17話 打診
数日後。
アキのもとに一件の連絡が入った。
差出人はアキの指導役を務める鈴木コーチだった。
「……珍しいな」
アキはメッセージを確認する。
内容は簡潔だった。
――チーム青嶺の練習を見学したい。
――サヤカという選手の走りを見てほしい。
それだけだった。
理由については何も書かれていない。
「サヤカの走りを……?」
アキは少し考えた。
鈴木コーチは現在は学園内で中規模のチームを率いている。
佐藤主任とも昔から付き合いがあることは知っていた。
そして何よりアキ自身も鈴木コーチから指導を受けた経験がある。
「……何か聞いたのか?」
そう思ったが、深く考えても仕方がない。
見学を断る理由もなかった。
数日後。
チーム青嶺の練習場に数人のコーチが姿を見せた。
先頭に立っているのは鈴木コーチ、その後ろに数人の若手コーチ。
そしてその中にアキもいた。
「今日は練習の邪魔をしないように端で見せてもらう」
鈴木コーチが若手たちに言う。
「特に目的は決めていない。自分の目で見て自分で考えろ」
若手たちはそれぞれ頷いた。
アキも黙って競技場を見る。
チーム青嶺ではいつも通り選手たちが練習している。
助手たちはそれぞれ担当する選手に付き添い、佐藤主任も全体を見ながら指示を出していた。
そして――。
「サヤカが来たぞ」
鈴木コーチが小さく言った。
アキの視線が自然にそちらへ向く。
サヤカはトラックに入ると、軽く身体をほぐした。
以前に比べて身体つきが変わったわけではない。
フォームが大きく変わったわけでもない。
だが――。
「……速い」
アキは思わず呟いた。
サヤカが走り始める。
最初の数歩。
そこから徐々に速度が上がっていく。
以前アキが見た走りより明らかに速い。
二戦目のレースで見せた加速よりもさらに鋭くなっている。
「……これが今のサヤカか」
アキは目を細めた。
佐藤主任が積み重ねてきたトレーニング。
レース経験。
サヤカ自身の努力。
そのすべてが確実に結果として現れている。
「やっぱり佐藤主任の指導に間違いはない」
アキは素直にそう思った。
少なくともサヤカをここまで伸ばしたことについて疑う余地はない。
その横で鈴木コーチが若手たちに声を掛ける。
「よく見ろ」
全員がサヤカに視線を向ける。
「速さだけを見るな。フォーム、呼吸、接地、加速のタイミング。周りとの距離も見ろ」
若手たちは真剣な表情でサヤカを追う。
「何か感じたことがあれば覚えておけ」
鈴木コーチはそれ以上何も言わなかった。
しばらくして練習が終わる。
サヤカがトラックを離れる。
若手コーチたちはそれぞれに考え込んでいた。
鈴木コーチが振り返る。
「じゃあ聞こうか」
「え?」
「今の走りを見て何を感じた?」
若手たちが顔を見合わせる。
最初に一人が答えた。
「かなり速いですね。前より明らかに伸びています」
「俺もそう思います。フォームも安定してますし、問題があるようには見えません」
「加速もいいです。二戦目の時よりさらに反応が良くなっていると思います」
鈴木コーチは頷きながら聞いていく。
そして最後にアキを見る。
「アキ、お前は?」
「……」
アキは少し考えた。
今見た走りを頭の中でもう一度再生する。
速くなっている。
間違いなく速くなっている。
フォームにも大きな問題はない。
佐藤主任の練習もきちんと成果を出している。
それでも――。
「……一つ気になりました」
鈴木コーチが少しだけ表情を変える。
「何だ?」
「サヤカは速くなっています。でも……」
アキはトラックを見る。
「本人はまだ走りにくいんじゃないでしょうか」
若手たちが黙る。
「どうしてそう思う?」
「走りそのものに問題があるわけじゃありません」
アキは慎重に言葉を選ぶ。
「むしろかなり完成度が上がっています。ただ……」
頭の中に何度も見てきたサヤカの走りが浮かぶ。
「速くなればなるほど途中で一瞬だけ動きを合わせ直しているように見えました」
「合わせ直す?」
「はい」
アキは頷く。
「自分で速度を落としているわけでもない。疲れているわけでもない。でも何かを確認するように一度だけ身体を調整している」
「……」
「ほんの一瞬です。普通なら見落とす程度のものです」
鈴木コーチは黙って聞いている。
「それが以前からサヤカが言っている『走りにくさ』と関係しているんじゃないかと思います」
若手の一人が口を挟む。
「でも今の走りを見る限り、かなり速いですよね?」
「はい」
アキは即答した。
「だからこそ気になります」
「……どういう意味だ?」
鈴木コーチが尋ねる。
アキは少し迷った。
まだ確信はない。
自分でも仮説にすぎないことは分かっている。
「もしかすると……サヤカにとって今の速さが『限界』じゃないのかもしれません」
鈴木コーチの目が細くなる。
「……続けろ」
「今のサヤカは速くなること自体はできている。でも、その速さに身体の感覚が追いついていないというか……」
アキは言葉を探す。
「いや、少し違う」
「……」
「身体が追いついていないんじゃない。逆なのかもしれません」
「逆?」
「身体の方が先に行こうとしているのに、本人が無意識にそれを抑えている」
その場に沈黙が落ちた。
アキ自身も自分の言葉を反芻する。
まだ証拠はない。
ただ、これまで見てきたサヤカの走りと、彼女が繰り返してきた言葉。
それらを繋げると、そんな可能性が浮かんでくる。
鈴木コーチはしばらく何も言わなかった。
やがて静かに口を開く。
「……面白いな」
「まだ仮説です」
「分かっている」
鈴木コーチは小さく笑った。
「だから聞いたんだ。正解を言えとは言っていない」
アキは黙って頷く。
「お前は昔からそういうところだけは変わらないな」
「そうですか?」
「見えないものを見えないまま放っておけない」
鈴木コーチは再びトラックを見る。
「それでいい。ただし、仮説は仮説だ。選手に押しつけるな」
「はい」
「そして――」
鈴木コーチは少し間を置いた。
「お前だけじゃない。他の連中も今日見たものを一度持ち帰って考えろ」
若手コーチたちが頷く。
アキももう一度サヤカが走った場所を見る。
以前より速くなったサヤカ。
それでも本人が感じている違和感は消えていない。
むしろ――。
速くなったからこそアキにはその違和感が少しだけ見えた気がした。
「……まだ何かある」
アキは小さく呟いた。
だがそれが何なのか。
まだ答えは見つからなかった。




