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風の隣人  作者: 馬込冷静
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08話 最初の一歩

デビュー戦をどうするか


風環総合アカデミーでは次の公式戦に向けた準備が進んでいる。


アキの担当する五人の走者族。


その中の一人が近くデビュー戦を迎えることになっていた。


能力が足りないわけではない。


日々の練習でも少しずつ記録は伸びている。


身体の状態にも問題はない。


出走させること自体には何の問題もない。


ただ――


「……たぶん負けるよな」


アキは競技場の端で担当選手の練習を眺めながら呟いた。


もちろんレースはやってみなければ分からない。


だが現時点での記録。


経験。


レース運び。


他の出走予定選手の実績。


それらを考えれば上位争いは厳しい。


アキは記録端末を閉じた。


「出すか……もう少し待つか」


待てばまだ伸びる可能性はある。


あと数週間あれば弱点を一つ潰せるかもしれない。


スタートも改善できる。


コーナーも。


終盤の失速も。


しかしいくら練習しても、本物のレースでなければ分からないこともある。


相手が横にいる。


観客がいる。


実況がある。


スタートの緊張。


周囲の足音。


自分の順位。


そして最後の数十メートルで感じる「勝ちたい」という感情。


それらは練習では完全には再現できない。


「……難しいな」


「何が難しいんですか?」


突然後ろから声がした。


アキが振り返る。


そこにいたのはサヤカの担当コーチだった。


経験豊富な佐藤主任。


「聞いてましたか」


「少しだけね」


コーチはアキの隣に立ち、トラックを見る。


「デビュー戦で迷ってる?」


「はい」


「出すこと自体には問題ない。でも、たぶん勝てない」


「そう思っています」


「それで悩んでる?」


「……勝てないと分かっていて出す意味がどこまであるのかなと」


佐藤主任は少し考えた。


「じゃあ聞くけど」


「はい」


「デビュー戦で勝てなかったら、その子に何が残る?」


アキは考える。


「……経験?」


「そう」


「でも負けることで自信をなくす可能性もあります」


「あるね」


「だったらもう少し準備してから……」


「それも正しい」


意外にも否定されなかった。


アキが顔を向ける。


佐藤主任は続ける。


「だから答えはその子によって違う」


「……」


「『デビュー戦だから出す』『負けそうだから出さない』。その二つだけで考えちゃいけない」


アキは黙って聞いている。


「その子にとって今のレースは何のためなのか。それを決めるのがコーチだよ」


「……目的」


「そう」


佐藤主任はトラックを走る選手を見る。


「例えば勝負になる位置まで来てから最後に失速する選手なら、本番でどうなるか見てみる価値がある」


「はい」


「スタートが苦手なら、実戦で周囲に囲まれたときにどうなるか確認できる」


「はい」


「逆にまだ身体の使い方が安定していないなら、急いで出す必要はない」


アキは頷く。


「つまり……」


「出すか出さないかじゃない」


佐藤主任がアキを見る。


「今のその子にとってレースに出ることで得られるものがあるかどうかだ」


その言葉を聞いてアキはもう一度担当選手を見る。


練習では最近かなり良くなっている。


以前なら途中で焦っていた。


今は自分のペースを維持できる。


コーナーではまだ不安がある。


だがそれも致命的な問題ではない。


そして何より。


「……本人は出たがっています」


「ならなおさら聞いてあげた方がいい」


「本人に?」


「当然だろう」


佐藤主任は笑った。


「選手はコーチの所有物じゃない。走るのは本人なんだから」


その言葉にアキは少し考え込んだ。


そして担当選手を呼んだ。


「ちょっといい?」


「はい」


「デビュー戦についてなんだけど」


選手は少し緊張した表情を見せる。


「……出たいです」


即答だった。


「勝てるとは思ってません」


「……」


「でも今の自分がどこまで通用するのか知りたいです」


アキは黙って彼女を見る。


「負けたら悔しいと思います」


「うん」


「でも……走らなかったら、もっと悔しい気がします」


アキは少しだけ笑った。


「分かった」


担当選手が顔を上げる。


「出よう」


「はい!」


「ただし勝つためだけのレースにはしない」


「……?」


「今回の目標を決める」


アキは端末を開いた。


「スタート後の位置取り」


「コーナーで焦らないこと」


「最後までフォームを崩さないこと」


一つずつ確認していく。


「順位は結果として受け止める。でも、この三つを実戦でできたなら、今回のレースには意味がある」


「はい!」


「そしてもし本番で課題が見つかったら――」


アキは笑った。


「それを次の練習で直す」


選手が頷く。


佐藤主任も黙って見ていた。


やがてアキにだけ聞こえる声で言った。


「いい判断だと思うよ」


「……ありがとうございます」


「ただし」


「はい?」


「一つだけ覚えておいて」


佐藤主任は真剣な顔になる。


「デビュー戦は選手を評価するためだけのものじゃない」


「……」


「コーチ自身が評価される場でもある」


アキの表情が変わる。


「レースの後に、『負けたから駄目だった』と言うのか」


「それとも――」


佐藤主任はトラックの向こうを見る。


「『この子にはこういう力がある』と何か一つ持ち帰れるのか」


アキはしばらく黙っていた。


やがて端末を閉じる。


「……分かりました」


その日の夕方。


アキは出走申請を提出した。


デビュー戦に出る。


おそらく勝つのは簡単ではない。


もしかしたら予想通り負けるかもしれない。


それでも出る。


ただ「経験になるから」ではない。


今の彼女にしか得られない経験があると判断したからだ。


そしてアキ自身にとってもこのレースは一つの試験だった。


選手を勝たせることだけがコーチの仕事ではない。


いつ走らせるのか。


何を経験させるのか。


いつ待つのか。


そしてどこまで選手を信じるのか。


アキは初めて、自分自身もまたコーチとしてレースに立つような感覚を覚えていた。

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