14話 調べる理由
あの日以来。
アキはサヤカのことが頭から離れなかった。
「走りにくい」
サヤカがそう言ったときの表情。
それはただ調子が悪い選手の顔ではなかった。
痛みがあるわけでもない。
疲労が溜まっているわけでもない。
記録だけを見ればむしろ結果は出ている。
それでも本人は自分の走りに違和感を覚えている。
そして何より。
その違和感を抱えたまま一人で走ろうとしていた。
「……もう見てられないな」
アキはコーチ室の机に置かれた端末を見つめながら、小さく呟いた。
これまではあえて深く関わらないようにしていた。
サヤカには佐藤主任が付いている。
アキはまだ新米だ。
担当でもない選手の指導に口を挟めば、余計な混乱を招くかもしれない。
だから必要なときに声を掛ける。
練習中に気付いたことがあれば伝える。
それ以上のことはしない。
そう決めていた。
だがもうそれでは済ませられない。
サヤカ自身が自分の走りに悩んでいる。
それなのに自分が見て見ぬふりをすることはできなかった。
「……でも、俺が直接口を出すわけにはいかない」
アキは椅子の背もたれに身体を預けた。
佐藤主任を信頼していないわけではない。
むしろ逆だった。
これまで何人もの走者族を見てきた経験。
練習の組み立て方。
レースでの判断。
自分にはないものを彼は数多く持っている。
だからこそいきなり「そのやり方は違う」と言うことはできない。
ならば。
自分にできることから始めるしかない。
アキは端末を操作した。
検索画面にいくつかの言葉を入力する。
――走者族 走行感覚 違和感。
――競技中 フォーム変化。
――身体能力 未発現。
――加速 走行感覚 不一致。
過去の競技記録。
医学的な報告。
トレーニング記録。
引退した選手へのインタビュー。
膨大な資料が画面に並んだ。
「……これは時間かかりそうだな」
そう呟きながらアキは一つ目の資料を開いた。
しかし。
その表情には疲れよりもわずかな楽しさが浮かんでいた。
アキはこういう資料を読むことが苦痛ではない。
むしろ昔から大好きだった。
学生時代、アキは陸上競技をやっていた。
自分自身も走ることが好きだった。
だが、あるとき。
競技場で見た走者族の走りに完全に魅了された。
人間の自分とは明らかに違う。
加速。
身体の使い方。
地面を捉える感覚。
コーナーでの姿勢。
そして最後まで速度を落とさずに走り抜ける姿。
「……こんな走り方があるのか」
それが始まりだった。
そこからアキは走者族の競技記録を調べるようになった。
現役選手だけではない。
引退した名選手。
一時代を築いた選手。
短距離の名手。
長距離の名手。
特殊なコースを得意とした選手。
独特な加速を持っていた選手。
同じような記録を残していても、走り方がまったく違う選手。
気がつけば過去の偉大な走者族を何百人も覚えていた。
レース映像を見れば、
「あ、この選手は最初の三百メートルで無理をしないタイプだ」
「この人はコーナーに入る直前の減速がほとんどない」
「この選手、全盛期はもっとストライドが大きかったんだよな」
そんなことを延々と語れる。
友人たちからすれば完全なルナリィオタクだった。
一度酒の席で昔の名勝負の話を始めたことがある。
最初は友人たちも面白そうに聞いていた。
「へえ、それでどうなった?」
「その選手が最後の直線で――」
そこから一時間。
二時間。
「……お前、まだ続くの?」
「いや、ここからが面白いんだよ」
さらに別の選手の話へ。
別の時代の記録へ。
昔のレース展開から選手ごとのフォームの違いまで。
その夜以来友人たちの間では、
「アキの前でルナリィの話を振るな」
という暗黙の了解ができていた。
そんなアキにとって。
過去の競技資料を何百ページも読み込むこと自体は苦痛ではなかった。
むしろ興味深い。
「……この選手、似てるな」
ある記録映像を見てアキの手が止まった。
走り出しから中盤までは特に珍しくない。
だが、終盤。
速度が上がった瞬間、身体全体の動きがわずかに変わる。
脚だけが速く動くのではない。
身体が前へ滑るように進んでいる。
アキは映像を巻き戻した。
再生。
停止。
もう一度。
「……サヤカと同じ、なのか?」
まだ分からない。
似ているように見えるだけだ。
それでもアキは資料を保存した。
「これは後で詳しく見る」
そして次の資料を開く。
その顔にはさっきまでの疲労感はもうなかった。
問題は資料の量ではない。
時間だった。
コーチの仕事をしながら調べるにはあまりにも時間が足りない。
翌日の練習メニューを組む。
選手の状態を確認する。
練習を見る。
記録を整理する。
そしてレースが決まれば、その準備もしなければならない。
そこへサヤカの調査まで加わった。
当然時間は足りなくなっていった。
「山田コーチ、次のデビュー戦の日程、決まりました」
「ああ、ありがとう」
学園職員から渡された資料を見る。
一人。
また一人。
担当している選手たちのデビュー戦が次々と決まっていく。
ユノの次の調整。
ナツメの出走候補。
ミサキの距離適性を考えたレース選び。
カナデのペース配分。
アマネの前回の課題を踏まえた次戦への準備。
やることは増えていく。
アキは資料の山とレース予定表を交互に見た。
「……忙しくなってきたな」
そう呟きながらも端末の画面を閉じることはなかった。
サヤカの問題についてまだ何も分かっていない。
だからこそ。
調べなければならない。
佐藤主任に口を出す前に。
自分自身が納得できるだけの材料を集める。
それが今の自分にできる最初の一歩だった。
「……必ず何かあるはずだ」
アキは再び資料を開いた。
その頃にはもう窓の外は暗くなり始めていた。




