13話 走りたいのに
「ユノ、緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
競技場の控室。
ユノは何度も手を握ったり開いたりしていた。今日が初めての公式レースだ。
アキはそんな彼女を見ながらいつものように落ち着いた声で言った。
「緊張するのは普通だよ。むしろ何も感じないほうが珍しい」
「はい」
「今日は一つだけ覚えておいて」
アキは出走表を指で軽く叩いた。
「スタートはいつも通りでいい」
「いつも通り……」
「そう。ユノの武器だからね」
ユノは小さく頷いた。
彼女にはスタート反応という明確な長所がある。
ただしそれは同時に弱点にもなる。
反応が速い。
だからこそ身体が「行ける」と感じた瞬間に、そのまま行き過ぎてしまう。
今日の目標はスタートを速くすることではない。
速いスタートを最後までレースにつなげること。
「それともう一つ」
アキが続ける。
「途中で前に出すぎたと思ったら、自分で少し落とすこと」
「……難しそうです」
「うん。だから今日のレースで経験しよう」
ユノは笑った。
「分かりました!」
────────
スタート地点。
ユノはゲートの中で静かに呼吸を整えた。
周囲には経験のある選手もいる。
初めての公式戦。
心臓が速い。
耳に入る音が大きく感じる。
――スタート。
その瞬間。
ユノが飛び出した。
「速い!」
観客席から声が上がる。
反応が抜群だった。
一気に先頭へ。
予定していたよりも半歩、いや一歩ほど前に出ている。
アキは少しだけ眉を上げた。
「……やっぱり速い」
序盤は理想的だった。
ユノは先頭を走る。
風を受けながらそれでも前へ進む。
「そのまま!」
アキは声をかける。
しかし――。
速い。
少し速すぎる。
最初のコーナーを抜けてもユノはペースを落とさない。
二番手との差が広がる。
「ユノ!」
アキは声を張った。
「少しだけ抑えて!」
聞こえたかどうか分からない。
ユノはそのまま走った。
「……まずいな」
────────
残り400メートル。
後続がじわじわ近づいてくる。
ユノの呼吸が荒くなった。
それでも先頭。
残り300。
二番手との差が縮まる。
残り200。
「頑張れ!」
ユノは必死に脚を動かした。
だが序盤で使った力が響いている。
最後の直線。
後続が並ぶ。
一人。
二人。
ユノは粘った。
そして――。
ゴール。
ユノは4着だった。
────────
控室へ戻ってきたユノはしばらく何も言わなかった。
アキが近づく。
「お疲れさま」
「……負けました」
「うん」
「先頭だったのに」
「うん」
ユノは悔しそうに俯いた。
アキはすぐに慰めなかった。
少し間を置いてから言った。
「でも今日のレースで分かったことがある」
「……何ですか?」
「スタートは本当に武器になる」
ユノが顔を上げた。
「今日あのスタートで先頭に出られたのはすごいよ」
「でも……最後に抜かれました」
「だから次はそこを直そう」
アキは笑った。
「今日の4着はスタートが悪かった4着じゃない」
ユノが黙って聞く。
「スタートが良すぎたから最後まで使える力が少なくなった4着だ」
「……」
「だったら直すところは一つ」
アキは人差し指を立てた。
「スタートの後ほんの少しだけ力を抜く」
「……それだけ?」
「まずはそれだけ」
ユノは少し考えてから笑った。
「次は3着になれますか?」
「それは約束できない」
「えー」
「でも今日より上手に走れる可能性はある」
「じゃあ次はもっと上手に走ります!」
「うん。それでいい」
アキは頷いた。
ユノの初戦は4着。
勝利ではなかった。
けれどアキにとっては十分に収穫のあるデビュー戦だった。
────────
そしてサヤカが二戦目を終えてから三日目の朝。
レースを終えたサヤカはその日のうちに寮へ戻った。
翌日はコーチの指示通り一日を完全な休養に充てた。
身体を休め、軽いストレッチをする程度で、走ることはしなかった。
そして今日。
三日目になり、通常練習が再開された。
朝からいつものメニューをこなし、練習そのものは問題なく終わった。
タイムも悪くない。
身体の状態も表面的には良好だった。
「今日の練習はここまでだ。サヤカ、無理をするなよ」
「はい。ありがとうございました」
佐藤主任に頭を下げ、サヤカは一度チームの練習場所を離れた。
本来ならそのまま寮へ戻るはずだった。
けれど――。
「……もう少しだけ」
サヤカは一人で競技場の外周へ向かった。
本格的な自主練習は本来禁止されている。
疲労の蓄積。
故障。
判断力の低下。
それらを防ぐため、コーチの目が届かない場所での高負荷練習は認められていない。
もちろんサヤカも知っている。
だから本来なら戻るべきだった。
それでも――。
走りたかった。
確かめたかった。
あの違和感が何なのか。
「……もう一度だけ」
軽く走り出す。
ゆっくり。
次第に速度を上げる。
――違う。
まただ。
身体は動いている。
タイムも悪くない。
なのに。
「……違う」
もう少し速度を上げる。
「違う……」
さらに。
呼吸が乱れる。
脚が重くなる。
それでも止まれない。
「何で……」
サヤカの目に涙が浮かんだ。
勝った。
それなのに。
周囲は「やっぱり強い」と言ってくれた。
コーチも喜んでくれた。
なのに自分だけが分かっていない。
「私……」
足が止まった。
「何で、こんなに……」
胸が苦しい。
怖い。
自分の身体なのに、自分が何を感じているのか分からない。
「……分からないよ」
涙がこぼれた。
「どう走ればいいの……」
その時だった。
「……サヤカ?」
背後から声がした。
サヤカが振り向く。
そこにアキがいた。
「……アキ先生……」
アキはすぐに状況を察した。
一人。
練習着。
呼吸が乱れている。
そして泣いている。
「どうした?」
サヤカは答えられなかった。
「……っ」
また涙がこぼれる。
アキは迷わずサヤカのところまで歩み寄った。
「まず座ろう」
「でも……」
「いいから。今日はもう走らなくていい」
アキはサヤカの肩にそっと手を添え、無理に引っ張らないように支えながら近くのベンチへ連れていった。
サヤカはベンチに腰を下ろした。
アキもすぐ隣ではなく、手を伸ばせば届くくらいの距離に腰を下ろす。
「……通常練習は終わったんだろ?」
「……はい」
「だったらここから先は練習じゃない。身体を休ませる時間だ」
「でも……」
「分かってる」
アキはサヤカの顔を見る。
涙で濡れた頬を見て少しだけ声を柔らかくした。
「気になるんだろ?」
サヤカは黙っていた。
やがて小さく頷く。
「……はい」
「何が気になる?」
「走ってると……変なんです」
声が震えた。
「痛いわけじゃないんです。疲れてるわけでもない。でも……」
サヤカは胸元を握る。
「何かが違うんです」
「うん」
「勝ったのに……」
そこで言葉が詰まった。
「勝ったのに、ずっと気になるんです」
アキは黙って聞いている。
「みんなは私が強かったって言ってくれました。コーチも……」
「うん」
「でも私、自分がちゃんと走れた気がしなくて……」
涙が一粒、頬を伝った。
「私……どうしたらいいんですか……」
そこでサヤカの声が崩れた。
「何を直せばいいのかも分からない……!」
涙が次々にこぼれる。
アキは少しだけ身体をサヤカのほうへ向けた。
「サヤカ」
「……はい」
「今は直そうとしなくていい」
「でも……」
「まだ原因が分からないんだから無理に直そうとする必要はない」
アキはそう言って持っていたタオルをサヤカに差し出した。
「ほら」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
サヤカはタオルを受け取り、目元を拭った。
それでも涙は止まらない。
アキは少し迷ったあとそっとサヤカの頭に手を置いた。
「大丈夫」
サヤカの肩が小さく震える。
「……アキ先生」
「うん」
「私、変なんでしょうか」
「変じゃない」
即答だった。
「少なくとも俺はそう思わない」
「でも……」
「自分の走りに違和感を覚えること自体は変なことじゃない。むしろ自分の身体をちゃんと感じ取ってるってことだ」
「……」
「ただ一人で答えを探して走り続けるのは駄目だ」
アキは少しだけ真剣な顔になった。
「今日みたいな練習はもうしないこと。これは約束して」
サヤカは俯いたまま頷く。
「……はい」
「よし」
アキは手を離し、今度はサヤカの肩を軽く叩いた。
「それでいい」
少しだけ沈黙が流れた。
サヤカの呼吸がようやく落ち着いてくる。
「……アキ先生も分からないんですよね」
「うん」
アキは正直に答えた。
「この前のレースで俺も気になったところはあった。でもまだ『これだ』とは言えない」
「……」
「だからサヤカが感じていることを俺は無視しない」
サヤカがゆっくり顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「……ありがとうございます」
「俺にできるのは今のところ一緒に考えることくらいだけどね」
サヤカは涙の跡が残った顔でほんの少し笑った。
「それでも……嬉しいです」
「なら今日はそれで十分」
アキも笑う。
「もう走らない。帰って休む。それから考えよう」
「……はい」
二人はしばらくベンチに座っていた。
やがてサヤカが立ち上がる。
まだ少し不安そうだったが、先ほどより表情は落ち着いていた。
「歩ける?」
「大丈夫です」
「じゃあ寮の近くまで一緒に行こう」
「……いいんですか?」
「一人で帰らせるわけにもいかないだろ」
「……はい」
二人は並んで歩き始めた。
今度はさっきより少し近い距離で。
サヤカの足取りはまだ重い。
違和感も消えていない。
答えも出ていない。
それでも――。
少なくとも今は一人で抱え込んでいるわけではなかった。
そしてアキもまたこの日の出来事をきっかけにサヤカの走りだけではなく、彼女自身が抱えている不安にも目を向けるようになっていった。




