18話 その資料、全部見せろ
チーム青嶺のコーチルーム。
佐藤主任は机の上に置かれた数枚の資料に目を通していた。
向かいには今回の視察を依頼した鈴木コーチが座っている。
「それで、どうだった?」
佐藤主任が尋ねる。
鈴木コーチは少し考えてから答えた。
「サヤカは確かに伸びています」
「やはりそうか」
「ええ。以前より明らかに速くなっている。トレーニングの成果も出ています」
「若手の連中はだいたい同じような感想でしたよ。『以前より速くなった』『フォームが安定している』『今後が楽しみですね』。まあ、悪くはないですけど」
鈴木コーチは苦笑した。
「つまらない」
「だろ?」
2人の間に小さな笑いが起こった。
そこで一度言葉を切る。
「ただ……1人だけちょっと面白い反応をしたコーチがいました」
佐藤主任が顔を上げる。
「アキです」
「……アキ?」
「アキだけはサヤカの走りを見たあと、少し黙っていた」
「何か言っていたか?」
「『速くなったこと自体は問題ない。でも……』と」
「でも?」
「そこから先はまだ仮説だと言っていました」
佐藤主任は腕を組んだ。
「ほう」
「今の走り方にほんのわずかな再調整が入っているように見える、と」
佐藤主任の表情が変わった。
「……再調整」
「本人の意識より先に身体が動こうとしている可能性がある。そんなことを言っていました」
しばらく沈黙が続いた。
「アキは以前からサヤカのことを調べていたのか?」
「かなり」
鈴木コーチは苦笑した。
「実績評価は上々です。5人の選手を見ながら、短期間でチームとして結果を出している。分析力もある」
「ミサキの勝利か」
「それだけじゃありません。5人それぞれの走り方をかなり細かく把握しているようです」
佐藤主任は資料を見る。
「……サヤカを任せてみるか」
鈴木コーチが少し驚いた。
「本気ですか?」
「まだ決めてはいない」
佐藤主任は資料を置いた。
「だが検討する価値はある」
ただしすぐに問題が浮かぶ。
「今のアキのチームは5人だろう」
「はい」
「これ以上増やせば、1人で見るには無理がある」
「スタッフを追加するか」
「あるいは選手を移すか」
2人は顔を見合わせた。
簡単な問題ではない。
アキがサヤカを担当するなら、現在の5人をどうするのか。
スタッフを増やすなら、誰を配置するのか。
選手を他のチームへ移すなら、本人たちへの説明も必要になる。
「……まずは本人の考えを聞きましょう」
鈴木コーチが言った。
「そうだな」
佐藤主任は立ち上がった。
「アキを呼ぼう」
***
数十分後。
チーム青嶺のコーチルーム。
扉をノックする音が響いた。
「失礼します」
入ってきたのはアキだった。
「座ってくれ」
「はい」
アキは佐藤主任の向かいに座った。
その横には鈴木コーチ。
そして机の上には何枚もの資料が並べられている。
「今回君にもサヤカの視察に参加してもらった」
「はい」
「そこで聞きたい」
佐藤主任がアキを見る。
「君はサヤカの走りをどう見た?」
アキは少しだけ考えた。
そして――
「……資料を見ていただいてもいいですか?」
そう言って一冊のファイルを取り出した。
かなり分厚い。
鈴木コーチが目を丸くする。
「これは?」
「サヤカについて調べた資料です」
「どれくらいあるんだ?」
「全部合わせるとかなりあります」
アキは苦笑した。
「正直時間を使いすぎました」
ページを開く。
そこにはサヤカのレース記録。
練習記録。
映像から読み取ったフォームの変化。
速度の推移。
加速区間。
コーナーでの速度。
終盤の伸び。
そして過去の走者族競技者の記録まで整理されていた。
佐藤主任が眉を上げる。
「……随分調べたな」
「はい」
アキは資料を一枚ずつ並べていく。
「最初は単純にサヤカの能力を知りたかっただけです」
第一戦。
第二戦。
その後の練習。
そして現在。
「でも調べれば調べるほど、普通の成長として説明するには少し引っかかる部分が出てきました」
「どこだ?」
アキは一枚のグラフを指差した。
「ここです」
そこにはサヤカの速度変化が記録されていた。
「サヤカは最高速度そのものが極端に高いわけではありません」
佐藤主任は黙って聞いている。
「ただ速度を上げるときの動きに特徴があります」
アキは別の資料を出した。
「一戦目」
映像の一場面。
「二戦目」
そして現在の練習映像。
「そして今回」
三つの映像を並べる。
「見てください」
一見すると大きな違いはない。
だが。
「ここです」
アキが映像を止めた。
「一戦目ではここから身体全体が自然に前へ流れています」
「……」
「二戦目では少し早い段階で速度を上げています」
「うむ」
「そして現在は――」
アキが三つ目の映像を拡大する。
「身体が一瞬だけ次の動きを探しています」
鈴木コーチが画面を見る。
「探している?」
「正確にはそう見えるだけです」
アキはすぐに付け加えた。
「ここは重要です。これは僕の仮説であって、確定した事実ではありません」
佐藤主任が頷く。
「続けろ」
「はい」
アキはさらに資料をめくった。
「僕が考えているのはサヤカの能力が現在の身体能力だけではなく、本人がまだ認識していない走り方へ変化している可能性です」
「……」
「だから今までのトレーニングが間違っていると言いたいわけではありません」
アキは佐藤主任を見る。
「むしろ逆です。現在のトレーニングによってサヤカの能力は確実に伸びています」
これははっきりと言った。
「今回の走りを見ても、それは間違いありません」
佐藤主任は黙っている。
「問題はその先です」
アキは一枚の紙を机の中央へ置いた。
そこには大きく三つの項目が書かれていた。
速度
身体の感覚
意識
「この三つが今のサヤカの中で完全には一致していないんじゃないかと考えています」
鈴木コーチが身を乗り出す。
「つまり?」
「身体は速くなっている。でも本人が感じている『自分の走り』がそれについてきていない」
アキは続けた。
「だから本人は遅くなったとは感じていない。それでも『走りにくい』と感じる」
佐藤主任の目が細くなる。
「……サヤカが以前言っていたことと一致するな」
「はい」
アキは頷いた。
「僕はそれを無視したくありません」
部屋が静かになる。
「もっと速くすることはできます」
アキは言った。
「でもそれだけではサヤカ自身が納得できる走りにはならない可能性がある」
そして次の資料を出した。
「だから僕が提案したいのは、記録を伸ばすための新しいトレーニングではありません」
佐藤主任が資料を見る。
「サヤカ自身がどんな状態のときに自然に身体を動かせるのかを探します」
「具体的には?」
「速度を固定しません」
アキは説明を続けた。
「短距離、中距離、長めの距離。単独走、集団走。追う状況、追われる状況。コーナーへの進入速度も変える」
さらに一枚。
「そのときの速度だけじゃなく、本人がどう感じたかを毎回記録します」
「主観を取るのか」
「はい」
「身体データと合わせる?」
「そうです」
心拍。
速度。
歩幅。
接地時間。
加速。
疲労。
そして本人の感覚。
「客観的なデータと主観的な感覚を並べていきます」
アキは一度息を吸った。
「そうすればサヤカが『走りやすい』と感じたときに、身体では何が起きているのか見えてくるかもしれません」
佐藤主任は資料をじっと見つめた。
「……もし何も見つからなかったら?」
「そのときは何も見つからなかったという結果が出ます」
アキは即答した。
「それでも今よりは分かります」
鈴木コーチが小さく笑った。
「なるほどな」
アキは少し照れたように頭を掻いた。
「実はずっと言いたかったんです」
「何を?」
「サヤカの指導について」
アキはファイルを見る。
「でもチーム青嶺で預かっている選手ですし、僕は自分のチームを持ったばかりです」
だから今までは口を出さなかった。
「それに僕の考えが間違っている可能性もあります」
アキは正直に言った。
「だから遠慮していました」
そして佐藤主任を見る。
「でも今回実際に走りを見て……」
少しだけ笑った。
「もう黙っている理由がなくなりました」
佐藤主任はしばらく何も言わなかった。
やがてゆっくりと椅子へ背を預ける。
「……アキ」
「はい」
「君はサヤカを速くしたいのか?」
「はい」
「それだけか?」
アキは少し考えた。
そして答えた。
「……いいえ」
「なら何だ?」
アキはサヤカの映像を見る。
画面の中で、長い耳を揺らしながら走る少女。
「サヤカが自分の走りを見つけるところを見たいんです」
その言葉に佐藤主任は黙った。
鈴木コーチも何も言わない。
やがて佐藤主任は資料を閉じた。
「分かった」
アキが顔を上げる。
「まだ君の仮説が正しいとは認めない」
「はい」
「俺の今までの指導が間違っていたとも思っていない」
「はい」
「だが――」
佐藤主任は机の上の分厚いファイルを軽く叩いた。
「ここまで調べた人間が、実際に本人の走りを見ながら検証したいと言っている」
そしてアキを見る。
「一度やってみる価値はある」
アキの表情がわずかに変わった。
「では……」
「ただし条件がある」
「はい」
「サヤカ本人の意思を最優先する」
「もちろんです」
「無理に今までのトレーニングを捨てるな。俺の指導も必要なら使う」
「分かっています」
「そして君の5人の選手をどうするかは別問題だ」
そこだけは現実的な問題として残っている。
アキも頷いた。
「はい」
「スタッフを増やすか、選手を移すか。それを含めて体制を考える」
佐藤主任は立ち上がった。
「その準備ができるまで、正式には任せない」
「分かりました」
アキも立ち上がる。
しかし。
「……アキ」
「はい?」
「その資料」
佐藤主任がファイルを指差した。
「少し貸してくれ」
「全部ですか?」
「全部だ」
アキは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……はい!」
いつになく嬉しそうに答えた。
チーム青嶺のコーチルームを出たあと。
廊下を歩きながらアキは小さく息を吐いた。
まだ何も決まっていない。
サヤカを担当できるとも決まっていない。
自分の仮説が正しいとも限らない。
それでも――。
初めて自分がずっと考えてきたことを正面から話すことができた。
そして今。
サヤカの「走り」を探すための扉がほんの少しだけ開いた。




