02話 風を追う者たち
風環総合アカデミーの朝。
アキは今日から正式にコーチとしての仕事を始めていた。
指導室に並ぶ記録端末。
壁には競技場のコース図。
机の上にはこれから担当する選手たちの資料が積まれている。
「今日から、か……」
一枚の資料を手に取りながら、アキは小さく息を吐いた。
選手の走りを見る。
記録を見る。
身体の状態を確認する。
そしてその選手が持っている力をどう伸ばすかを考える。
それがコーチの仕事だ。
まだ経験は浅い。
だからこそ一人ひとりの走りを自分の目で確かめたいと思っていた。
その日の午後。
風環中央競技場では公開模擬レースが行われていた。
出場するのは風環総合アカデミーに通う走者族の生徒たち。
観客席には生徒や教員だけでなく、競技関係者やコーチも集まっている。
このレースにはひとつの目的があった。
――自分を見つけてもらうこと。
走者族の競技者にとって、優れた走りを見せれば、専属コーチが付く可能性がある。
それは選手にとって大きな転機になる。
練習環境。
身体の管理。
競技分析。
大会への出場。
そして自分自身では気付けない弱点を見つけてもらえる。
スタート地点。
西円寺サヤカもその中にいた。
制服から競技用ウェアへ着替え、スタートラインの少し後ろで静かに呼吸を整えている。
周囲には同じルナリィの選手たち。
みんなそれぞれに表情が違う。
緊張している者。
闘志をむき出しにしている者。
いつも通りの表情を崩さない者。
けれど全員が同じものを求めていた。
――自分の走りを見てもらう。
サヤカは前を見る。
競技トラック。
一周してゴールするだけ。
距離そのものは決して長くない。
だが、走者族にとってこの一周は、ただ速く走ればいいだけのものではない。
スタート。
加速。
位置取り。
コーナー。
そして最後の直線。
一瞬の判断が順位を変える。
「選手、スタート位置へ!」
場内アナウンスが響いた。
サヤカが腰を落とす。
長い耳がわずかに後ろへ傾いた。
観客席のざわめきが遠くなる。
聞こえるのは自分の呼吸。
心臓の鼓動。
そして――
スタートを告げる電子音が響いた。
一斉に走者たちが飛び出した。
その瞬間、空気が変わった。
人間の目では追うのが難しいほどの速度まで、選手たちが一気に加速していく。
地面を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩。
その一歩一歩が尋常ではない。
走者族の最高速度は時速70kmに達すると言われる。
その速度で彼女たちは競技トラックを駆け抜ける。
「速い……!」
観客席から声が上がった。
先頭集団が最初のコーナーへ入る。
サヤカは少し後ろ。
無理に前へ出ようとはしない。
自分のペースを守っている。
アキは競技場の端に立っていた。
手には記録端末。
次々と選手のデータが表示される。
「……加速は速い」
一人の選手を目で追う。
次に別の選手。
さらにその後ろ。
「……なるほど」
そして――
アキの視線が止まった。
サヤカだった。
集団の中ほど。
派手な動きはない。
だが走りが崩れない。
コーナーに入っても速度の落ち込みが小さい。
「この子……」
アキが画面を見る。
次の瞬間。
サヤカが動いた。
コーナーを抜ける。
前方との距離が少しずつ縮まっていく。
一人。
また一人。
前を走る選手の横へ並ぶ。
――追い抜いた。
観客席がどよめく。
サヤカはさらに前へ出る。
髪が風になびく。
長い耳が後方へ流れる。
呼吸は乱れていない。
「まだ余裕があるのか?」
アキは無意識に一歩前へ出ていた。
残りは最後の直線。
先頭争いは数人に絞られている。
サヤカもその中に入った。
ゴールまであとわずか。
「行け!」
誰かが叫んだ。
選手たちが最後の力を振り絞る。
脚の回転がさらに速くなる。
一歩。
一歩。
一歩。
地面を蹴るたびに身体が前へ弾き出される。
まるで風そのものが走っているようだった。
サヤカが横を見る。
隣にも選手がいる。
ほとんど並んでいる。
――あと少し。
サヤカは前だけを見た。
そして。
ゴールラインを駆け抜けた。
「――!」
一瞬競技場が静かになる。
その直後。
大きな歓声が上がった。
選手たちは速度を落としながら、次々とトラックの外へ向かう。
サヤカも息を整えながら歩き出した。
順位はまだ分からない。
けれど彼女はやり切った。
観客席では何人ものコーチが記録を確認している。
アキも端末を見つめていた。
そこにはサヤカの走行データが表示されている。
「……面白い走りをする」
単純な最高速度だけなら、もっと速い選手がいる。
だが――
コーナーでの速度維持。
終盤の伸び。
そして最後までフォームを崩さなかったこと。
アキは何度も記録を見直した。
「もう一度走りを見たいな」
その頃。
サヤカはまだ知らなかった。
自分の走りをひとりの新米コーチがずっと目で追っていたことを。
そしてアキもまだ知らなかった。
あの朝、校門近くを駆け抜けていった少女と、
今競技場で見つめている選手が同じ人物だったことに。




