16話 チーム青嶺
朝の風環総合アカデミー。
まだ授業が始まるには少し早い時間から、競技場ではすでに多くの選手が走っていた。
チーム青嶺の選手たちもそれぞれに決められたスケジュールに沿ってトレーニングを進めている。
短距離の選手はスタート練習。
中距離の選手は一定のペースを保ちながら周回。
長い距離を専門とする選手は少し離れたコースで持久力を鍛えている。
それぞれの練習内容は違う。
そしてその一人ひとりにコーチ陣が付き添っていた。
「もう一度。今度は最初の二百を少し抑えて」
「はい!」
コーチ助手の一人が担当する選手の走りを見ながら記録を確認する。
少し離れた場所ではもう一人の助手が別の選手に声を掛けていた。
二人ともほとんど休む暇がない。
選手の状態を確認し、記録を取り、次のメニューを指示する。
チーム青嶺には多くの選手が所属している。
現在のスタッフでようやく全員のトレーニングを無理なく回せる程度だった。
余裕があるわけではない。
その様子を佐藤主任は少し離れた場所から見ていた。
手元の端末には選手たちの直近の記録が表示されている。
「……全体としては順調だな」
隣に立っていた青嶺のコーチ補佐・井上ナオトが答える。
「はい。大きな問題はありません」
「サヤカは?」
その名前が出ると、井上補佐は一度端末を確認した。
「サヤカですか?」
「ああ」
「記録は上がっています。二戦目も勝っていますし、普段のトレーニングでも大きく崩れてはいません」
「……そうだな」
数字だけを見れば問題はない。
むしろ結果だけなら順調と言っていい。
デビュー戦で2着。
二戦目では1着。
トレーニングの記録も悪くない。
身体的な異常も確認されていない。
しかし――。
「本人はまだ違和感があると言っている」
佐藤主任がそう言うと、井上補佐は少し考えるように黙った。
「……以前から言っているあれですか」
「ああ」
「走りにくい、という?」
「そうだ」
井上補佐は競技場の方へ視線を向ける。
そこではサヤカが他の選手たちと同じようにトレーニングをしている。
「正直なところ私にはまだ問題があるようには見えません」
「……」
「本人がそう感じていることを軽視するつもりはありません。ただ客観的な数字では悪化していない。むしろ良くなっています」
佐藤主任は何も言わなかった。
「二戦目も勝っています。トレーニングの成果も出ています。身体にも問題がない。でしたら今はこのまま続けてもいいのではないでしょうか」
「……本人が納得していない」
「そこは時間が解決する可能性もあります」
井上補佐は慎重に言葉を選んだ。
「もちろん何か明確な兆候が出れば話は別です。ですが現状でサヤカだけ練習内容を大きく変えるのは……少し慎重になった方がいいと思います」
佐藤主任が井上補佐を見る。
「特別扱いになる、と?」
「はい」
井上補佐は小さく頷いた。
「サヤカはチームの中でも結果を出している選手です。だからこそ、本人の希望を理由に練習内容を大幅に変えると、他の選手たちがどう受け取るかも考えなければなりません」
言葉は柔らかかった。
だがそこには明確な意図があった。
「他の選手から見れば、『サヤカだけ特別』となる可能性があります」
「……」
「チーム青嶺にはサヤカ以外にも努力している選手がたくさんいます。誰か一人の感覚だけを理由に全体の方針を変えるのは、チームとしては難しいです」
佐藤主任は再び競技場を見る。
サヤカは黙々と走っている。
フォームも大きく崩れていない。
速度も十分。
疲労も過度には見えない。
外から見れば何も問題はない。
それでも――。
「……あの子は何かを感じている」
「はい」
「だがそれが何なのか、俺にも分からない」
「そこなんですよね」
井上補佐も困ったように息を吐いた。
「原因が分からない以上こちらも対応を決めにくいです」
二人の間に沈黙が落ちる。
「本人の感覚を否定するつもりはない」
佐藤主任は静かに言った。
「だが俺にも分からないものを、選手に説明することもできない」
「……はい」
「だから困っている」
井上補佐は少し迷ってから口を開いた。
「それと……もう一つ問題があります」
「分かっている」
佐藤主任は先に答えた。
「サヤカに付きっきりになるわけにはいかない、だろう」
「はい」
井上補佐が頷く。
「今でも二人の助手が担当選手に付きっきりです。私も全体を見ながら動いています。先生までサヤカに長時間付くことになると……他の選手を見る手が足りなくなります」
佐藤主任もそれは理解していた。
サヤカの問題だけを考えるなら本人の走りを一から見直したい。
練習中の動きも、レース映像も、細かく確認したい。
本人が感じている違和感をできる限り近くで見てみたい。
だがチーム青嶺にはサヤカ以外にも選手がいる。
彼女たちの練習を犠牲にするわけにはいかない。
「……人手が足りないな」
佐藤主任が呟く。
「はい」
「もう一人サヤカを見られる人間がいればいい」
井上補佐が顔を上げる。
「サヤカの感覚を理解して、なおかつ原因を一緒に探してくれる人間……ですか」
「ああ」
佐藤主任は少し考える。
「そんな都合のいい人間がそう簡単に見つかるとは思えないがな」
「心当たりは?」
「……一人だけいる」
佐藤主任の脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
「昔の教え子だ」
「先生の?」
「ああ」
佐藤主任は頷いた。
「今は別のチームを持っている。うちほど大所帯じゃないが、学園では中規模のチームだ」
「今でも付き合いがあるんですか?」
「まあな。時々情報交換をする程度だ」
佐藤主任は競技場を見る。
サヤカはまだ走っている。
「……あいつなら少し違った見方をするかもしれない」
井上補佐は少し考えた。
「協力を頼んでみますか?」
「ああ」
佐藤主任は端末を操作する。
「まずは話をしてみる。サヤカのことを見てもらえるかどうかも本人に聞かなければ分からない」
「分かりました」
佐藤主任は連絡先を開く。
「俺一人で抱える問題じゃない。青嶺の選手たちにも、サヤカにも、その方がいい」
その頃。
別のトラックではサヤカが三人の選手と並んで走っていた。
金城レイカ。
小野ユカ。
水野ミホ。
普段から顔を合わせることの多い仲間たちだ。
「次、四周ね」
ユカが軽く声を掛ける。
「うん」
サヤカが答える。
四人が横一列になる。
そして――。
走り出した。
最初の一周。
サヤカは問題なくついていく。
二周目。
レイカが少しずつ前に出る。
「……」
サヤカも速度を上げた。
三周目。
ユカとミホが少し後ろになる。
サヤカはレイカの背中を見る。
距離は離れていない。
いつもならこの辺りから自然に身体が動く。
もう少し前へ。
もう少しだけ。
そう思えば脚がついてくる。
けれど――。
「……っ」
サヤカの眉がわずかに寄った。
動かせないわけではない。
苦しいわけでもない。
ただ何かが噛み合わない。
身体が自分の思った通りについてこない。
ほんのわずかなズレ。
それだけなのに、以前より強く意識してしまう。
四周目。
レイカが少し前へ出た。
サヤカも追おうとする。
だがいつものような感覚が来ない。
「……」
脚は動いている。
速度も落ちていない。
なのに――。
「違う……」
小さく呟いた。
後ろからミホが追いついてくる。
「サヤカ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
反射的に答える。
ユカも隣まで来た。
「ちょっとペース速かった?」
「ううん。そういうわけじゃないよ」
サヤカは首を振った。
レイカが少し先で振り返る。
「サヤカ、もう少し行ける?」
「……うん」
返事をして再び前を見る。
走る。
ただ走る。
それなのに――。
またあの感覚があった。
自分の走りなのに。
自分の身体なのに。
どこか一つ噛み合っていない。
二戦目に勝った後も消えなかった違和感。
一人で走った時にも感じた違和感。
そして今仲間と並んで走っても消えない。
サヤカは唇を結んだ。
「……なんでだろう」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
少し離れた場所からその様子を見ていた佐藤主任の視線が止まる。
サヤカの走りに大きな乱れはない。
記録だけなら問題ない。
けれど――。
「……やっぱり何かある」
その呟きは誰にも届かなかった。




