07話 競技傷害
デビュー戦の翌日
風環総合アカデミーの講義室。
サヤカは席に座りながら窓の外を何度も見ていた。
競技場が見える。
トラックも見える。
そして――走っている生徒たちも。
「……走りたい」
小さく呟く。
昨日の2着がまだ頭から離れない。
あと少しだった。
届かなかった。
あの最後の数十メートルを何度思い返しても悔しい。
それなのにコーチから言われたのは、
「今日は完全休養」
だった。
身体の状態を整えるため。
疲労を抜くため。
そして次の練習に備えるため。
理屈では分かっている。
でも負けた直後だからこそ走りたかった。
もう一度走れば何か分かる気がする。
昨日の自分より速く走れる気がする。
そんなことを考えていると、講師が教壇に立った。
「今日のテーマは競技傷害です」
教室の空気が少し変わった。
「皆さんは走ることを楽しいと思っているでしょう。もちろんそれは大切です。しかし走者競技は身体能力の限界近くまで身体を使う競技でもあります」
大型モニターに競技場の写真が映る。
続いて人体の骨格図。
脚。
膝。
股関節。
骨盤。
脊椎。
「走者族は非常に優れた走能力を持っています。しかしだからといって身体が壊れないわけではありません」
講師は淡々と続ける。
「疲労骨折、靱帯損傷、腱の損傷、筋肉の断裂。重大な転倒事故では、骨盤や脊椎に損傷を受けることもあります」
教室が静かになる。
「そして最悪の場合――」
講師が一度言葉を切った。
「二度と競技として走れなくなることもあります」
サヤカの耳がわずかに動いた。
「これは脅しではありません」
画面が切り替わる。
実際のスポーツ事故について紹介する資料だった。
人間の陸上競技では、2015年、オーストリアの棒高跳び選手キラ・グルンベルクが練習中の事故で脊椎を骨折し、その後下半身麻痺となった事例がある。
講師は事故の詳細を必要以上に語らなかった。
ただ、
「競技者として高い能力を持っていても、一瞬の事故で身体が大きく変わってしまうことがあります」
と説明した。
「だから私たちは速く走る方法だけではなく、壊さずに走り続ける方法も学びます」
サヤカは黙って聞いていた。
頭では理解している。
分かっている。
でも――
走りたい。
その気持ちは消えなかった。
講義が終わる。
生徒たちが席を立ち始める。
サヤカも鞄を持って教室を出ようとした。
そのときだった。
廊下の向こうにアキがいた。
壁にもたれながらこちらを見ている。
何か言いたそうな顔。
サヤカは足を止めた。
「……何ですか?」
アキは少し迷ってから口を開く。
「今日は走らない方がいい」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってますって」
少し強い口調になった。
アキも表情を変えない。
「なら競技場には行かないこと」
「……行きたいんです」
「昨日負けたから?」
「それもあります」
サヤカはアキを見る。
「でもそれだけじゃありません」
「じゃあ何?」
「走りたいからです」
即答だった。
アキが黙る。
サヤカは少し苛立ったように続ける。
「昨日、負けました」
「うん」
「悔しいです」
「うん」
「だからもう一度走りたいんです」
「それで今日走ったら速くなる?」
「……分かりません」
「じゃあ何のため?」
サヤカの眉が寄る。
「……山田先生には分からないと思います」
その言葉にアキの表情が少しだけ変わった。
「何が?」
「走りたいっていう気持ちです」
「……」
「走れるのに、走らないなんて」
サヤカは言葉を探す。
「……変じゃないですか」
アキはすぐには答えなかった。
やがて静かに言う。
「変じゃない」
「じゃあ――」
「でも走りたいから走る。それだけでいいなら、コーチなんていらない」
サヤカの耳がぴくりと動いた。
「……何ですか、それ」
「昨日のレースを見て、俺は一つ気になったことがある」
「?」
「君はまだ自分の走りを全部使ってないんじゃないかと思ってる」
サヤカの表情が変わった。
「……私が?」
「まだ仮定だよ」
アキはすぐに釘を刺した。
「勘違いしないで。君に隠された特別な才能がある、とか、そういう話じゃない」
「……」
「ただ模擬レースと昨日のレースを見比べていると、少しだけ違和感がある」
「どこがですか?」
「それがまだ分からない」
アキは正直に答えた。
「だから調べたい」
「……」
「そのためにも今日は走らないでほしい」
サヤカは納得できない顔をした。
「それって……」
「何?」
「結局私に我慢しろってことですよね」
「そう」
「嫌です」
「……即答だね」
「嫌です」
アキは思わず小さく息を吐いた。
そしてサヤカを見る。
「じゃあ一つだけ聞く」
「何ですか?」
「昨日、ゴール前で何を考えてた?」
サヤカは黙った。
「苦しかった?」
「……はい」
「脚は?」
「重かったです」
「それでも?」
「……走りたかった」
アキの目がわずかに細くなる。
「そうか」
それだけ言ってアキは廊下の先を見る。
「なら今日は走る代わりに考えよう」
「え?」
「どうすればもっと速く走れるのか」
「……」
「走ることだけが練習じゃない」
サヤカは不満そうにアキを見る。
「なんか、ずるいです」
「何が?」
「走らせてくれないのに、走る話ばっかりするところ」
アキは少しだけ笑った。
「それはコーチだから」
「……嫌なコーチ」
「初対面でそれ言う?」
「だって、走りたいのに」
「知ってる」
その一言にサヤカは黙った。
アキもそれ以上は言わなかった。
二人の間に少しだけ気まずい沈黙が流れる。
まだお互いをよく知らない。
まだ信頼関係もない。
ただ一つだけ。
アキはサヤカの中に何かを感じ始めている。
そしてサヤカは――
自分の「走りたい」という気持ちを、この新しいコーチだけには見抜かれているような気がしていた。
「……明日は走っていいですか?」
「身体の状態を見てから」
「またそれですか」
「またそれ」
「……嫌なコーチ」
サヤカはそう言って歩き出した。
その背中を見ながらアキは小さく呟く。
「……でもやっぱり気になるな」
昨日のゴール前。
あの瞬間だけ見えたサヤカの走り。
まだそれが何なのかアキ自身にも分からない。
ただ――
もし自分の考えが正しければ。
サヤカはまだ本当の速さを知らないのかもしれない。




