↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の隣人  作者: 馬込冷静
12/20

09話 母からの電話

その日の夕方。


青葉寮の自室でサヤカはベッドに座っていた。


今日はコーチから言われた通り完全休養。


走っていない。


身体は軽くなってきている。


それでも気持ちはまだ重かった。


デビュー戦の2着。


何度思い返してもあのゴール前が頭から離れない。


そのときスマートフォンが鳴った。


画面を見る。


母親からだった。


「もしもし?」


『サヤカ?』


「うん」


『今大丈夫?』


「大丈夫だよ」


『……身体は?』


「大丈夫」


『本当に?』


「本当に」


少し間があった。


『昨日のレース、見たわ』


「……うん」


サヤカは少しだけ視線を落とした。


『2着だったね』


「うん」


『頑張ったじゃない』


「……でも、負けた」


母親はすぐには返事をしなかった。


『そうね』


「……」


『悔しい?』


「すごく」


『そう』


声が少し柔らかくなる。


『それなら大丈夫』


「何が?」


『悔しいと思えるくらい、ちゃんと勝ちたかったってことでしょ』


サヤカは黙った。


『お母さんもレースに出ていた頃、負けた日は何度もそう思ったわ』


「お母さんも?」


『忘れた? お母さんだって走者族よ』


「それは知ってるけど……」


『昔は結構走ってたのよ』


母親は少し笑った。


『だから分かるの。デビュー戦で負けることくらい珍しくないわ』


「……でも、みんな私なら勝てるって」


『周りの評価とレースの結果は別よ』


その言葉にサヤカは顔を上げた。


『一番人気でも負ける。期待されていても負ける。逆に誰も注目していなかった選手が勝つこともある』


「うん」


『だから昨日2着だったことを恥ずかしがる必要はないわ』


少し間を置いて、


『ただし』


声が少しだけ母親らしくなる。


『次のレースまでに何が足りなかったのかはちゃんと考えなさい』


「……うん」


『そして今日は走らない』


「……」


『コーチから休めって言われたんでしょう?』


「そうだけど……」


『なら休みなさい』


「はい……」


『走りたい気持ちは分かるけど、疲れている身体で無理をしても速くならないわ』


「……分かってる」


『ならよし』


また少しだけ声が柔らかくなる。


『それとね』


「何?」


『お母さんが一番伝えたいのは勝つことだけを考えないでってこと』


「……」


『レースって自分一人で走るものじゃないのよ』


『相手がいる。風がある。芝の状態も違う。体調もある。スタートの位置もある。その日の自分自身だって昨日とは違う』


サヤカは黙って聞いていた。


『だから昨日の自分ができなかったことを次に一つできるようになればいい』


「……うん」


『それで十分よ』


少し沈黙があった。


『でも――』


「まだあるの?」


『もちろん』


母親の声に少しだけ笑いが混じる。


『次に勝ったら、ちゃんと電話してきなさい』


「……それは自分から言うよ」


『そう? じゃあ楽しみにしてる』


「うん」


電話が切れる。


サヤカはしばらくスマートフォンを見つめていた。


「……お母さんも走ってたんだ」


知らなかったわけではない。


けれど初めて少しだけ――


母親を「ルナリィの先輩」として感じた。


そしてサヤカは窓の外を見る。


今日は走らない。


でも。


明日は走りたい。


その気持ちはまだ消えなかった。


────────


アマネのデビュー戦


数日後。


風環中央競技場。


テレビ中継のカメラがトラックを映している。


今日のレースは1400m。


アキが担当するアマネにとって初めての公式レースだった。


出走選手は十二人。


アマネの評価は高くない。


もちろん能力がないわけではない。


しかし経験はない。


記録も上位選手には及ばない。


実況でも大きく取り上げられる存在ではなかった。


「注目されるのはやはり実績のある選手でしょう」


そんな紹介が続く。


アマネはスタート地点で静かに前を見ていた。


アキはスタンドから彼女を見ている。


今日の目標は一つ。


最後まで自分の走りをすること。


勝てるかどうかは分からない。


だがそれを恐れて走る必要もない。


スタート。


十二人が一斉に飛び出した。


アマネは前へ出ない。


八番手。


九番手。


無理に位置を上げず、集団の後方につく。


最初の数百メートル。


先頭は速い。


アマネは焦らない。


アキも時計を確認する。


「いい」


予定通り。


中盤に入る。


先頭集団が少しずつ縦に伸び始める。


アマネはまだ後方。


テレビ中継でもほとんど画面に映らない。


だが――


残り500m。


アマネが少しずつ前へ出始めた。


一人。


また一人。


順位が上がる。


残り300m。


六番手。


残り200m。


五番手。


観客席から声が上がる。


「アマネ、来てる!」


アキも身を乗り出す。


アマネの走りが変わった。


苦しい。


それでも身体が前へ進む。


残り100m。


四番手。


三番手との差はほんのわずか。


アマネはさらに踏み込む。


しかし――


前の二人も止まらない。


三番手が粘る。


アマネが追う。


横に並びかける。


あと少し。


あと一歩。


ゴール。


写真判定。


アマネは――


4着。


3着との差はわずかだった。


アマネはゴール後、肩で息をしながらトラックの外へ向かう。


アキはすぐには声をかけなかった。


まず彼女が呼吸を整えるのを待つ。


アマネは顔を上げた。


「……4着」


「うん」


「……勝てませんでした」


「うん」


アキはそれ以上まだ何も言わなかった。


今日のレースには見るべきものがいくつもある。


スタート。


中盤の位置取り。


最後の伸び。


そして3着争い。


それらを全部もう一度映像で確認する必要がある。


アマネもまたまだ自分の中で整理できていない。


デビュー戦は終わった。


結果は4着。


勝利には届かなかった。


けれど――


最後の直線でアマネは確かに自分の武器を見せた。


アキは競技場を見つめる。


「……さて」


今日のレースから何を持ち帰るか。


それを考えるのはこれからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。