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風の隣人  作者: 馬込冷静
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03話 少しずつ、気になる存在

公開模擬レースが終わった翌日。


風環総合アカデミー、青嶺のコーチルーム。


西円寺サヤカは自分の担当となるコーチを前に、少し緊張していた。


「西円寺さん。今日から私が専属コーチを務めます」


目の前に立ったのは青嶺を率いる佐藤シュウイチ主任だった。

長年にわたってトップ選手を育ててきた経験豊富なコーチだ。


落ち着いた話し方。


無駄のない動作。


そして選手の走りを見る目には長年の経験が感じられた。


「よろしくお願いします」


サヤカは深く頭を下げた。


自分の走りを認めてもらえた。


そのことは嬉しかった。


同時に――。


昨日、競技場の端で自分の走りを見つめていた男性の姿がなぜか頭に浮かんだ。


名前も知らない。


話したこともない。


ただ、レースの途中で一度だけ視線を感じた。


「……」


サヤカは小さく首を振った。


今は競技に集中しなければならない。


自分にはこれから伸ばさなければならないものがたくさんある。


一方、星翔のコーチルームではアキが机に5人分の資料を並べていた。


榊ナツメ。

花森ユノ。

白瀬ミサキ。

高槻カナデ。

雨宮アマネ。


正式な返事を伝えたときの声と表情がまだ頭に残っている。


模擬レースの順位だけを見れば上位に入った走者たちではなかった。


それでも走りを見て、話を聞くほどに教えてみたいことが増えた。


ナツメが最後の競り合いまで力を残せたら。

ユノが先頭へ出る力をその先へ繋げられたら。

ミサキが感じ取っている風を自分の武器にできたら。

カナデが自分のリズムを活かして前へ出られたら。

アマネが迷わずあの伸びを使えたら。


その走りを見たくて3人には絞れなかった。


無理を承知で申請し、計画を見直し、ようやく認めてもらった5人だった。


アキはこれからの練習予定を開いた。


書類の上では収まっている。


だが実際に始まれば、予定どおりにいかないこともあるだろう。見落とすことも判断を誤ることもあるかもしれない。


それでも5人は自分の指導を受けると答えてくれた。


カナデは別のコーチの話も聞いたうえで、こちらを選んでいる。


その返事を嬉しいだけで終わらせたくなかった。


「……よし」


アキは椅子を引き、机へ向き直った。


まずは次の練習だ。


面談で聞いたことを1人ずつ資料へ書き足していく。自分が見た強みと本人が感じていたこと。そこから何を確かめるか。


勝たせたい。

自分の走りに自信を持ってほしい。


そのために自分には何ができるのか。


アキは最初の練習計画へ改めてペンを入れた。


翌日から二人の生活は別々になった。


サヤカは佐藤主任の指導を受ける。


フォームを修正し、筋力を鍛え、走行データを細かく分析する。


練習は以前より厳しくなった。


「もう一度」


「はい!」


「今度はコーナーへの入り方を変えてみよう」


サヤカは何度も走った。


一周。


また一周。


息を切らしながらも最後まで集中を切らさない。


少しずつ。


ほんの少しずつ。


以前より速くなっていった。


その頃、アキもまた別の場所で選手たちと向き合っていた。


「スタートで焦らなくていい」


「でもみんなに置いていかれます」


「最初の十秒で全部決めなくていい。最後まで走れる力があるんだから、それを使おう」


一人ひとりの走りを見て、記録を取り、練習方法を変える。


うまくいかなければまた考える。


アキ自身もコーチとして少しずつ成長していった。


そんな日々が続いた。


二人が直接話すことはなかった。


それでも――。


不思議なことがあった。


競技場に行けば遠くにサヤカがいる。


アキが選手たちを指導していると、別のコースをサヤカが走っている。


サヤカが休憩していると、反対側でアキが誰かのフォームを確認している。


距離は遠い。


声を掛けることもない。


けれど、ふと顔を上げると――


視界の端に相手がいる。


「……あ」


サヤカはトラックの向こうにアキを見つけた。


誰かの走りを真剣に見ている。


以前、公開模擬レースで自分を見ていたときと同じ顔だった。


サヤカはほんの少しだけ足を止める。


けれどすぐに前を向いた。


「サヤカ、次のメニューに入るぞ」


「はい!」


再び走り出す。


その背中をアキも一瞬だけ目で追った。


――また速くなったな。


そう思った。


だがすぐに自分の選手へ視線を戻す。


「よし。もう一度やってみよう」


二人とも自分の仕事に戻った。


それでも。


翌日も。


その次の日も。


二人は時々互いの姿を見つけた。


そしていつからか――。


サヤカはアキが指導している選手の走りを見るようになった。


「あの子、前より速くなってる……」


アキもサヤカの走りを見るようになった。


「コーナーの入り方が変わったな」


直接話すことはない。


競技者とコーチ。


それぞれ別の場所にいる。


それでも互いの成長が少しずつ見える。


サヤカは思った。


――あの人も頑張っている。


アキも思った。


――あの子も頑張っている。


まだ名前さえきちんと知らない。


それなのに。


いつの間にか相手の姿が目に入るようになっていた。


それは恋と呼ぶにはまだ早い。


ただ――。


自分とは違う場所で努力している気になる存在。


二人の距離はまだ遠かった。


けれどそれぞれの道を走り続けることで。


少しずつ同じ場所へ向かっていた。

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