幕間4 夜の街
本話の後半には性的な描写が含まれます。苦手な方は次話へお進みください。本話を読まなくても、以降の展開を理解するうえで支障はありません。
夜の街は昼間よりも少しだけ距離が近い。
仕事を終えた人々が行き交う大通りを、アキと藤沢アイナは並んで歩いていた。
「今日は本当にありがとう」
アキが言う。
「何が?」
「資料。あのデータも、アイデアも。かなり助かった」
「今さら?」
アイナは笑った。
「昔からそうじゃない。アキって一人で全部抱え込もうとするから」
「……否定できないな」
「でしょう?」
アイナはそう言って少しだけアキの肩に身体を寄せた。
昔と同じ距離だった。
それが妙に懐かしくて、アキは何も言わなかった。
二人は昔同じ職場で働いていた。
忙しい時期も、うまくいかない時期も、一緒に乗り越えてきた。
だからこそ別れた後も完全に他人になることはできなかった。
会えば話が弾む。
近況を聞けば気になる。
そして――こうして隣を歩けば、昔の感覚が簡単に戻ってきてしまう。
「ねえ、アキ」
「ん?」
「まだ私のこと、走者として見てる?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味」
アイナは悪戯っぽく笑った。
「昔からそうだったじゃない。私と一緒にいると、すぐ走りの話になる」
「それは……」
「ほら」
「職業病なんだよ」
「便利な言葉ね」
食事を終えて店を出た後も、二人はすぐには別れなかった。
どちらからともなく歩き続け、やがて駅から少し離れた静かな通りへ入る。
会話が途切れる。
けれど気まずくはなかった。
むしろ何も言わない時間のほうが、互いの気持ちをはっきりさせているようだった。
アイナが足を止める。
「……今日は帰る?」
アキも立ち止まった。
「アイナが帰りたいなら」
「質問に質問で返すなって」
「じゃあ……帰りたくない」
アイナはしばらくアキを見つめた。
そして小さく笑う。
「私も」
その一言だけで十分だった。
*
部屋に入ると、街の喧騒が遠くなった。
扉が閉まる。
アイナは振り返り、アキを見る。
「なんか変な感じ」
「何が?」
「こういうの何度目だっけ」
「数えてない」
「私も」
二人とも笑った。
その笑いが消える頃には、二人の距離はもうほとんどなかった。
アイナがアキの胸元に手を置く。
アキもその手を取る。
目が合う。
次の瞬間、二人の唇が重なった。
最初は確かめるようなキスだった。
けれど離れて、また触れて。
今度は互いにためらわない。
昔から知っている相手だからこそ、どこまで近づけばいいのかを言葉で確認する必要がなかった。
アイナがアキの服を掴む。
「……アキ」
「ん?」
「今だけはコーチの顔しないで」
「してないだろ」
「してる」
「どこが」
「目」
アキは苦笑した。
「そんなに分かるか?」
「分かるわよ。何年一緒にいたと思ってるの」
そう言ってアイナはまたアキに口づけた。
今度はアキも何も言わなかった。
二人の間にあった服も、時間も、別れてから積み重ねてきた距離も、少しずつ意味を失っていく。
やがて二人はベッドへ移った。
アイナは隣に横たわったアキを見て、ふっと笑う。
「……相変わらずね」
「何が?」
「体つき」
アキは自分の身体を見下ろした。
「普通だろ」
「普通って言うには鍛えてるでしょう」
「アイナに言われてもな」
アキはそう言いながらアイナの身体に目を向けた。
現役のプロ走者。
無駄のない身体。
細身に見えるのにそこには走るための強さが詰まっている。
人間の男性であるアキのほうが体格だけなら大きい。
肩幅も、腕も、身体の厚みもアキのほうが上だ。
だが――それが走者族の強さを測る基準にはならない。
アキはそれを誰より知っていた。
「……やっぱりすごいな」
「何が?」
「身体」
「今さら?」
「いや」
アキは真面目な顔になった。
「アスリートとしてまだまだいけると思う」
「……」
アイナは数秒黙った。
「アキ」
「なんだ?」
「こんな時までそれ?」
「褒めてるんだけど」
「分かってるから余計に腹立つのよ」
アイナは呆れたように笑った。
そして次の瞬間身体を返してアキの上へ覆いかぶさる。
「だったら――」
アイナが顔を近づける。
「プロ走者の実力ちゃんと見てみる?」
「……それ、そういう意味で言ってるのか?」
「どう思う?」
答える代わりにアイナがキスをした。
今度はアイナが主導だった。
アキが何か言おうとしても、そのたびに唇を塞がれる。
「今日は私のペースだから」
「……分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは『はい』でしょう」
アイナが笑う。
その笑顔は競技場で見せるものとも、仕事中に見せるものとも違った。
昔のアイナ。
アキが一番よく知っていた頃のアイナだった。
それから先は二人だけの時間になった。
言葉は少なくなり、代わりに互いの存在を確かめるように抱き合う。
何度もキスをして、笑って、また抱きしめる。
アイナは最後まで自分のペースを崩さなかった。
アキはそれを受け入れながら、時折昔と変わらない彼女の表情を見つめていた。
懐かしい。
嬉しい。
そして――少しだけ苦しい。
この時間が終わった後二人はまた別々の場所へ戻らなければならない。
その事実だけはどれだけ身体を近づけても消えてくれない。
やがて夜は深くなった。
互いに満たされた頃には、二人とも言葉を交わす余裕すらなくなっていた。
アイナがアキの胸元に顔を埋める。
アキはその背中に腕を回す。
しばらくどちらも動かなかった。
「……疲れた」
アイナが呟く。
「俺も」
「でも悪くない」
「ああ」
短い会話。
それだけで十分だった。
アキはアイナの髪を撫でる。
昔もこうしていた。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「アイナ」
「なに?」
「俺たち……」
そこまで言ってアキは口を閉じた。
「……なんでもない」
アイナは何も聞かなかった。
ただアキの胸に頬を寄せたまま小さく笑う。
「そういうところ変わらないね」
「何が?」
「言いたいことを最後まで言わないところ」
「……アイナだって」
「私はいいの」
「なんで」
「女だから」
「理屈になってないだろ」
「いいの。今日は私のペースだから」
アキは苦笑した。
「はいはい」
アイナも笑う。
二人はそのまま身体を寄せ合った。
外では夜の街がまだ動いている。
車の音。
遠くの人の声。
どこかで鳴る信号。
そのすべてが厚い窓の向こうへ遠ざかっている。
アキは目を閉じた。
腕の中にいるアイナの体温を感じる。
明日になればまたそれぞれの生活に戻る。
アイナはプロ走者として走り続ける。
自分はコーチとしてサヤカのために考え続ける。
昔のようにいつも一緒にいることはもうできない。
それでも。
こうして互いを必要とする瞬間がまだ残っている。
それをどうすればいいのか。
アキにはまだ答えが出せなかった。
「……おやすみ、アキ」
「おやすみ、アイナ」
二人は身体を重ねたまま静かに眠りへ落ちていった。




