15話 プロ走者
ユノ、アマネのデビュー戦を終え、アキのチームにはまだデビューを迎えていない選手が三人残っていた。
ナツメ。
ミサキ。
カナデ。
三人ともそれぞれに異なる走りの武器を持っている。
だからこそアキは焦らなかった。
「デビュー戦はその子の走りを知るためのレースでもある」
そう考えて一人ずつ準備を進めていった。
そして三人のデビュー戦はそれぞれ別の日に行われた。
最初に出走したのはナツメだった。
1200メートル。
前方につけて最後まで競り合う。
それがナツメの得意な形だ。
スタートから積極的に前へ出る。
だが先頭を取り切るほどではない。
三番手付近で流れに乗り、最後の直線へ。
残り200メートル。
前の二人との差が縮まる。
ナツメが一気に並びかけた。
そして最後はほとんど横並び。
「行け!」
アキの声が飛ぶ。
ナツメは最後の一歩を踏み込んだ。
しかしほんのわずかに届かなかった。
結果は2着。
「……あと少し!」
悔しそうに戻ってきたナツメに、アキは笑って言った。
「十分だ。最後の競り合いはお前の武器がちゃんと出てた」
2着という結果以上にアキには収穫があった。
ナツメがどの位置なら最後の一歩を最大限に使えるのか。
それが見え始めた。
次にデビューを迎えたのはカナデだった。
2000メートル。
派手なスタートも、急激な加速もない。
ただ、自分のペースを崩さない。
周囲がペースを上げても下げても、カナデは一定のリズムを刻んだ。
「焦らない……」
アキはレースを見ながら呟いた。
最後の直線。
カナデは少しずつ前との差を詰めていく。
しかし勝負を決めるほどの爆発的な加速はない。
結果は3着。
「……もう少し早く動けたかもしれません」
レース後、カナデが言った。
「いや」
アキは首を横に振った。
「今日の走りを見る限りお前は自分のペースを守れた。それは大きい。次はどこから動けば一番伸びるのかを探そう」
三人目。
ミサキのデビュー戦。
距離は2000メートル。
そしてその日は朝から風が強かった。
「今日は風が強いな」
競技場へ向かう途中、アキは風に煽られながら空を見上げた。
ミサキは黙って風を感じていた。
「……向こう正面かなり強いです」
「分かるのか?」
「はい」
ミサキは耳を僅かに動かした。
「風向きが少し変わっています」
アキは頷いた。
ミサキの武器。
――風読み。
それが今日はいつも以上に生きるかもしれない。
レースが始まる。
ミサキは中団。
強い向かい風をまともに受けないよう他の走者の後ろについた。
そして風が横から回り込んだ瞬間。
わずかに進路を変えた。
「……今だ」
アキが呟く。
ミサキが前へ出る。
向かい風の区間では無理をせず、風が弱まる場所で少しずつ位置を上げていく。
他の選手が風に体力を奪われる中、ミサキは最後まで余力を残していた。
最終直線。
残り300メートル。
ミサキが一気に加速する。
「行け!」
そのまま先頭へ。
そして――。
ゴール。
1着。
「勝った……?」
ミサキ自身もすぐには信じられないようだった。
電光掲示板に表示された順位を見てようやく表情が変わる。
「……勝ちました」
アキは大きく息を吐いた。
「やったな」
それがアキにとってコーチ就任後の初勝利だった。
チームに戻ると、4人の仲間たちが一斉に駆け寄った。
「ミサキ、おめでとう!」
「やったじゃん!」
「すごかった!」
ナツメもカナデもそしてユノやアマネも笑顔だった。
「風を使うってああいうことなんだ……」
アキはその光景を少し離れた場所から眺めていた。
自分が考えた作戦。
自分が見つけようとしているそれぞれの走り方。
その一つが初めて結果になった。
「……コーチとしてようやく一つ積めたな」
小さく呟いた。
この勝利によってアキを見る周囲の目も少し変わった。
もちろんいきなり一流コーチとして扱われるわけではない。
新人であることには変わりない。
だが、
「まだ実績のない新人」
から、
「勝利を出した新人」
へ。
学園内での評価は最底辺から一段上がった。
そしてそれはほんの少しだけアキの発言力にも影響した。
これまでなら流されていた意見が以前より耳を傾けてもらえる。
選手の育成について意見を求められる機会も増えた。
アキにとってはこれだけでも大きな変化だった。
――そしてアキにはもう一つ気になっていることがあった。
「プロ走者……か」
帰宅後。
アキは自宅の端末に保存してある資料を眺めていた。
走者族にとって公式のデビュー戦は一つの大きな節目になる。
学園でデビュー戦に出走した者は以降正式に「プロ走者」として認められる。
プロ走者になったからといってすぐに世界のトップで戦えるわけではない。
そこから先が本当の勝負だ。
卒業後に独立して活動する者もいる。
実業団に所属する者もいる。
所属先のチームや企業の支援を受けながら、国内のプロリーグを戦い、さらに上の舞台を目指す。
そしてその先には世界がある。
欧州
北米
東南アジア
その他の先進国にもそれぞれプロリーグが存在している。
国や地域によって競技場の特徴も、人気の高い距離も、レース文化も違う。
世界各地のリーグを転戦するトップ走者もいれば、一つの国やチームを拠点に長く活動する走者もいる。
「……思っていたよりずっと自由なんだな」
アキは資料を読みながら思った。
走者族の競技生活には決めなければならないことが多い。
どこで走るのか。
誰と契約するのか。
どんな距離を専門にするのか。
どのレースを目指すのか。
もちろんコーチや所属するチーム、企業から助言を受けることはある。
それでも最後に自分の道を選ぶのは走る本人だ。
だからこそ学園でのデビューには意味がある。
デビュー戦は単なる最初の一レースではない。
「ここからプロとして自分の走りで生きていく」
その資格を得る最初の一歩なのだ。
アキは画面をスクロールする。
世界各地のリーグ。
過去の名選手。
歴代記録。
大きな国際大会。
そして数え切れないほどのレース映像。
「……やっぱり面白いな」
思わず笑みが浮かんだ。
アキは昔から走者族の走りが好きだった。
学生時代に陸上競技をやっていたこともあり、走ることそのものに興味があった。
だが走者族の走りを知れば知るほど、その奥深さに引き込まれていった。
同じ距離を走っていても走り方がまるで違う。
スタートで勝負する者。
風を読む者。
集団を利用する者。
一定のペースを守り続ける者。
最後の一瞬にすべてを賭ける者。
そして本人でさえまだ気づいていない自分の走りを持つ者。
「だから面白いんだよな」
アキは再び記録映像を開いた。
学園でデビューした選手たちはここからプロの世界へ進んでいく。
その中から世界の舞台へ進む者もいる。
もしかしたら今日デビューしたミサキたちの中から、いつか世界で走る選手が生まれるかもしれない。
そう考えるとコーチという仕事の重さが改めて分かる。
「俺が見つけるんだ」
選手の中にあるその人だけの走りを。
それを見つけて、伸ばして、本人に渡す。
勝たせるだけではない。
その選手がプロとして歩いていくための「自分の走り」を見つける。
アキは端末を閉じた。
そして明日の練習メニューを確認する。
まだ始まったばかりだ。
5人の選手のそれぞれの道も。
そして――アキ自身のコーチとしての道も。




