんな考えで選手を見ているのか。
そして――
自分が走ったとき何を見ていたのか。
サヤカは再びトラックへ向かった。
その背中をアキは一瞬だけ見送った。
二人の距離はまだ遠い。
けれど。
互いを意識する気持ちは確実に近づき始めていた。




