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風の隣人  作者: 馬込冷静
15/22

12話 まだ知らない速さ

競技場はいつもより少しだけ賑わっていた。


未勝利戦。


まだ大きな注目を集めるほどのレースではない。


それでも出走する走者族にとっては大切な一戦だ。


スタンドにはサヤカのチームメイトたちの姿もあった。


「サヤカ、頑張ってー!」


「今日は勝てるよ!」


佐藤主任の指導を受ける走者族たちが声を張り上げている。


普段は自分たちの練習に集中している彼女たちも、今日は見学を兼ねて応援に来ていた。


その少し離れた場所には――


「ユノ、準備できたか?」


「はい!」


アキとユノがいた。


ユノにとっては今日がデビュー戦。


アキは彼女の出走準備を確認しながら、時折コースへ目を向けていた。


そして出走表に見覚えのある名前を見つける。


「……サヤカ」


「知ってる人ですか?」


ユノが尋ねる。


「同じ学園の選手だよ。前に一度走っているところを見た」


「強いんですか?」


アキは少し考えた。


「強いと思う」


それだけ答えた。


前回のデビュー戦。


2着。


そしてその後の映像。


何度見てもアキには気になる部分があった。


速い。


持久力もある。


レース運びも悪くない。


けれど――。


「……」


アキはスタンドではなく、コースの一角を見つめた。


何かが噛み合っていない。


そんな感覚だけが残っていた。


────────


「まもなくスタートです」


場内アナウンスが響く。


サヤカがゲートへ向かう。


長い耳が風を受け、僅かに揺れる。


表情は落ち着いている。


だが本人だけは知っていた。


今日も――。


身体のどこかにあの感覚がある。


走りにくい。


ほんの少し。


ほんの僅か。


「……」


サヤカは深呼吸した。


「気にしない」


自分に言い聞かせる。


今日は勝つ。


それだけを考える。


────────


スタート。


一斉に走者たちが飛び出した。


サヤカは佐藤主任の指示通り前方集団の少し後ろにつける。


「いい位置!」


スタンドから声が飛ぶ。


サヤカは焦らない。


前を走る選手との距離を一定に保つ。


最初のコーナー。


二つ目のコーナー。


ここまでは予定通りだった。


「サヤカ、そのまま!」


佐藤主任の声が聞こえる。


だが。


サヤカの中にはまたあの感覚があった。


――違う。


この位置。


このペース。


悪くない。


むしろ走りやすいはずなのに。


なぜか身体が少しだけ余っている。


足が遅いわけではない。


力が出ないわけでもない。


ただ――。


「……まだ」


何かが合っていない。


────────


残り500メートル。


サヤカは前の選手との距離を詰め始めた。


予定より少し早い。


「サヤカ、まだ慌てるな!」


佐藤主任が叫ぶ。


サヤカは一瞬だけ迷った。


――まだなの?


身体は行けると言っている。


頭は待てと言っている。


「……!」


サヤカはほんの少しだけ速度を上げた。


前との差が縮まる。


残り300メートル。


三番手。


二番手。


「サヤカ!」


スタンドが沸く。


残り200。


先頭との差は僅か。


ここでサヤカが加速した。


その瞬間――。


「……?」


今の。


アキは無意識に一歩前へ出た。


サヤカの身体が今までとは違う。


いや。


正確には――。


違うように見えた。


一瞬だけ。


身体全体が前へ滑るように進んだ。


力任せではない。


脚を速く回したわけでもない。


なのに速度が一段上がった。


「……今の何だ?」


ユノが横を見る。


「どうしたんですか?」


「いや……」


アキは答えられなかった。


残り100メートル。


サヤカが先頭に並ぶ。


そして――。


抜けた。


ゴール。


サヤカ、1着。


────────


「やった!」


チームメイトたちが一斉に立ち上がる。


「サヤカ勝った!」


「やっぱり強いじゃん!」


「前回2着だったけど、今回はちゃんと勝った!」


周囲からも声が聞こえる。


「やっぱりこの子、強いな」


「前回も2着だろ?」


「デビュー戦から2着、二戦目で勝利。評価通りじゃないか」


結果だけを見れば、誰もが納得するレースだった。


サヤカは勝った。


しかも内容も悪くない。


佐藤主任もまずは安堵した。


「……よし」


しかし。


ゴールしたサヤカは笑顔になりきれなかった。


勝った。


嬉しい。


それは間違いない。


けれど――。


「……やっぱり」


あの感覚が消えていない。


むしろ。


最後の直線で加速した瞬間。


一番強く感じた。


身体の中にまだ使っていないものがある。


そんな感覚。


「サヤカ!」


コーチが近づいてくる。


「よくやった。今日は完璧だった」


「……ありがとうございます」


サヤカは頭を下げた。


「ただ――」


「ん?」


サヤカは少し迷ってから言った。


「やっぱり少し走りにくかったです」


佐藤主任の表情が止まった。


「……そうか」


勝った。


数字も結果も問題ない。


身体にも異常はない。


それなのに本人は「走りにくい」と言う。


「どこが?」


「分かりません」


また同じ答え。


コーチはしばらく黙った。


そして、


「……今日は休め」


それ以上は言わなかった。


────────


少し離れた場所。


アキはサヤカのレース映像を頭の中でもう一度再生していた。


スタート。


中盤。


残り500。


そして――200。


「……」


アキは眉を寄せる。


ユノが横から覗き込む。


「勝ちましたね」


「うん」


「すごかったです」


「うん」


「何か気になるんですか?」


アキは少し考えてから答えた。


「……まだ分からない」


「分からない?」


「ただ」


アキはコースを見る。


「最後の加速。あれは単純に『最後に頑張った』って感じじゃない」


「じゃあ?」


「……分からない」


また同じ言葉だった。


けれど。


アキは確かに何かを見た。


サヤカが速くなった瞬間。


その直前に――


一度身体が走り方を探したように見えた。


「……もしかして」


言いかけてアキは止めた。


まだ早い。


一つのレースだけで判断することはできない。


それにサヤカには実績のある佐藤主任がついている。


簡単に口を挟むべきでもない。


「ユノ」


「はい?」


「自分のレースに集中しよう」


「はい!」


アキはそう言って笑った。


だが視線だけはもう一度サヤカの背中を追っていた。


────────


一方、佐藤主任も一人で考えていた。


勝った。


それなのに選手本人は納得していない。


これまでなら。


レースで勝つ。


本人の感触も悪くない。


ならそのレースを基準に次へ進む。


それでよかった。


しかしサヤカは違う。


指示通りに走らせても勝つ。


本人の感覚では「走りにくい」。


そして最後の直線では指示より早く動いたにもかかわらず、結果として勝った。


「……」


佐藤主任は腕を組んだ。


自分の組み立てが間違っているとは思わない。


だが。


自分の組み立てがサヤカの能力の全てを引き出しているとも思えなくなってきた。


「……参ったな」


長年の経験がある。


多くのタイプの選手を見てきた。


その経験には自信がある。


だからこそ。


経験の範囲から外れた選手に出会ったとき、何を基準にすればいいのかが分からない。


それでもコーチとしてやることは一つ。


「もう少し見るか」


焦って答えを出さない。


次の練習。


次のレース。


サヤカの身体が何を求めているのか。


それを見極める。


────────


その日の夕方。


競技場にはまだユノのデビュー戦を控えたアキたちが残っていた。


サヤカの勝利を祝う声が遠くから聞こえる。


「やっぱりサヤカ強いんだな」


誰かが言った。


「前回2着で今回は1着。次も楽しみだね」


その言葉にアキは黙ってコースを見る。


強い。


それは間違いない。


けれど。


今日のレースを見たアキには別の疑問が残っていた。


――もし、あの子が「走りにくい」と感じている状態で勝ったのだとしたら。


では。


本当に走りやすい状態になったサヤカは、どこまで速くなるのか。


アキ自身もまだその答えを知らなかった。

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