19話 学園の日常
風環総合アカデミーの午前。
教室の前方に立ったアキはホワイトボードに今日の講義内容を書きながら、生徒たちを見渡した。
「じゃあ、今日はプロデビュー後の競技制度について話すぞ」
「はーい」
「山田先生、眠いです」
「それは俺に言われても困る」
教室に小さな笑いが起こる。
アキがこの学園で教え始めてからもう半年が過ぎていた。
その間に彼の担当する生徒たちだけでなく、学園全体から多くの生徒がプロデビューを果たしている。
もちろんプロとして走り始めたからといって、すぐに勝てるわけではない。
一度のレースで勝者は一人だけ。
デビューしたばかりの生徒の多くは当然ながら未勝利のままだった。
中には何度走っても勝てず、少しずつ自信を失い始めている生徒もいる。
そんな生徒たちを前にしてアキはいつもの調子で言った。
「まあ、まだ勝ってない奴も多いけど、そんな気にすんな!」
「……先生、それ慰めになってます?」
「なってるだろ」
「全然なってません」
「だって、一回のレースで勝てるのは一人だけなんだから。みんなが勝てるわけないじゃん」
「それはそうですけど……」
「だったら未勝利なのは当たり前。デビューしたばっかりなんだから、焦る必要ないって」
アキは笑った。
「勝つことだけ考えて走ると、走ること自体が嫌になっちゃうぞ。今は自分の走りを覚える時期だ。負けたら次に活かせばいい」
その言葉に生徒たちの表情が少しだけ和らいだ。
「……先生ってこういう時だけ妙に説得力ありますよね」
「こういう時だけってなんだよ」
また笑いが起こる。
アキが教師として人気を集めている理由の一つは、こういうところだった。
まだ若く、整った顔立ちをしていることもあり、生徒たちの間では密かに「イケメン先生」と呼ばれている。
本人はそのことを知らない。
そして知らないままのほうが幸せなのだろう。
「じゃあここからはみんな知ってると思うけど、一応確認しておこう」
アキは黒板に簡単な図を書いた。
「プロリーグにはクラスがある。初出走・未勝利から始まって、1勝、2勝、3勝、そしてオープン。勝ち上がっていくほど上のクラスになる」
生徒たちが頷く。
「もちろん、上のクラスに行けば相手も強くなる。だから一勝したから急に全部うまくいく、なんてことはない。逆に言えば今未勝利だからって自分には才能がないなんて考える必要もない」
アキは黒板を指で軽く叩いた。
「それと学園にいる間はもう一つ大きな目標がある」
「学生重賞……ですよね?」
「そう」
その言葉が出ると、教室の空気が少し変わった。
全国の学園からトップクラスの学生走者が集まる大きな舞台。
ただしそこを本格的に目指すのは二年生からだ。
「一年生のうちはまず自分の走りを作ること。二年生になったら、学生重賞を本格的に狙っていけばいい。今から焦って全部取りに行く必要はない」
アキはそこで一度黒板から離れた。
「それからもう一つ覚えておいてほしいことがある」
「市民リーグですか?」
「そう」
今度は「市民リーグ」と書く。
「市民リーグはプロリーグとは目的が違う。マラソンとかクロスカントリーとか、トレイルランニングとか、いろんな競技がある。プロを目指してない人も参加できるし、現役のプロだって参加できる。イベントによっては人間が参加できるものもある」
「へえ……」
「だからプロリーグだけが走る場所じゃない。学園にいる間でも、市民リーグのイベントに参加して構わないぞ」
アキは何気なく続けた。
「俺も走るの好きだから市民リーグには登録してるし」
「え?」
教室の空気が止まった。
「……先生、登録してるんですか?」
「うん」
「市民リーグに?」
「そうだけど」
アキは何でもないことのように答えた。
その瞬間一人の生徒が椅子を引いた。
ガタン、と大きな音がする。
教室中の視線が彼女に集まった。
彼女は少し緊張した様子で立ち上がる。
「せ、先生!」
「ん?」
「じゃあ……来週の市民マラソン大会、一緒にどうですか?」
一瞬の沈黙。
アキは何の疑いもなく答えた。
「市民マラソン?」
「はい!」
「えーっと……来週……」
アキはスマートフォンを取り出して予定を確認する。
「……ああ来週なら大丈夫だな」
「ほ、本当ですか?」
「ああいいよ」
その瞬間。
教室が爆発した。
「ちょっと待って!」
「抜け駆け禁止!」
「私も一緒に走ります!」
「先生、私も!」
「私も市民リーグ登録してます!」
「私もです!」
次々と生徒たちが立ち上がる。
「え、ちょっと待て、なんで急に……」
アキは完全に状況を理解できていなかった。
教室の後ろからも声が飛んでくる。
「先生、私も誘ってください!」
「いや誘うっていうか……」
「じゃあ先生、私と!」
「私も!」
「ちょっと落ち着けって!」
しかし生徒たちはなかなか落ち着かない。
その様子を見ながら、最初に誘った少女だけが少しだけ誇らしそうな顔をしていた。
彼女は知っていた。
ルナリィにとって男性に「一緒に走りませんか」と声をかけることが、単なる競技の誘いではないことを。
特に若いルナリィにとってはそれはかなり大胆な――ほとんどデートの誘いと受け取られる行為だった。
もっとも。
アキだけはその意味をまったく知らなかった。
その日の放課後。
職員室に戻ったアキを待っていたのは鈴木コーチだった。
「アキ」
「はい?」
「今日生徒から市民マラソンに誘われたそうだな」
「え?」
嫌な予感がした。
「……なんで知ってるんですか」
「職員室中に聞こえるくらい騒ぎになったからだ」
「……」
アキは黙った。
鈴木コーチは腕を組む。
「お前な。生徒から個人的な競技への誘いを受けて、一緒に参加するのがどういう扱いになるか、本当に知らなかったのか?」
「……競技に参加するだけですよね?」
「そういう問題じゃない」
声が一段低くなる。
「コーチと生徒には職務上の明確な線引きがある。市民リーグに登録することも、市民リーグの大会に参加することも問題ない。だが担当している生徒と個人的に待ち合わせて、一緒に大会へ参加するのは別の話だ」
アキは黙って聞いていた。
「まず生徒との個人的な競技活動は禁止だ。練習も大会参加も同じだ。指導として必要な活動なら、学園が把握した正式な指導として行う。そうでなければ、私的な交流と判断される」
「……なるほど」
「それだけじゃない」
鈴木コーチは続けた。
「二人きりになるような状況も避ける。大会の行き帰りに一緒に移動する、個人的に食事をする、大会後に二人だけでどこかへ行く。そういうことも担当生徒との関係では疑われる余地を作る」
「……はい」
「それから連絡先の交換も必要最小限だ。指導に必要な連絡は学園が指定した連絡手段を使う。個人的なメッセージのやり取りを増やすな」
アキは少し驚いた顔をした。
「結構細かいんですね」
「当たり前だ」
鈴木コーチは即答した。
「お前に悪意がないことは分かってる。だが職務規定は『悪気があったかどうか』で判断するものじゃない。コーチと生徒の間に何か問題が起きてからでは遅いんだ」
「……はい」
「それにお前はまだ新人だ。生徒から好意を向けられた時に、それをどう扱うかもコーチの仕事のうちだ」
その言葉にアキが顔を上げる。
「好意……?」
「そこから説明しなきゃいけないのか?」
鈴木コーチは呆れたようにため息をついた。
「ルナリィが男性に『一緒に走りませんか』と言う意味くらい指導者なら知っておけ」
「……」
「お前知らなかったんだな」
「……はい」
「そうか」
鈴木コーチは頭を抱えた。
「明るく『ああ、いいよ』じゃないんだよ」
「……すみません」
「今回の件は今からでも断ればいい。『職務上、生徒と個人的に大会へ参加することはできない』と伝えろ。それで終わりだ」
「分かりました」
「それから今後は生徒から個人的な誘いを受けても、その場で返事をするな。まず俺たち先輩に相談しろ。判断に迷ったら、必ずだ」
「はい」
「あと今回の件を笑い話で済ませるな。お前が教師として信頼されているからこそ、余計に気をつける必要がある」
アキは深く頭を下げた。
「……分かりました。気をつけます」
鈴木コーチは少しだけ表情を和らげた。
「まあ今回のことは勉強だ。新人なら知らないこともある」
「はい」
「ただし二度目はないぞ」
「……はい」
その日の朝教室で起きた騒ぎが頭に浮かぶ。
自分はただ一緒に走るだけだと思っていた。
けれど走者族にとって「一緒に走る」という言葉には、もっと別の意味がある。
そのことをアキはまだ知らなかった。
そして翌日の朝。
教室に入ったアキを待っていたのは、妙ににこにことした生徒たちだった。
「……なんだ?」
「先生」
「ん?」
「昨日の件残念でしたね」
「……なんの話?」
教室に笑い声が広がった。
アキは首を傾げた。
「だからなんの話だよ?」
その鈍感さに生徒たちはまた笑った。
風環総合アカデミー。
今日もまたいつも通りの日常が始まる。
ただしアキにとっては少しだけ――教師としての距離感を学ぶ一日になりそうだった。




