幕間5 一緒に走りませんか
進路選択は人生を左右する。
だから俺、桐谷ショウは、よく考えた。
資格。将来性。就職先。
専門課程へ進んでから、何を学び、どんな仕事をするか。
もちろんそういうことも考えた。
ただ競技指導科の説明を聞きに行った日、窓の外を練習着姿のルナリィたちが通り過ぎたことも、判断材料の一つではあった。
一つではあったが、割合については言いたくない。
金髪。銀髪。長い髪。短い髪。
頭の上で動く長い耳。
笑いながら歩く子も真面目な顔で記録を覗き込む子も、振り返ればもう一度見たくなる顔をしていた。
しかも彼女たちを支える仕事だという。
これは俺に向いている。
そう思った。
*
実際悪くない毎日だった。
「髪、切った?」
そう声を掛ければ、相手は足を止める。
「うん。分かる?」
「似合ってる。そっちのほうが好きだな」
「ありがと」
笑ってもらえた。
別の日には片付け中の子へ近づいた。
「それ、持とうか」
「あ、お願い。じゃあ、こっちも」
思っていたより重い箱がもう一つ増えた。
まあ頼られるのは悪くない。
俺は昔から女の子と話すのが苦手ではなかった。
相手を見て、変化に気づき、いいところを褒める。ちょっと笑わせる。困っていたら手を貸す。
大抵それでうまくいった。
少なくとも嫌われてはいなかったと思う。
助手実習でも選手たちは気軽に話してくれる。
「おはよう」
「今日もよろしくね」
「昨日の映像もう見られる?」
最後のは仕事の話だが、顔を覚えられている証拠にはなる。
ただ一つだけ妙なことがあった。
距離が近いわりにその先へ進まない。
笑っていた子へ昼休みに声を掛けても、
「ごめん、先に身体のチェック入ってる」
食事へ誘えば、
「みんなも呼んでいい?」
端末を覗き込むため肩が触れそうなところまで寄ってきた子も確認が済めば、
「ありがとう。じゃ、次の準備お願い」
とさっさと走路へ戻ってしまう。
脈があるのか、ないのか。
分かりにくい。
いや焦る必要はない。
こういうのは余裕が大事だ。
俺はそう判断していた。
*
レイカは以前から気になっていた。
チーム青嶺のエース格。
長い金髪と涼しげな青い目。歩いているだけで目を引く。
その日共用の練習場で見かけた彼女は、走り終えたところだった。
「お疲れ。今日も綺麗だね」
タオルを取ったレイカがこちらを見る。
「……ありがとう」
驚いた様子はなかった。
そう言われることは珍しくないのだろう。
俺は続けた。
「走りも凄かったよ」
「どこが?」
すぐに返ってきた。
「え?」
「さっきの。どこがよかった?」
青い目がまっすぐこちらを向いている。
「いや、全体的に。なんていうか、迫力あって」
「そう」
レイカは手元の記録へ目を戻した。
会話が終わりかけている。
俺は慌てず隣のユカへ目を向けた。
「何か直してたの?」
「最後の周の入り方。ちょっと変えてたんだよね」
ユカが言うと、レイカが頷いた。
「上げるところが早過ぎたから」
「でも、前よりよかったんじゃない?」
「数字を見てから」
二人は端末を覗き込んだ。
俺は端末の数字よりレイカの横顔を見ていた。
そして話へ戻るきっかけを失った。
*
市民マラソンの話を聞いたのは、その数日後だった。
休憩中のユカがミホへ参加案内を見せていた。
「今年も結構来るみたい」
「天気がよければいいね」
「レイカも申し込んだって」
俺は耳を傾けた。
市民リーグ。
授業でも扱っている。
マラソンやクロスカントリーなど、プロリーグとは違った競技や催しがあり、人間が参加できる大会もある。
俺は走るのが遅いほうではない。
一般の学校にいた頃は長距離走で上位に入っていた。
それに聞いたことがあった。
ルナリィに「一緒に走りませんか」と誘われたら、それはデートの誘いかもしれないと。
なるほど。
普段の練習場では彼女たちにも仕事がある。
周りの目もある。
休日の大会ならもっと自然に話せるはずだった。
走った後には腹も減る。
食事へ誘う流れまで無理がない。
俺は案内に目を落とした。
人間も参加できる種目がちゃんとあった。
*
当日の会場は思っていた以上に賑やかだった。
受付には列ができている。
準備運動をする若いルナリィの隣で、年配の女性が知り合いと話していた。人間の参加者もいる。親子連れらしい姿も見えた。
競技場で見る大会とは空気が違う。
記録を狙うらしく黙々と身体を温めている人もいれば、久しぶりに会った相手との話が終わらず仲間に呼ばれている人もいた。
「ここの主催って、JRAでしたっけ」
受付の掲示を見ながら俺は尋ねた。
スタッフの女性が顔を上げる。
「市民リーグ協会よ。JRAから支援は受けてるけどね」
「ああ、そっちでしたか」
知っていたという顔で頷いた。
後ろから別の声がした。
「もともとは同じところから育ったようなものだからねえ」
振り返ると、白いものの混じった髪を短くまとめたルナリィがいた。
受付を終えたらしくゼッケンを手に持っている。
「昔は地域のこういう集まりで走り方も教わったんだよ。どこで走っていいか、どうすれば危なくないか。速い子がいれば、大人が見てやってね」
「学園ができる前ですか?」
「今みたいに学校の勉強も私たちの走りのことも、同じ場所で教わる形になる前の話さ。普通の学校へ行って、走ることは地域で習ってた」
そこへユカとミホがやってきた。
「おはようございます」
「おや、おはよう。学園の子?」
「はい」
スタッフの女性が案内を整えながら話を継いだ。
「地域の活動から教育を専門にする学園や、全国の競技をまとめる組織へ分かれていったの。プロの競技を担うのが今のJRA。こっちは地域で走る場を続けてるわけ」
「じゃあ、ここがご先祖様ですね」
ユカが言うと、年配のルナリィは笑った。
「そんな偉そうなものじゃないよ。走りたい人が集まってただけさ」
その人の知り合いらしい女性が手を振って近づいてきた。
「今年は記録狙うの?」
「まず去年と同じくらいで走れれば」
「またまた。昨日も練習してたでしょう」
楽しそうに話しながら二人は準備の場所へ向かった。
「元プロなんですよ、あの方」
スタッフの女性が教えてくれた。
俺はその背中を見直した。
もっと若い頃の姿なら分かっただろうか。
「今も走るんですね」
「そりゃ、走るわよ。仕事を辞めたら、好きだったことまで辞めなきゃいけないわけじゃないもの」
隣でミホが小さく頷いた。
俺も頷いた。
そのとき向こうから金髪が見えた。
以後の話はあまり耳に入らなかった。
*
レイカは白と黒の練習着姿だった。
近づくと、こちらに気づく。
「あら。来てたの」
「うん。こういうの結構好きでさ」
今日申し込んだわけではない。
嘘ではなかった。
「レイカさん、よかったら一緒に走りませんか」
ユカがこちらを見た。
ミホも顔を上げた。
レイカだけが少し考えてから尋ねた。
「私のペースでいいの?」
「もちろん。走るのはわりと得意なんで」
「そう。無理なら先に行くけど」
「大丈夫、大丈夫」
余裕を見せて笑った。
レイカは頷いた。
横でユカが口を開きかけ、ミホに目を向けた。
二人の間で何かが通じたらしい。
何となく気分がよかった。
*
スタートの後しばらくは人が多く、思ったほど速く進めなかった。
俺はレイカの隣を走った。
「普段もこういうの出る?」
「ときどき」
「俺長い距離は得意なんだよね。短距離より、こっち」
「そうなんだ」
レイカは前を見ていた。
前方の間隔が開く。
彼女は周囲を確かめ、滑らかに速度を上げた。
俺もついていく。
少し速い。
だがまだ走れる。
「天気、よくてよかったよな」
返事を聞く前に呼吸が一つ余計に入った。
「ええ」
レイカは普通の声だった。
俺は足の回転を上げた。
少し速い、と思った速度がずっと続く。
最初だけではない。
緩む気配がない。
隣を見た。
金髪が規則正しく揺れている。
肩も、腕も、脚も何の無理もなく動いていた。
俺は前を向いた。
話題を考える余裕がなくなっていた。
*
どこまで走ったのか。
まだそれほどではないはずだった。
息が苦しい。
脚より先に胸が駄目だった。
吸っているのに、足りない。
レイカがこちらを見た。
「落とす?」
俺は首を振った。
「だい、じょうぶ」
こんなところで。
まだほとんど話していない。
食事の話も連絡先の話もしていない。
レイカは俺の顔をもう一度見た。
「無理しなくていいわよ」
「して、ない」
答えた直後、足音が乱れた。
彼女がわずかに速度を落とす。
それが分かった。
分かってしまった。
こちらを気遣い、簡単に落とした。
彼女には上げるのも下げるのも同じくらい容易だった。
俺は歯を食いしばった。
数歩だけまた並んだ。
数歩だった。
「……先、行って」
ようやく言うと、レイカは頷いた。
「じゃあ、ゴールで」
そして離れていった。
急に全力を出したようには見えなかった。
ただ自分の走りへ戻っただけだった。
俺は速度を落とした。
落としても、息は戻らなかった。
*
追いつけないことくらい知っていた。
当たり前だ。
俺は人間で、向こうはルナリィだ。しかもプロの走者。
本気になれば違うに決まっている。
だが普通は。
普通はもう少し。
そこまで考えて、腹が立ってきた。
せっかく誘ったのに。
一緒に走ろうと言ったのに。
会話くらいできる速度で――。
足元を見ながら走っていると、横を二人連れが通り過ぎた。
ルナリィの女性と人間の男性だった。
「速くない?」
「大丈夫」
「ほんと? さっきもそう言ってたよ」
女性が笑う。
男性は苦笑して何か答えた。
二人は並んだままゆっくり俺の前へ出た。
俺はその背中を見送った。
*
ゴールしたとき、レイカはもう上着を着ていた。
ユカとミホも戻っている。
俺は少し離れた場所で息を整えた。
すぐに近づくのは何となく嫌だった。
脚は重い。
汗で髪が額へ張りついている。
手で直したが、うまく戻らなかった。
「お疲れ」
ユカの声に顔を上げる。
「……お疲れ」
「大丈夫?」
「まあ。ちょっと、最初飛ばし過ぎた」
言ってからレイカを見た。
彼女は水を飲み、蓋を閉めた。
「思ってたペースと違った?」
「いや、まあ……」
笑うつもりだった。
「普通ああいうときって、もうちょっと男のほうに合わせてくれるものかと」
ユカの顔から笑みが薄れた。
言わなければよかった、と一瞬思った。
だがもう口に出ていた。
レイカがこちらを見る。
「合わせてほしかったの?」
「そういうわけじゃないけど。一緒に走るって、ほら」
「私のペースでいいか、聞いたでしょう」
「いや、それは――」
何と言えばいいのか、分からなかった。
レイカは怒鳴らなかった。
「途中でも聞いたわよ」
そのとおりだった。
俺は水のボトルへ目を落とした。
ユカが何か言いかけたが、ミホは黙っていた。
二人の前でこれ以上情けない顔をしたくなかった。
「……一緒に走りたかっただけなんだけどな」
声に少し棘が混じった。
レイカは短く答えた。
「私も走りたくて来たのよ」
俺は顔を上げた。
彼女は俺を見ていた。
返事が出なかった。
*
三人は少し先の参加者に声を掛けられた。
受付にいた元プロの女性だった。
「学園の子たち、どうだった?」
「気持ちよかったです。そちらは?」
レイカが答える。
「去年よりよかったよ」
「どれくらい?」
「少しだけ。でも、最後まで落とさず行けた」
「それ嬉しいですね」
女性が笑った。
レイカも笑った。
俺に向けていた顔とまるで違う。
そう思いかけてやめた。
違う話をしているのだから、違う顔にもなるだろう。
近くでは初めて完走したらしい女性が、仲間に記録を見せていた。
別のところでは若い走者が悔しそうにコース図を指している。
誰も同じようには走っていなかった。
それでも話すことがあった。
俺はレイカと何を話すつもりだったのか考えた。
綺麗だね。
普段何してるの。
この後暇?
走る場所でなくてもよかった。
彼女が何をしに来たかは考えていなかった。
*
「それで」
戻ってきたユカが言った。
「レイカの走り、どうだった?」
軽い声だった。
だが笑ってはいなかった。
俺は口を開いた。
速かった。
それは言える。
凄かった。それも言える。
だがそれは走る前から知っていた。
「……見る余裕、なかった」
答えるとユカは小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
笑われるほうがまだ楽だった。
*
帰り道何度かスマートフォンを取り出した。
知り合いに今日のことを送ろうと思った。
青嶺のエースと走ってきた。
さすがに速過ぎ。
あれは人間には無理。
そこまで打って消した。
間違ってはいない。
だがその書き方なら、何も間違えなかった俺が出来上がる。
画面を消し、ポケットへ戻した。
あの二人連れを思い出した。
女性は男性に速度を合わせていた。
できないのではない。
レイカだって途中で落としてくれた。
俺はそれを断った。
最初に自分のペースでいいかと聞かれた。
途中で落とすかと聞かれた。
どちらにも格好をつけた。
合わせてもらうのが当然だと思っていたくせに、合わせてほしいとは言えなかった。
そこまで分かって、また腹が立った。
今度は誰へ向ければいいのか分からなかった。
*
翌朝階段で脚が痛んだ。
平気な顔で下りようとして、手すりを掴んだ。
誰にも見られていなかったことを確認してから、ゆっくり下りた。
実習先ではいつもどおり準備が始まっていた。
俺は端末を受け取り、計測機の番号を確認した。
選手名と照らし合わせる。
一つ違っていた。
以前ならたぶん大丈夫だと流したかもしれない。
「すみません。ここの割り当て、変わってますか」
担当の補佐がこちらを見た。
「ああ。昨日変更した。伝わってなかったか」
「直しておきます」
「頼む」
それだけだった。
誰も昨日の俺の惨敗を知らない。
何となく拍子抜けした。
同時に少し助かった。
*
昼前共用設備の近くでレイカを見かけた。
向こうも気づいた。
一瞬知らないふりをしたくなった。
だがそれはそれで、昨日を気にしているように見える。
俺は近づいた。
「昨日ごめん」
レイカが足を止める。
「何が?」
「俺のペースに合わせてもらうつもりだった。それを言わないで後から文句言った」
口にすると、思っていたよりみっともなかった。
レイカは少し黙り、それから頷いた。
「分かった」
それで終わった。
許してくれる笑顔も、感心した様子もなかった。
俺の謝罪で急に距離が縮まることもなかった。
「じゃあ、私練習だから」
「あ、うん」
彼女は走路へ向かった。
俺はその背中を見ていた。
謝ったところをユカあたりが見ていなかっただろうか。
そこまで考えて自分でも嫌になった。
*
午後選手の一人が記録を確認しに来た。
「今日、どうでした?」
いつもの調子なら笑って言えた。
よかったよ。
凄かった。
頑張ってたね。
俺は端末を見た。
一本目と二本目。
区間ごとの数字。
正直まだ自分だけでは判断できない。
相手が待っている。
「……最後の区間は一本目より速いです」
まず分かることを言った。
「でも全体としてどうなのかはまだ分からない。確認してきます」
選手は頷いた。
「お願いします」
俺は補佐のところへ向かった。
よく分かっている顔をするより、時間がかかった。
*
帰り際、掲示板の前で足を止めた。
市民リーグの次の催しが貼られていた。
今度は最初から自分のペースで走ろうと思った。
誰かを誘うかどうかはその後だ。
案内を撮影し、スマートフォンをしまう。
廊下の向こうから髪を短くした女の子が歩いてきた。
「あれ、髪切った?」
「昨日も言ったよ、それ」
「……そうだったっけ」
「うん」
彼女は笑った。
俺も笑って、道を空けた。
可愛い子だった。
それは、どうしたって思う。
ただその笑顔一つで今日の俺まで格好よくなったような気がするのは、少し控えようと思った。




