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風の隣人  作者: 馬込冷静
14/20

11話 違和感

午後のトラック。


風環総合アカデミーの競技場では今日も何人もの走者族が練習に取り組んでいた。


その中にサヤカの姿がある。


一定のペースで走り、コーナーを抜け、直線に入る。


フォームに大きな乱れはない。

呼吸も安定している。

傍から見ればいつも通りだった。

「……よし。今のペースであと二本」

佐藤主任がストップウォッチを見ながら声をかける。


「はい」


サヤカは返事をして再びスタート地点へ戻った。


――おかしい。


ほんの少しだけ。


何かが引っかかる。


痛いわけではない。


疲れているわけでもない。


脚が重いわけでもない。


ただ、走っているときに、


「自分の身体が思ったところに収まっていない」


そんな感覚がある。


ほんのわずかな違和感だった。


だからサヤカ自身も最初は気のせいだと思った。


「次」


号令とともに走り出す。


最初の数十メートル。


問題ない。


コーナー。


問題ない。


しかし速度を上げようとした瞬間。


――まただ。


ほんの一瞬。


足を置く場所を身体が探しているような感覚。


サヤカは無意識に少しだけ歩幅を調整した。


「……?」


佐藤主任はそれを見逃さなかった。


「今少し乱れたな」


「……はい」


「疲労か?」


「分かりません」


「痛みは?」


「ありません」


「なら問題ない」


佐藤主任は即答した。


「レース前だ。多少の違和感なら動きながら整えていけばいい」


「……はい」


サヤカは頷いた。


その判断自体はおかしくなかった。


長年数え切れないほどの選手を見てきたコーチだ。


疲労による微妙なフォームの乱れ。


緊張。


筋肉の張り。


ペース配分の失敗。


レース前に起きる身体の違和感。


そうしたものを見分けてきた。


だからこそサヤカも素直に従った。


だが――。


翌日。


同じ感覚があった。


その翌日も。


ほんのわずか。


走り出してしばらくすると、身体のどこかに「違う」という感覚が出てくる。


サヤカは練習後コーチに尋ねた。


「コーチ」


「なんだ?」


「最近……少し走りにくい気がします」


佐藤主任は黙ってサヤカを見る。


「どこが?」


「……分かりません」


「痛みは?」


「ありません」


「呼吸は?」


「大丈夫です」


「脚の張りは?」


「いつもと同じです」


「なら身体的な問題とは考えにくいな」


コーチは練習記録を確認した。


タイム。


心拍。


ラップ。


フォーム。


どれも大きな異常はない。


むしろ数字だけを見るなら悪くない。


「レースが近いから神経質になっているんじゃないか?」


「……そうかもしれません」


サヤカはそう答えた。


けれど納得しきれない。


自分の身体の感覚だけが記録表からこぼれ落ちている。


そんな気がした。


────────


数日後。


佐藤主任は第二戦の出走表を机に置いた。


「未勝利戦。距離は前回と同じだ」


サヤカが頷く。


「今回は前半で無理をしない。中団より少し前につける」


「はい」


「前回は最後まで脚を残した。それ自体は悪くない。ただ後ろに下がりすぎると届かない」


コーチはコース図を指でなぞった。


「この選手はスタートが速い。こちらは序盤から前に出る。サヤカ、お前はその後ろ」


「……はい」


「そして最後の直線。残っている脚を使う」


それは理にかなった作戦だった。


前回の敗戦を踏まえ、修正も入っている。


サヤカの長所である持久力を活かし、無駄な消耗を避ける。


そして最後に伸びる。


これまでのサヤカのデータから考えれば非常に合理的だった。


佐藤主任自身もそう確信していた。


――ただ。


「……」


サヤカはコース図を見つめた。


またあの感覚が頭をよぎる。


この走り方ではない。


そんな気がする。


けれど自分でも何が違うのか説明できない。


「サヤカ?」


「はい」


「何かあるのか?」


「……いえ」


言えなかった。


「今の走り方だと少し走りにくいです」


そんなことを言っても何がどう違うのか説明できない。


コーチだって困る。


それに――。


この人は自分のためにずっと考えてくれている。


長年の経験から何が必要なのかを考えてくれている。


だからこそサヤカは自分の曖昧な感覚だけで否定したくなかった。


「分かりました。この作戦で走ります」


「よし」


佐藤主任は頷いた。


だがその表情には僅かな引っかかりが残った。


サヤカが以前より自分の走りについて迷っている。


それが気になった。


────────


そしてレース前日。


佐藤主任は一人で映像を見返していた。


サヤカのデビュー戦。


スタート。


中盤。


最終コーナー。


直線。


何度も繰り返す。


「……」


映像を止める。


サヤカが加速する直前。


ほんの一瞬だけ身体の動きが変わっている。


「……これは」


再生する。


もう一度。


同じ場所。


同じ瞬間。


「……」


コーチは眉を寄せた。


これまで見てきた選手なら、ここでこう動く。


だがサヤカは違う。


速い。


しかし速さそのものが問題ではない。


まだ本来の動きを使っていない。


そんな印象だった。


「……いや」


コーチは首を振った。


「そんな簡単な話ではない」


長年の経験が警告している。


一つのレースだけで選手の可能性を決めてはいけない。


偶然かもしれない。


相手との位置関係かもしれない。


風かもしれない。


本人の感覚かもしれない。


それでも。


今まで見てきた選手とは何かが違う。


佐藤主任は映像を止めたまましばらく画面を見つめていた。


「……サヤカ」


初めて。


自分の経験則だけではこの選手を測りきれないかもしれない。


そんな不安がほんの少しだけ生まれた。


────────


同じ頃。


サヤカは寮の部屋で明日のレース用のウェアを準備していた。


ベッドの上に置いたウェアを見る。


「……明日」


勝ちたい。


もちろんそれはある。


前回は2着。


今回は勝ちたい。


けれど――。


それ以上に気になっていることがある。


走っているときのあの違和感。


「……私の走り方って」


サヤカは小さく呟いた。


自分でも分からない。


何が違うのか。


どうすればいいのか。


ただ。


今までと同じように走ろうとすると、どこか身体が「違う」と言っている。


それが怖かった。


けれど同時に――。


ほんの少しだけ気になっていた。


もし。


もしこの違和感が間違いではなかったら。


自分はまだ自分でも知らない走り方を持っているのだろうか。


サヤカはそこで考えるのをやめた。


「……明日はまず走ろう」


それだけを決めた。


────────


翌朝。


競技場へ向かうバスの中。


サヤカは窓の外を眺めていた。


隣の席には佐藤主任。


二人ともいつもより口数が少ない。


コーチは出走表を確認している。


サヤカは自分の手を見ている。


互いにそれぞれの不安を抱えていた。


コーチは――。


「この選手を自分の経験だけで決めつけてはいけないのではないか」


そう感じ始めていた。


サヤカは――。


「このままの走り方で本当にいいのだろうか」


そう感じ始めていた。


まだ決定的な衝突ではない。


どちらも相手を信頼している。


だからこそ言葉にはしない。


ただ。


ほんの小さなズレが生まれ始めていた。


そしてそのズレが初めてはっきりする場所が――


二回目のレース、未勝利戦だった。

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